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テモテの手紙第一4章13節ー16節

「この言葉とともに歩め」
どんな仕事に就こうとやるべき働きがあります。パウロもここで牧師の働きについて語るのです。そのひとつが礼拝での旧約聖書の朗読です。ひとりひとりが聖書を持てる時代ではありません。皆が字を読めるわけでもない。従ってエペソ教会の礼拝の場ではテモテが聖書を読み聞かせるのです。しかし朗読だけで済ませていいのではありません。聖書は解き明かされる必要があるのです。それを説教と呼ぶわけです。それが牧師の大切な勤めなのです。

それでは、教えとは一体なんのことでしょうか。これは信仰教育のことを指しているのです。特にこれから洗礼を受けることを望まれる方に対しての求道者への学びを意味するのでしょう。み言葉を教えるのです。説教であれ信仰教育であれ、み言葉に集中することが牧師の勤めの中心なのです。いずれにせよ、教会全体が聖書に強くなっていく時に、異端の教えがどれほど影響力があろうと混乱を招く事態にはならないと確信しているからです。

もっともこれは困難を覚える働きです。従ってパウロは自分の力でやり抜けなどとは決して命じているわけではありません。この勤めは聖霊の助けを仰がなければ到底果たすことのできないものなのです。聖霊の賜物を軽んじるなとあるのはそういうことです。教会の奉仕とは自分の能力に頼って進めてはいけないものなのです。自分の召しに忠実であろうとするとき、そこには折にかなった聖霊の働きを求めないといけないのです。

しかもみ言葉の奉仕とは決してそこから離れてはいけないものなのです。どこまでも続けるべきものです。今も昔もこの手の誘惑はつきものです。み言葉以外の別の何かでもって教会を建て上げていこうとする企てです。あるいは、み言葉以外の何かを求めて、それで人が集められることがあるのかもしれません。しかし、それをもはや教会とは呼べないのです。あくまでも神の民としての教会はみ言葉によって形成されていくのだと覚えたいのです。

ところが、み言葉の奉仕を担うことによって、そのみ言葉によって自分自身も成長していくことが起こります。奉仕は人を成長させるのです。それだけではありません。み言葉を聞くひとりひとりをも、救われた目的を最後まで全うできるように整えられていくことでありましょう。み言葉を軽んじてはいけない。自分を救い、教会を建て上げていくみ言葉にこれからも耳を傾けて、歩んでいくことができますように。

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