登るだけが人生じゃない
先日、山登りに行ってきた。
天気も良く、せっかくの休日に家で引きこもっているのは勿体無いと思い、前から気になっていた山に登ることにした。本当は友人から今度登ろうね、と誘われていたけれど体も動かしたかったし、何より自然を感じたかった。
登山入口には、お地蔵さんと祠が立っていたので、安全を願ってから登山開始。
始めは舗装された道が続いていて、途中から本格的な山道に入った。木の根っこや、少しぬかるんだ道に足を取られながら登っていく。
優雅に景色を眺めながら登っていたけれど、もう景色を楽しむ余裕なんてなかった。
急な勾配が続き、運動不足なわたしにとってはかなりしんどく、途中で何度も休憩を挟まなければ登りきれなかった。
元運動部だったけれどしんどい。でも部活で鍛えていなければもっとしんどかった。
細い山道だけどすれ違う人も結構いて、その度に「こんにちは」とお互い挨拶を交わした。地上を歩いていたら挨拶なんて交わさないのに、山を登るとみんな挨拶をしてくれる。そのことがわたしを嬉しくさせ、励ましにもなった。
しかし、登っても登っても終わらない勾配。息が苦しくて何度も引き返そうかと思ったが、ここまできて引き返すわけにも行かない。もう、自分の足元を見るので精一杯だった。
歩くこと40分、ようやく頂上に着いた。
その景色は「圧感」だった。
登りきった者だけが見れる景色。諦めず、頑張った者のみに与えられる感動。
街全体を見渡せるほどの開放感と、登りきった達成感でしばらく動けなかった。
大げさかもしれないけれど、山登りは人生に似てるなと思った。
諦めず、ひた向きに努力した者だけが得られる感動と達成感。
高みにいる自分と地上にいる人との距離はかなり遠い。努力して一歩一歩確実に登ってきた人との差は大きいし、何もしなければその差はどんどん開いていく。わたしは登り続ける側にいたい、そう思った。
登り続けるのにもコツがあって、ただがむしゃらに登っていれば必ず限界が来る。体力の限界を無視して登り続ければ、そのツケがどこかに回ってきて登ってきた時間と同じ時間休憩を取らなければならなくなる。
人生にも同じことが言えて、何事もがむしゃらに頑張りすぎると、その反動で必ず長い時間休むことになる。その間に、体のどこがが悪くなったり心が壊れたりして上手くバランスが取れなくなるのだ。
山登りなら、多少無理をして登っても休憩を挟めばまたすぐに登り始めることができるが、これが病気だったり怪我になるとすぐには動けない。治るには、がむしゃらに頑張った時間以上の時間がかかるかもしれない。
だから、限界まで頑張ってはいけないのだ。
山道は険しい。人生も山道のように険しいものだから、自分のペースで一歩ずつ進んでいこう。それは小さくてゆっくりな一歩かもしれないけれど、確実に前に進んでいるし、何より無理のないペースで進んでいけることが大事だ。
その先に待っている景色を見るために、明日もまた進んでいこう。
おまけ
山道を下って舗装された道のある場所まで戻ってきた時、行きとは別のルートで帰ろうと思い、舗装されていない方の道を歩いた。人は全然歩いていなかったけれど、自然がものすごく綺麗でやっぱり自然の生きる力ってすごいと改めて思った。
途中でコンクリートの筒?のようなものを見つけて、中を覗きたくなり見てみると昔使われていた井戸のようだった。
最後に案内板を見て帰ろうとした時、後ろから「今登ってこられたんですか?」と声をかけられた。その人は、いつも山に登りたいとは思っているけれどまだ登ったことがなく、ちょうど降りてきたわたしにどんな具合だったのか聞きにきたらしかった。
わたしが、「結構きつかったです。でも、小さい子供とかも頂上まで登っていたので大丈夫だと思いますよ。無理そうだったら途中で引き返してくればいいですし〜。」というと、
「そうですよね。実際登ってみないとわからないですもんね。」と言っていた。
いつか一緒に登れたらいいな〜と思っていると、
「あそこ覗いてましたよね?あの貞子が出てくる‥‥」
「もしかして井戸ですか?」
「そうです!わたしもあそこ覗いたことあって、同じことしてる人がいるー!と思って声かけちゃいました笑」
「えぇぇ!そうだったんですか笑笑」
まさか自分と同じことをしている人がいるなんて‥それよりも見られていたれていた事がとんでもなく恥ずかしかった…。
自分と似た人に会えて嬉しかったし、山登りの疲労感で今夜はぐっすり眠れそうです。
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