言語化

最近
巷でも「言語化」という言葉がはやっているように感じます

私もどちらかというと言語化は好きで(というかなんでもかんでも感覚主導、という感じがあまり得意ではない)
だからソシュールに興味があったりするのですが

「それでもどうしても
『言語』
というツールのみでは
すくいきれない物は、
生きていれば、確実に有る」

という事は前提としています。

そういうものはとりあえずそのままに、

できるものは、できる限りは言語化する努力をしたい
という意味で

言語や論理をもっと知りたいと思ったりします

でも
ソシュールは
多言語が堪能だ、とか、スピーチが上手い、論理のたて方が上手い、とかの意味の言語能力ではなく

そもそも
なにかしらの言語を使用する能力そのもの、
言語以前に
自分の体験や、目の前に起きていること、自分の心の中に起きているモヤ

などを

「これはこういう事で、あれとは違う」

定義するというか、分ける、というか自分なりに意味付けるとかいう行為をする能力

の事を言っていて
だから言語能力とは別に、「ランガージュ」というワードを新たに作ったのだと解釈しています

(だから昔のかたがたが雷がすごかったときに
「神はお怒りだー」として、捧げものなどしていたのも、対処できない事に何かしら意味付けしようとしてたことだと思うので
それは非論理的、では片付けられず、ランガージュ能力あっての事かと)

なので
例えば
自分的に自分の体験を、
それが「受け入れがたい」

そのときは意味付けしてしまった事などを

ずっと
否定したり、なかったことにムリヤリしようとしたり
とかでなく

後日
自分に新たに違う意味をおとし仕込めたり、自分なりに消化する試みをする能力
が、(が、というより「も」かも)
人間にはありますよ

という事だと思いますが

でも
そう簡単にはいかないものもあるわけで

なので

1度言語化して納得して終わり、という話ではないこともあると思いますので

なんでもかんでも
さくっと表現すれば、言語化が上手い、とかそうでなければ下手、とかの
話になるのは

それはそれでどうなんだろうと思ってしまう昨今の言語化ばやり(に見える)ですが

ある体験の、言語化や言語でなくても、絵でも音楽でも
表現が優れていれば
それが
他人にも共感や追体験などで何かしらの癒しを呼ぶ
という意味であれば

長く残る芸術作品、文学作品などは
そういう力があるのだろうなと思いますし

言語を使って、というジャンルなら

表現がシンプルで端的で美しいものは
胸や心に刺さりやすい
メロディつきで響きも美しく
短いので脳裏で反復しやすい

詩や歌の歌詞なんかは
素晴らしいなあと思ってます

そういう意味で
言語化は好きです

という備忘録です




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