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生きられた超人─長嶋茂雄(4)(1992)

第3節 長嶋の守備
 さらに、長嶋の際立っている点として、守備によっても熱く語られるということがあげられる。これは四番打者においては極めて異例な話である。例えば、大下が外野守備によって語られることはないし、川上にいたってはファースト守備が揶揄の対象になるほどである。「荒武者」豊田泰光は、岡崎満義の『稲尾和久』によると、一九五八年の日本シリーズで、初めて、直接見た長嶋に守備に関して非凡なものを感じ、長嶋はそのハッスル・プレーでプロ野球を変えてしまうだろうと予感している。長嶋がニーチェだとすると、その豊田はキルケゴールであろう。岡崎満義の『中西太と豊田泰光』の中で豊田が語る「スランプ」はキルケゴールの言う「死に至る病」、すなわち「絶望」の完璧な解説である。豊田はさまざまなメディアを通じて、極めて示唆的な発言をしている。新たな価値に基づく倫理を考えるのなら、豊田の言説に耳を傾ける必要がある。長嶋は打つだけでなく、守備を含めたグラウンドでのプレーすべてにおいてファンを魅きつけるのである。

 長嶋が守備でも語られる理由は、サードというポジションにも関連している。「ミスター・タイガース」と呼ばれた藤村富美男は守備によっても語られる数少ない四番打者で、彼もサードである。日本では、サードと言えば、長嶋やその藤村だけでなく、鶴岡一人、中西太、有藤道世、藤原満、掛布雅之、石毛宏典、松永浩美らの名前があげられる。彼らは必ずしも守備だけでなく、打撃や走塁という面に関しても十分にアピールするものを持ち合わせている。サードは前後の動きが多く、一塁への距離もあり、内野の中で最もアグレッシブさが要求されることは確かである。最近のつまらない野球に対して、ホットコーナーの復権を叫ぶものがいるが、そこが注目されるのは実は日本的な伝統による。

 プロ野球草創期に活躍した、日本野球史上最高のセカンド苅田久徳は、高田実彦の『苅田久徳』によると、日本ではもともとライトとセカンドは下手なプレーヤーが守っていたが、大リーガーのプレーを見て、「内野の要はセカンドだ!」と気づき、これからはセカンドを重視していかなければならないとショートからセカンドへ自らコンバートしたと言っている。この時大リーグ・オールスターのメンバーとしてセカンドを守っていたのは、チャーリー・ゲリンジャーである。彼は生涯安打数は二八三九本、二塁打数は史上十位の五七四本、本塁打一八四本、終身打率三割二分、首位打者一回の大リーグの歴史の中でも屈指の名プレーヤーである。苅田の目は卓越していたと言うほかない。一九三一年に大リーグ史上一と評価されるフランキー・フリッシュが来日しているにもかかわらず、そのときは誰も日米のセカンドの違いを認識できなかったからだ。

 アメリカでは、吉目木晴彦の『二塁手の顔─顔のないポジション』によると、セカンドに名プレーヤーが集中し、サードは生涯打率三割二分のパイ・トレーナーを除くとこれといったプレーヤーが出ていない。大リーグでサードが注目されるのは、「掃除機」と呼ばれたブルックス・ロビンソンが登場してからのことである。その後、マイク・シュミットなどが現われ、サードも強打者のポジションとなっている。セカンドには近代野球最初の四割バッターであり、アメリカでのセカンドのイメージを決定したと言われているナポレオン・ラジョイ、生涯安打数史上九位の三三〇九本、シーズン三振数平均僅かに十一(ちなみに、三振をしないことで知られた川上哲治ですらシーズン平均は二三である)のエディ・コリンズ、史上最高のセカンド・プレーヤーの呼び声の高いフランキー・フリッシュ、四割二分四厘の二十世紀大リーグ最高打率など数々の輝かしい記録を持つロジャーズ・ホーンズビー、二十世紀初の黒人大リーガーのジャッキー・ロビンソン、六八九盗塁のジョー・モーガンといったそうそうたる名前が出てくる。日本のジャイアンツで一九七五年から七六年までの二年間プレーしたテイヴ・ジョンソンも、もともとはセカンドのプレーヤーである。彼の売り込み文句は「大リーグのセカンドのシーズン本塁打記録を塗り替えた男」だ。ジョンソンが一九七三年に四三本塁打を放つまでのその大リーグ記録は、一九二二年にロジャーズ・ホーンズビーが達成した四二本である。

 ちなみに、ホーンズビーはこの年打率四割一厘を同時に残すという驚異的な成績をあげている。ホーンズビーの実績を列挙すると、実働年数は一九一五年から三七年までの二三年、終身打率は三割五分八厘でタイ・カッブに次いで史上二位、長打率は史上八位の五割七分七厘、打率四割を超えること二年連続を含む三回、首位打者七回、打点王四回、三冠王二度と目も眩むような記録が並ぶ。三冠王に二度輝いたのも、ホーンズビーのほかには、最後の四割バッター、テッド・ウィリアムスだけである。「この間グールドの進化論エッセイを読んでいましたら、昔、アメリカ野球の英雄時代には四割打者がばんばんいたというんですね。ピッチャーがよくなったとか、バッターが駄目になったとかいうんだけど、実は下位打者の打率がどんどん上がっているんです。つまりつぶ揃いになってるんです。平均値はどっちかというと上がってるんですね。まあ、しょうもないのがいないかわりにバツグンもいない。ひょっとしたら生物学の法則みたいなもので、成熟してある段階になると平均化するということかもしれんと思ったんです。なんか無茶苦茶なんだけど、気分的にはわかる気がするんです。つぶ揃いが切磋琢磨すしあうからいいものが出るというのは、僕はたぶん嘘で、平均的に生産効率が上がるかもしれないけれど、局面を打破するような新しい発想は出なくなると思うんです。本人のことから言うと、自由であるほうがぜったいいいとは思うんですけど、安全度ということから言ったら、つぶ揃いのほうがいいでしょうね」(森毅『たかが学校じゃないの』)。ホーンズビーのこの四二本の本塁打は、一九二〇年のベーブ・ルースの五四本塁打と並んで、野球界が本塁打狂時代へと突入する契機となった記録である。

 ジョンソンがそのホーンズビーの記録を更新したということは、どれだけのインパクトがあるのかが理解されよう。蓮実重彦が、『デイヴ・ジョンソンは美しかった』において、ジョンソンのセカンドの守備の「官能的な艶を帯びた」美しさにうたれたと告白するのも、無理からぬことである。ジョンソンはアメリカでの華のポジションであるセカンドで歴史的記録を残した名プレーヤーだからだ。そのジョンソンが日本ではサードを守ったのは、こうした日米の野球におけるポジションに関する認識の相違に起因する。

 蓮実は坂本龍一と村上龍との鼎談で、セカンドはどこか暗くて、ほんとうはサードやピッチャーをやりたかったができなかったというような影を背負っているとある映画人の意見を引いているが、セカンドの顔は日本特有の問題である。それは、先のジョンソンだけでなく、日本でプレーした外国人のセカンドを思い浮かべてみるだけでも明らかである。ブレーブスで活躍した最強のガイジン・プレーヤーだったダリル・スペンサーは、百九十センチ以上の身長と体重百キロ近い巨体でパイソンを思わせる。ホエールズとジャイアンツでプレーしたジョン・シピンの打球の速度は当時セントラル・リーグで一、二を争っている。ブレーブスのボビー・マルカーノはセカンドとしては日本プロ野球で初めて打点王を獲得している。スワローズ初優勝の切りこみ隊長デイヴ・ヒルトンは独特のクラウチング・スタイルから勝負強いバッティングをしている。ホークスで暴れん坊として知られたトニー・バナザードは片手一本で軽々とスタンドまで運んでいる。横浜ベイスターズのローズは弱小チームで気をはき、打点王を獲得している。彼らは巧打者ではなく、確かに強打者であり豪打者である。ただ、最近は、日本でも、セカンドとサードをめぐる環境がいささか変化してきたようにも思える。

 苅田の着眼点は素晴らしかったが、セカンドは彼の思惑や大リーグとは違った方向にたどりつく。日本ではコンバートによってセカンドの顔をつくったため、顔のないポジションとなってしまう。つまり、ショートからコンバートしてきた苅田が、その後の「顔のないポジション」としてのセカンドのイメージを決定してしまったと言える。苅田はバッティングがそれほどでもない。また、コンバートにたえられるだけの器用さを持っており、かくし球や空タッチ、シャドー・プレー、トリック・プレーをうまく見せるプロである。その華麗さは、苅田のプレーしている姿にポーッとなった女性ファンが、その帰りに上の空のままでいたことから事故を起こしてしまったという伝説があるほどである。苅田以後のセカンドの名手と言えば、千葉茂、岡本伊三美、鎌田実、山崎裕之、高木守道、土井正三、大下剛史、篠塚和典、高木豊、白井一幸、大石大二郎、辻初彦のような、確実で素早く器用だが長打がないというプレーヤーを指す。だから、原辰徳や落合博満など本来他のポジションのプレーヤーがそこに空きががないため、打撃ガ捨てがたいとしてセカンドから出場するケースもある。掛布との兼ね合いによりサードからコンバートさたものの、そのまま定位置となった岡田彰布のようなセカンドは珍しい。

 七十年代半ば、ホエールズでクリート・ボイヤー(サード)、山下大輔(ショート)、ジョン・シピン(セカンド)、松原誠(ファースト)らによって内野カルテットが結成されている。このカルテットはアメリカ的である。セカンドのシピンを除くとこの内野カルテットはこと守備だけに限っては日本のプロ野球史上でも屈指のものだったように思われる。セカンドのジョン・シピンは、打撃に関しては申し分なかったが、守備は同じ時期に活躍したドラゴンズの高木守道などと比べると、はるかにお粗末である。スナップ・スローは素晴らしかったが、シピンはイージーゴロをポロポロとしょっちゅうエラーしている(それなのにどういうわけか二年連続で記者選考のダイヤモンド・グラブ賞に輝いている)。そのため、ホエールズでプレーした後半は外野手に転向させられている。ところが、先にあげたロジャーズ・ホーンズビーも、吉目木晴彦の『二塁手の顔─顔のないポジション』によると、守備が下手である。あれだけの打撃成績を残しているにもかかわらず、彼が史上最高のセカンドの名をフランキー・フリッシュに譲るのもその守備のためだ。彼の守備たるやイージー・フライを最初から目測を誤るという初歩的なエラーを連発するものである。これだけしょっちゅうフライを落とすプレーヤーは、いかに素晴らしいバッティングをしたとしても、日本でなら、セカンドからファーストにでもコンバートされるに違いない。ライオンズの清原和博は守備のうまい一塁手であるけれども、フライを苦手にしており、そういう場面ではセカンドの辻が捕球している。しかし、彼はセカンド以外のポジションを守ったことが少ない。ホーンズビーが全出場試合二二五九試合中、ファーストを守ったのが三五試合、ショートとして三五六試合に出場したにすぎない。つまり、アメリカでセカンドの守備は日本でよりも確実性においては要求されてはいない。セカンドは「圧倒的な存在感」を持ったプレーヤーがそれを発揮するポジションである。アメリカでならば、シピンはセカンドのまま外野にコンバートされることはなかっただろう。

 シピンはジャイアンツに移籍した後、ポジションをセカンドに戻される。そうしたのは、ほかならぬ長嶋である。フライを自分ではとらず、黒江透修にまかせていた長嶋がアメリカでのセカンドの地位を必ずしも理解していなかったと思われる以上、セカンド守備だけでなく、守備そのものについての認識が独特なものがあったと考えられる。

 岡崎満義は、『巧守巧走列伝』の「はじめに」において、長嶋の守備を元タイガースの名ショート吉田義男と比較して、次のように述べている。

 守備は地味なものだ。華麗な超ファインプレーなどというものは、年に何回あるか、というくらいなものだ。地味な守備のなかに、いぶし銀のようにピカリと光るものを見つけるのが真の野球通だと思っていた。
 ところが、長島茂雄の出現で、その考えがややぐらついたように思う。吉田の守備がいぶし銀なら、長島のそれは金粉をまぶしたような守備だった。吉田はやさしいゴロも難しいゴロも、同じようにさりげなくさばいた。長島は難しいゴロはもちろん、やさしいゴロもファインプレーと思わせるような動きでさばいた。「派手な大トンネル」といった見出し文句が、ときどき長嶋にはついたものだ。
 プロは三振しても絵にならなければいけない。凡ゴロもファインプレーに見せる技術が必要だ。長嶋はそんなふうに考えているのではないか、と思わせるようなところがあった。ホットコーナーのパフォーマンスとは何かを、長嶋は考えつづけた男のように思える。そのコンセプトにしたがって、長嶋は猛練習したのである。吉田に劣らず、練習したにちがいない。

 守備は一つの反復作業であり、その機能は可能なかぎり試合開始状態に近い形を保存していくこと、すなわち現状を維持していくことしかない(7)。守備は「もしもあのプレーがなかったなら」という条件節でのみ語られるネガティヴなものであり、確実性だけが要求されている。条件節であることによって、見るものの経験的推量・恣意的解釈が入り込み、その評価は一定しない。そうした反動として、守備でならした者やそれを見る者も、過去に対しては「もしもああだったならば」と言い、未来に対しては「こうなるべきだ」ということを置き入れる。守備は極めてルサンチマン的なものだ。広岡達郎や(渡仏以前の)吉田が周囲の人々の神経を逆撫でするような言動をとるのはそのためである。

 長嶋はその守備に価値転倒の企てを行う。守備に要求されるのはたんなる確実性だけではない。守備も、バッティングと同様、ファンを満足させるというメッセージが含んでいなければならない。長嶋の守備はいかに保存するかではなく、いかによりよく、より美しくプレーを創造するかという精製する原理を帯びている。すなわち、長嶋は価値を創出することを目標とする。「何が善であり悪であるか、そのことを知っているのは、ただ創造する者だけだ──そして、創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者が初めて、あることが善であり、また悪であるということを創造するのである」(『ツァラトゥストラ』)。長嶋は創造する者として、ルサンチマンを守備から追放する。つまり、守備は条件節によって評価されるものではなく、その「意欲」によって評価されるものになったというわけだ。守備は反復である以上、それはニヒリスティックな試練である。だが、と同時に、そこに一切の条件節的な評価を自ら拒否することによって、それは「意欲」という新たな価値を創出できる側面を持っている。長嶋は持っている力を出しつくし、結果として現れてきたことを、たとえそれが失敗だとしても、そのまま認めることこそが大切なのだと示すのである。

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