Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。…

Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。礼拝説教の要約、今まで作成してきた教会のデボーションガイドやエッセイなどを掲載していきます。写真の転載はお断りします。

マガジン

  • 説教要約集

    礼拝や各種集会での説教の要約です。

  • バイブルトレーニング

    クリスチャン向けの脳トレ。子どもから高齢者まで楽しく、聖書に親しみながら、ゲーム感覚で脳を活性化していきましょう。初級編、中級編各レベルが違います。

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    岡山県とキリスト教についてのエッセイ

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    福山とキリスト教についてのエッセイです。

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    サブカルや日常のあれこれをキリスト教の視点から書いています。

最近の記事

エゼキエル書14章

「のがれん」 人生には何が何でも逃げ切らないといけない事態があります。神は罪のおそろしさを誰よりもご存じのお方です。だからこそ、すぐに悔い改め、心を神に向き直し、罪からはなれるようにと望んでおられます。イスラエルの長老がエゼキエルに助言を求めても手放しでは喜べません。何故なら、彼らは偶像崇拝の罪を続けながら、二股をかけて神を求め、しかも自分に都合のいい助言が欲しいに過ぎません。神はその祈りに答えることはできません。 私たちも祈りがなかなか届かない現実を体験します。理由は幾つ

    • ヨハネの手紙第一2章22節ー23節

      「主イエスはキリスト」 ヨハネの時代の教会は異端の教えの流行に悩まされていました。ヨハネはこういう人々をはっきりと偽り者だと告げています。具体的にどこがどう偽りなのでしょうか。主イエスがキリストであることを否定するからです。実際、彼らは主イエスの受肉を否定し、十字架の贖罪をも否定します。その結果、罪の力も過小評価し、罪からの救いも強調しなくなるのです。しかし主は私たちを肉体ごと救うために肉体ごと十字架で死んで下さったお方です。 それでは、主イエスを認めないとどうなってしまう

      • 使徒言行録7章1節ー16節

        「栄光の神の約束」 最高法院に引き渡されたステファノは大祭司の前で説教を始めます。長い説教を何回かに分けて学びましょう。その殆どは旧約聖書に記されたイスラエルの歴史です。死刑が待つ裁判の席で悠長にも思えます。しかしここに彼の信じていることが告白されています。まず語られるのは族長アブラハムです。大切なのは信仰とは旅立つことだという点です。物理的移動とは限りません。今までの考えから離れて約束のみ言葉を信じて歩むことが信仰です。 土地を子孫に所有させる神の約束はありました。しか

        • ヨハネの手紙第一2章20節ー21節

          「油を注がれて」 自分の信仰について自信を失ってしまうことがあるものです。この時の教会がまさにそういう状態だったのです。もっとも無理もない事情はありました。今まで信仰の仲間だと思っていた親しい人たちが教会を離れていく痛みがあったのですから。そういう危機に、冷静でおれるはずがないのです。しかもこの人たちは、教会とは別の集団を形成し、これこそが最新の教えであって、高尚な哲学思想だから親切に教えてあげましょうとも吹き込むのです。 ヨハネはこの痛みと動揺の中にある教会に語り掛けてい

        エゼキエル書14章

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          130本
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        記事

          エゼキエル書13章

          「前を向いて」 災害に限りません。病気、人間関係、人生にのしかかる困難。生きていくには力がいります。エゼキエルの時代、預言者が真摯に神の言葉を語っても人々が聞こうとしないのにも理由がありました。にせ預言者と呼ばれる者たちが人々の間を歩き回り、まことしやかな甘い言葉で人々を唆していたからです。いつの時代もにせ預言は後を絶たない。にせ預言を喜んで聞いて受け入れる人々との共犯関係がある以上は。 目の前の困難が大きすぎると、人は現実に目を向けようとはしません。かえって自分の課題や弱

          エゼキエル書13章

          テモテの手紙第一4章13節ー16節

          「この言葉とともに歩め」 どんな仕事に就こうとやるべき働きがあります。パウロもここで牧師の働きについて語るのです。そのひとつが礼拝での旧約聖書の朗読です。ひとりひとりが聖書を持てる時代ではありません。皆が字を読めるわけでもない。従ってエペソ教会の礼拝の場ではテモテが聖書を読み聞かせるのです。しかし朗読だけで済ませていいのではありません。聖書は解き明かされる必要があるのです。それを説教と呼ぶわけです。それが牧師の大切な勤めなのです。 それでは、教えとは一体なんのことでしょうか

          テモテの手紙第一4章13節ー16節

          ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

          「終わりの時」 ヨハネは教会に対して終わりの時が来ていますと告げるのです。私たちは終わりを信じる信仰に生きているのです。なんとなく終わるのではありません。神が意志をもって終わらせるのです。ここから理解できるのは悪が支配する世界はいつまでも続かないという希望です。どんな苦しみにも困難にも終わりがあると言うのです。なぜならキリストの再臨によって神の国が完成するからなのです。これが教会がずっと大切にしてきた信仰なのです。 但し、世界がだんだんよくなって終わりが来るわけではありませ

          ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

          使徒言行録6章8節ー15節

          「恵みと力に満ちて」 教会で起こった問題解決のために新しく7人の奉仕者が選ばれました。聖書はその中のひとりステファノの活動に光をあてます。彼は恵みと力に満ちていたと紹介されています。同時に彼は信仰と聖霊に満ちてもいましたし、知恵と霊にも満ちています。即ち、信仰も力も知恵も自分で得たものではないのです。すべて聖霊によって与えられたものだと説明されているのです。この聖霊こそがしるしと不思議を伴う目覚ましい伝道を可能にするのです。 伝道の働きとは決して自分の能力やがんばりに頼って

          使徒言行録6章8節ー15節

          ヨハネの第一の手紙2章15節ー17節

          「神の御心を行う人」 神の家族としての恵みや特権をヨハネは語ってきました。そのうえで、クリスチャンはこの世において具体的にはどのように歩んでいけばいいのかについて助言をしています。世と世にあるものも愛してはいけないとヨハネは言うのです。世を愛するなら父なる神の愛はその人の内にないとまで言われています。しかし考えてみると妙な話ではないでしょうか。ヨハネは福音書において神は世を愛されたとあるではありませんか。 あるいは主イエス自身があなたがたは世の光になりなさいとお命じになられ

          ヨハネの第一の手紙2章15節ー17節

          ヨハネによる福音書21章1節ー14節

          「主は岸辺に立たれた」 復活の主に出会った弟子たちは故郷ガリラヤに帰ります。湖での漁は主から使命を託された伝道と重ねられています。しかし不漁でした。伝道の成果が何一つ見られないのです。悪条件の厳しい時代です。ガリラヤ湖がローマ皇帝ティべリウスの名前で呼ばれる状況。しかし、復活の主はそこにおいでになられます。私たちが調子がいいから主が来て下さるのではありません。立ち直れない挫折の中に何度もおいで下さるのです。 私たちは主の復活を頭ではわかっています。しかし復活の事実が生活の現

          ヨハネによる福音書21章1節ー14節

          ヨハネの第一の手紙2章12節ー14節

          「神の家族」 ヨハネは教会を神の家族と考えています。だから教会のあらゆる世代に向けて、子たちよ、父たちよ、若者たちよと呼びかけます。まずは子どもに対してです。子どもである以上は親がいるわけです。神を父と呼べる交わりの中にいれられたのです。それは偏に主イエスの名で罪が赦されていることによるものです。主イエスによって父なる神を知ったと言っていいでしょう。この方のもとに神の子として成長していくのです。 さらに父たちに呼びかけます。実際の父親という以上に、ここでは信仰の先輩を指すの

          ヨハネの第一の手紙2章12節ー14節

          ヨハネの第一の手紙2章9節ー11節

          「原因と結果」 自分がどこにいるのかを確かめておくことは大切です。自分は光の中にいる。これが異端の人たちの言い分でした。特別な啓示の光を受けたと言うのです。ところが、実際は兄弟を憎んでいる。その姿が光の中にいると言えるのだろうか。むしろそれは闇に留まっている状態ではないかとヨハネは指摘しているのです。相変わらず相手を憎んだり、争ったりしているとするなら、自ら闇の中にいることを露呈しているようなものなのです。 闇の中に留まろうとするなら何が起こるのでしょうか。目を閉じて歩くこ

          ヨハネの第一の手紙2章9節ー11節

          マルコによる福音書14章1節ー11節

          「彼女を記念して」 主は重い皮膚病を患う病人の家で食卓を囲まれます。これが主イエスの地上での最後の日々の一コマです。主は地上の歩みの最初から最後まで社会が見捨てた者とともにおられたいと望まれます。主イエスだけは私たちを見放しも見捨てもされません。 それどころか主は愛する者に全てを捧げようとされます。女性が高額なナルドの香油を惜しげなく全て主に注ぐのも主の自分への愛に感動してです。1年分の給与に匹敵する香油です。無断な浪費と言うなら、その通りです。しかし主への愛は損得勘定の計

          マルコによる福音書14章1節ー11節

          ヨハネの手紙第一2章7節ー8節

          「新しい掟」 ヨハネは神の掟がなんであるのかを改めて語ろうとしています。ここで語られる掟とは主イエスが最後の晩餐の席で語られた新しい掟のことです。互いに愛し合うことなのです。ところが新しい掟ではなく、古い掟だとも言われているのです。一体どっちなのだと首をかしげたくなるかもしれません。実は教会は既にその言葉をよく聞いていたのです。初めて聞く言葉ではなかったのです。そう言う点で古い掟と言っても決して間違いではないわけです。 しかし、すでに聞いたことのある言葉だからもういいでしょ

          ヨハネの手紙第一2章7節ー8節

          使徒言行録6章1節ー7節

          「教会が大切にするもの」 私たちは時間の中に生きています。今日の話も「そのころ」と語り出されます。実はこれは教会が新しい段階に入ったことを表す言葉なのです。一体、何が起こったのでしょうか。信徒数の増加です。しかも文化の異なる違う言葉を話す人たちが増えるにつれて教会に問題が発生したのです。身寄りのない女性たちの中に日々の配給がおろそかにされる人が出てきました。教会はこの問題に真正面から取り組む必要が出てきたのでした。 現代にも同じことは言えます。教会に起こる問題は必ずしも誰か

          使徒言行録6章1節ー7節

          エゼキエル12章1節ー28節

          「原因はどこに」 問題が起きた時。安易な解決方法に頼ってかえって事態を悪化させることがあります。エゼキエルがからだを使った無言の象徴行為で伝えたメッセージがまさにそうでした。神の奇妙な命令は預言者がわが家の荷物を外に運び出し、家の壁に開けた穴から、荷物を背負い、顔を隠して夕闇に紛れて外に出るようにと言うものでした。一体何事かと人々は思ったことでしょう。実はこれは今後イスラエルに起きることを伝えた預言なのです。 バビロンがエルサレムに攻めてきた時。エルサレムのゼデキヤ王は、大

          エゼキエル12章1節ー28節