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『私』は他者がいるから確定する


生物学者の福岡伸一先生がよく言っていることの中に、『細胞はまわりの細胞によって決まってくる』というようなことがあります。

正しく引用できていないかもしれませんが、つまるところ、私たちの身体を構成している細胞の一つ一つは " なににでもなれる存在 " であって、それは皮膚にもなり得るし、骨にもなり得るし、内臓にもなり得るという、もともとは不確定なものであるってことですね。

『まわりの細胞によって決まる』というのは、隣にある細胞と空気を読みあって、自分を確定させていくということです。

細胞一つ一つが『おれは心臓になる!』という意志を持っていたら、やたらと心臓に細胞がたくさん集まってしまうことになるので、全体としては機能しなくなってしまうのですね。


↑こちらとても読みやすくてオススメです。



これは私たちの社会にも当てはまる要素があるかもしれません。

もし仮に、私たちの細胞が集まって生み出された私たちの身体と、私たち自身が集まって生み出された社会というものが、フラクタルな構造であるとしたら、私たち自身は『まわりの空気を読みあって、自身を確定させていく』という性質があるのかもしれません。

それはどういうことかというと、他者が存在して、その他者との関係性の中に自分というものが存在している可能性があるということですね。



近頃の価値観として『私はなにをしたいのか?』という問いかけが、SNSやビジネスの領域などで多く見かけられます。

でももし、私たちの自己というものが、他者との関係性の中でしか存在しないのであれば、自らの意思を持って何かになろうとすることは、とても難しいことなんじゃないかなと思います。

細胞の中には、まわりの細胞との空気を読むことができずに、何ににもなれない細胞というものがあります。それはガン細胞。

ファンタジーを含むトンデモ解釈になるかもしれませんが、このガン細胞はもしかしたら意図的に何かになろうとして、他者との関係性を絶ってしまった、何ににもなれない存在なのかもしれません。



となると、私たち自身も他者との関係性というものを考慮することなく、『私だけ』で完結しようと思考した結果、誰とも繋がることができずに関係性が築けない状態、ガン細胞のような孤独な状態になってしまうのではないかと。

逆にこれを解消するためには、自己存在は他者との関係性によって決まってくるものであり、自身の意図によって確定させてしまうのではなく、ある意味行き当たりばったりで決まっていくという価値観を身につけていくことなのかなと思いました。

あくまでも、比喩を使った抽象理解ということで、ファンタジーだと思って、受け取ってもらえたらと。




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