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Uncle Elephant

「リンゴは?」「アップル」
「猫は?」「キャット」
「じゃぁこれはどうだ? 鉛筆」「ペンシル」
「象」「・・・・・・わかんない」
「エレファント、象はエレファントだ」

Nさんはうちの近所に住んでいる、
父と同じ工場で働いているおばさんだった。
Nさんのご主人は、貿易関係の仕事をしていて
外国にもよく行くという、物知りなおじさんだった。
私は優しいNさんのおばさん、おじさんが大好きで、
月に一度か二度、父と一緒に家に遊びに行くのが楽しみだった。
Nさんは父よりだいぶ年上の人で
私が英語遊びをしてもらってた幼稚園児の頃にはもう50代だったと思う。
Nさんには子供が3人いたがみんなもう大きく、それぞれ独立していた。
Nさんは私にお兄さん、お姉さんが読んでいた本を沢山くれた
(それだけでなく、新品の本もことあるごとにプレゼントしてくれた)。
児童文学、絵本、学習漫画......なかでも一番の私のお気に入りは
子供向けの図鑑や百科事典だった。特に世界の国々や、歴史の本は、
ボロボロになって中身を暗記するくらい読んだ。

本で読んだり、Nさんのおじさんが聞かせてくれる
「よその国」の話に私は夢中になった。
テレビや本で、初めて耳にしたり目にした国の名前を
ノートに書いたりもした。
「ちゅうごくはちかくて、アメリカはとおい。メキシコやブラジルは
もっともっととおい」
今でこそ誰でも気軽に海外に行け、世界中のものが簡単に手に入る時代だが
当時は「いろいろな国に行った人」というのは子供の私からしたら
ものすごく憧れの対象だったし、
「舶来品」という響きには独特のロマンがあった。

小学校に上がるとき、Nさんは私にランドセルと腕時計を
プレゼントしてくれた。
Nさんはまるで我が子のように私を可愛がってくれたのだった。
辛かった子供時代にあって、優しくしてくれた大人のことを思い出すと
真っ先に浮かぶのはNさんのおじさんとおばさんの笑顔なのだ......。

小学校に入って少しして、新しい友達の家に遊びに行った。
その子の家はきれいで大きく、子供部屋やお父さんやお母さんの部屋、
おばあちゃんのお部屋まであり、
6畳一間で家族4人と暮らす私にとってはお城のように見えた。
そして、最新式のくるくる回すと高さが変わる勉強机の隣にある
本棚の上にはピカピカの地球儀があった。
今思えば、入学のお祝いに誰かが贈ってくれたものなんだろう、
とにかくきれいで、そしてなんといっても地形が立体になっていて
立派なものだった。
こんな地球儀を見たのは初めてで、触っていい?と
聞きたくてもなんだか聞けなかった。
それぐらいすごいオーラを放っていた。

ちらっと見た友達の地球儀には自分の知らない国の名前が
いっぱい書いてあった。
うらやましくてうらやましくてしょうがなかった。
あれほど大好きで毎日読んでいた図鑑や事典を、
その日は見る気になれなかった。
地球儀に書いてあった知らない国の名前を覚えて、
帰り道で呟きながら歩いたけど沢山すぎたし、
うらやましさがこみあげてきて家に帰ったときにはもう
1つも覚えていられなかった。
「今度のクリスマスに、地球儀がほしい」とはもちろん言えなかった。
そんなものあってもしょうがない、そんな高いものは買えないと
言われるのが分かっていたからだ。

もっと大きくなっても、地球儀は手に入らなかったけど、
学校の授業で地理をやるようになり、地図帳が私の宝物になった。
小学3年生の頃には、すべての国の国旗と首都を覚えてしまっていた。
「ユーゴスラヴィアやチェコスロヴァキア、トルコや西サハラにも
行ってみたい」

私が中学に入った頃、世界情勢が大きく変わっていった。
ある日国語のO先生は教室に入るなり
「今日は......授業より大切なものを見た方がいい」と言って
教室のテレビをつけた。
ちょうどその頃は、ベルリンの壁が崩壊したニュースで持ちきりだった。
今なら授業をしないで関係のないテレビを見せたら
問題になるのだろうけど。
「世界で何が起こってるのか、きちんと見るべきだ。
どうしてこうなったのか、表面的なことだけではなく、
自分で考えることのできる人になってほしい」と先生は言った。
O先生は私が尊敬できる大人の1人で、
3年生のときには担任になってとても嬉しかった。
「何が起こってるのか、この目で見たい。
できれば本や、テレビや人づてでなく、自分のこの目でこの足で」
中学卒業前に、ソ連も崩壊した。
Nさんのことはたまに思い出すくらいの存在になっていた。

私が外国に行けるチャンスは、思っていたよりずっと早くに訪れた。
高校生の頃、アメリカに研修旅行で渡航する機会を得たのだ。
しかも、かかる費用もすべて主催者が負担してくれた。
学校を早引きし、父と港のそばにあるパスポートセンターに行き
パスポートを申請しに行った。
当時は県内に一か所しかセンターはなく、土日は閉まっていたのだった。
うちにはスーツケースなんてものはない。
でもたった一度の旅行のために決して安くはない大型のスーツケースを
買ってくれとは親には頼みづらかった。
第一、買ってもそんなものをしまっておく場所など家にはなかったのだ。

渡航1週間くらい前に、父がスーツケースを引いて帰宅した。
それはNさんから借りてきた、大きくて傷だらけのスーツケースだった。
新品が欲しくなかったと言えばウソだけど、
その傷が、旅行慣れしてる感じでなんだかカッコよかった。
「このスーツケースはアメリカやイギリスに、
ひょっとしたらブラジルにも、きっと何度何度も行ったのだろう」
象はエレファント、と教えてくれたおじさんのことをとても懐かしく
感じていた。

アメリカでは色々なものを観た。
3週間、毎日沢山の場所を見学した。美術館や博物館、
国会議事堂にFBIやホワイトハウス。
ニューヨークではミュージカルやヤンキースの試合も観た。
研修の後半はアメリカの高校生と大学の寮で生活をして、
ある日の夕方に町の小さな映画館にみんなで行った。
そのとき上映されていたのは『依頼人』と『フォレストガンプ』だった。
アメリカ人生徒の中に母親が日本人で少し日本語が喋れる子がいて、
映画の内容を説明してくれた。
「フォレストガンプは、少しバカな人が走って有名になる話」
うーん? なんだかあまり面白くなさそうだね、と
多くの日本人生徒たちが『依頼人』を観ることにしたが、
さすがに英語の不自由なわれわれには難しすぎ、
フォレストガンプ組が「ものすごい良かった」と口々に
言いながら出てくるのを見て、恨めしく思ったのだった。

何はともあれ、初めて海の向こうに行き、海の向こうの言葉で会話をした。
短期間ではあったが、家を離れてのびのびと過ごせたのはよかった、
そこでは理不尽なことで怒る大人はいなかったしね。
日本に帰ったらまたあの地獄に戻らねばならないので、
せめての間、精一杯楽しもうとした。
もう、しばらく外国などに行かれるチャンスなどないのだろうから。

翌年、大学に入学したが
母が奨学金を遣いこんだので退学を余儀なくされて
借金だけが残り、返済と家を出るためにがむしゃらに
昼も夜も働いて働いて.........
無事一人暮らしをしてからもそういった生活をしていたが
母の借金取りが昼間の会社に来て、事実上クビになった。
その後も母に家に押しかけられ、騒ぎを起こされたりもした。
私の中で何かがプツっと切れた。
まともな人生はどうせ歩めないだろう。ならば好きなことをしてやろうと思った。

私はそれから、あちこち旅をした。
旅行をするためだけに働き、旅行をするために生きる。
将来のことなんてロクに考えもしなかった、とにかく生きたいように
生きた。
その後は『愛はかげろうのように』のような人生になるべくして
なってしまったが、後悔なんてしていない、
いや、している、どうせならもっとはちゃめちゃやっておけばよかったと。

・・・・・・私は、ベルリンの壁を見た。
ネフスキー大通りを歩いた。
ユーラシア大陸の果てまで行った。
初めてモナリザを観た日の夕刻、カルチェラタンで待ち合わせをした。
イェルサレムで語り合った人とは、イスタンブルで別れた.........
西サハラにはまだ行ったことがないどころか、
アフリカ大陸は未踏だけれど。
私はひょっとしてNさんより、沢山旅に行ったのかも知れない、
だって、私のスーツケースはあの時Nさんに借りたものより
もっともっと傷だらけなのだからね。
友達の部屋にあったあの地球儀に、
「モンテネグロ」は書いてあったかな。
もう、ユーゴスラヴィアはなくなってしまったよ。

しばらく地元には行ってなかったのだけれど
母が亡くなったときに久しぶりに帰って
厭わしくも懐かしくもある場所を歩いて回った。
『フォレストガンプ』の終わりの方、
ジェニーが子供時代に父親から虐待を受けていた家は取り壊したよと
フォレストがジェニーの墓に報告するシーンがあったけど、
家族4人で住んでいたあの忌まわしいオンボロアパートはなくなっていて
きれいな一戸建てが何軒か建っていた。
私には家を壊してくれるような人はとうとう現れなかった。

Nさんのアパートのあった場所は駐車場になっていた。
父にNさんはどうしているかと尋ねると、知らないという。
もう何年も前からあのアパートはないというのだ。
父の働いていた工場は私が家を出る少し前に倒産してしまい、
高齢だったNさんはそれを期にリタイアしたという話は
私も知っていたのだが、父がある日用事があって電話をしたところ、
「現在使われておりません」になっていて、
アパートに行ってみたらそこにはもう住んでいなかったということだ。
・・・・・・ああ、きっとNさんは、アメリカよりブラジルより、
もっともっと遠くに行ってしまったのかもしれない。
なにせもう、今の私はあの頃の父の歳を越えているのだ。

「エレファント、象はエレファントだ」
「エレ...?」
「ちょっと難しいか。うさぎは分かるだろう」
「ラビット」
「おおすごい、この調子なら今にアメリカに行けるぞ」
「いくつになったらアメリカに行けるの?」
「そうだなぁ、うんとお勉強してもっとおねえさんになってからだね」
「うんとおべんきょうすればもっと早くおねえさんになれるの?」
そばで聞いていたおばさんはただ、にこにこと笑っていた。