甘いタリウムは必然の香(21)

 第五章 ホームズ倒れる

  1.穏やかな喫茶店


 十月三十日、有田は二週間ぶりの休暇を昼前までの睡眠で鋭気を補充した。
 以前は、捜査本部が立ち上がると、一か月単位で自宅に帰れないのは当たり前だったが、最近は『働き方改革』の恩恵なのかあおりなのか、二週間に一度は強制的に休暇が与えられる。

 休暇とはいえ、じっとしていられない有田が、ホームズを訪ねると留守だった。
 有田が預かっている合鍵を使って事務所に入ると、中は綺麗に片づけられていた。乱雑に貼り付けられていた壁の写真や資料も戸棚に整理されていることから、いつもの『巣ごもり完了』を意味するものに違いなかったが、暖房の入っていない事務所は冷え冷えとしていた。
 休日らしくチノパンとポロシャツの上からスイングトップを羽織っただけの有田は、ベイカー街でホームズの帰りを待つことにした。

『いらっしゃい』

 カウベルに反応したマスターと美里が、声をそろえて迎え入れてくれる。
「あれ? 今日は未明君ひとりなの?」
 有田の後ろに、てっきりホームズがいると思っていたのであろう美里は、あからさまにガッカリした声だ。
「ホームズが帰ってくるのを待たせてもらうよ」
 いつものカウンター席に腰を下ろした。


 日曜日の午後なのに他に客もおらず、時間が止まったかのようにノンビリしているベイカー街は、疲れ切っている有田でなくても癒される。

 マスターが注文も聞かずに、コーヒーの準備を始める。有田お気に入りのスペシャルブレンド豆を二杯、グラインド式ミルに投入する。ホッパーの蓋は完全に閉めずに右手で持ったまま、隙間に神経を向けてスイッチを入れる。マスターの熟練の技で、豆の挽き加減を音と香りで確認しているらしい。
 慣れた手つきで布製ろかフィルターをセットし、ろうとの先から出てきたチェーンを引っ張ってフィルターを固定する。既に一杯分の水で満たされているフラスコにろうとをしっかり刺すと、ミルの受缶から直接粗く挽いた粉末コーヒーを入れる。ここまでわずか三十秒足らずの作業は流れるようにスムーズだ。
 サイフォンバーナーに点火すると、ほどなくフラスコの水がポコポコと煮立ち始める。ろうとが吸い上げるようにお湯が移動し、粉末コーヒーを蒸しながら上へ上へと押し上げ、やがてろうとの中で踊り出す。フラスコの中のお湯がすべて吸い上げられる直前で、炎とフラスコの距離を調整しながら、コーヒーが踊るのを鎮めるかのようにバースプーンで手際よく撹拌する。
 有田の好みが濃く苦めのコーヒーだと知っているマスターは、普段よりも長くろうと内に留めてくれる。サイフォンならではの微妙な調整が可能で、慎重に濃さを見ながら撹拌するマスターの慣れた手つきは何度見ても芸術的で美しい。
 バーナーの火を落とすと、やがて緩やかにフラスコ内へとコーヒーが降りていく……。最も心が躍る瞬間だ。

 コーヒーを淹れ終えたマスターは、静かに有田の前にコーヒーカップを置くと、美里にクリームパフェの作り方を伝授している。ひとりで訪れている客に、あれやこれやと話しかけないのも、この抜群に美味いコーヒーを味わうための欠かせないアイテムなのかもしれないと有田は考えた。

 マスターは、少しゆったり目のシャツと綿パンの上から、焦げ茶色の長いエプロン姿といういつもと同じ服装で、いつ見てもダンディだ。有田は「こんな風に歳を重ねたいものだ」と常々思っている。
 美里も白いシャツにジーンズ姿で、焦げ茶色のエプロンはマスターとお揃いのものだろう。さらにその上から得意げに肩に巻いているのは、ホームズから誕生日プレゼントとしてもらったピンク色のケープだ。ホームズとお揃いなだけで幸せそうな顔をしている美里を見ていると、こちらまで幸せな気分になれる。

 ベイカー街の店内は、入口のドアを入った並びにカウンター席が六つ、その後ろに四人掛けのテーブルが六台あるだけの、決して大きな喫茶店ではないが、昭和レトロ調な雰囲気に惹かれて訪れる常連で賑わうこともある。有田は、こんなときにしかゆっくりと店内の観察ができないとばかりに、木の温もり漂う店内を見渡した。
 マスター自慢のカウンターテーブルは、アメリカンブラックチェリーの一枚板で、関東一円の銘木店を回って、やっと見つけたお気に入りの一枚だと聞いたことがある。なんでも、このカウンターテーブルに合わせて店内の配置や内装を決めたというから、思い入れの強さがよくわかる。
 カウンタースツールからもこだわりが感じられる。北欧調の木製だが、座面や膝後ろのアールが絶妙で、長い間座っていても疲れない優れものだ。
 カウンター席の正面の壁には、いろんな種類のコーヒー豆を保管している棚がある。昔の薬問屋のような木製の引き出しに、その日使う分だけのコーヒー豆を入れている。モカやキリマンジャロなどの他に全部で八種類あるが、有田はここのスペシャルブレンドが一番のお気に入りだ。マスターオリジナルの配合により酸味と苦みがぶつかりあって生まれる美味しさは、淹れたての熱々なときはもちろん、飲み干す直前の少し冷えたくらいでも最後まで薫り高く飲むことができる。

 カウンター席の一番奥がホームズのお気に入りの席で、その隣がいつも有田の座る席だ。他に先客がいない限り指定席のようになっている。カウンター内部からの続きに厨房があり、長い暖簾のカーテンで仕切られている。
 テーブル席は、よく見るとひとつひとつ違う形や造りをしているが、統制がとれていてバランスが良い。椅子もテーブル毎に違っているのに、違和感がないように計算して配置されているためか、ひと目見ただけでは違っていることに気づかないほどだ。
 ホームズが『捜査会議』と称して利用する一番奥のテーブル席は、一本足に頑丈な天板がどっしりと鎮座している感じで、ホームズお気に入りのテーブルだ。木目が美しく、ツヤもあって、有田もこのテーブルには愛着がある。難点といえば、奥の座席に座った人が席を立とうとするには、手前の人も席を立たないと出ていけないところだが、狭い店内に効率的に配置されている喫茶店としては仕方のないところだ。
 カウンター席と各テーブルには、紙ナプキンとシュガーポットが置かれている。窓辺に並んだ三つのテーブル席の脇は出窓になっていて、木目のテーブルに良く合う茶系のレースカーテンが斜めにかかっている。これだけ茶系統の色合いでありながら店内が暗く感じないのは、大きな窓の配置によるものだろうが、夜になっても絶妙なライティングが計算されているせいでもある。

      (続く)

今回ほとんど台詞がないですね。(汗)

情景描写だけってのはいかがでしたか?

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