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ジェネレーションXの時代、あるいはカスタマイズとコミュニティ(1)(2008)

ジェネレーションXの時代、あるいはカスタマイズとコミュニティ
Saven Satow
Apr. 07, 2008

“We look before and after;
We pine for what is not”.
Percy Bysshe Shelly “To a Skylark”

第1章 ジェネレーションXとは何か
 カナダの作家ダグラス・クープランド(Douglas Coupland)は、1991年、処女作『ジェネレーションX ─加速された文化のための物語たち(Generation X: Tales for an Accelerated Culture)』を発表する。これは商業主義に毒された都市を逃れ、モハベ砂漠で暮らす三人の男女を描いた現代小説である。

 マガジンハウスの勤務経験があるこの作家による作品の構成は独特である。本文と皮肉めいた註が併記され、最後に労働人口推計などの数値が付けられている。しかし、これはほぼ10年前に日本で発表されたベストセラー小説『なんとなく、クリスタル』と類似している。さらに、主人公たちの姿勢は違うものの、商業主義批判という作者の意図も共通している。

 このジェネレーションXは、作品内では、1960年代に生まれた層を指している。しかし、その後、この呼称は小説から独立して一般に普及していくうちに、70年代生まれも含むようになっている。クープランドは、その世代を「グローバル・ジェネレーション(Global Generation)」と命名したものの、こちらは浸透していない。

 ジェネレーションXは、実質的に、ベビー・ブーマーの次の世代にあたる。ロナルド・レーガン政権下で、思春期を迎え、選挙権を手にし、東西冷戦の終結後、社会を担い始める。そんな彼らに対するイメージは、政治的にはノンポリで、連帯意識がなく、シニカル、反権威主義的・反商業主義的な態度、無気力、何を考えているのかわからない若者である。しかし、それは現実世界が理解することさえおぼつかないほど複雑化し、不可視化が進んだための反応と見るべきであろう。ベビー・ブーマーが公民権運動やベトナム戦争反対、女性解放など打ちこめる明確な理想があったけれども、ジェネレーションXは、敵が見えにくくなった時代に、自分を探し、情熱を傾けられる大義を求めてもがいている世代である。

 ベビー・ブーマーは、東西冷戦というイデオロギー・ポリティクスの下、パックス・アメリカーナ、すなわち未曾有の豊かさと狭量なマッカーシズムに覆われた社会で成長している。その彼らが60年代に入り、怒れる若者と化して、社会に抗議の声を挙げ始める。経済的に恵まれた環境で育った子どもたちがなぜそんな行動をとるのか親たちには理解できない。しかし、彼らの反抗に理由がなかったわけではない。軍隊的な社会の空気に対し、自由を求めている。戦争中、程度の差はあったものの、各国共に国家総動員体制を敷き、老若男女を問わず、人々を戦時体制へと組みこまれる。それは一部の人々の間でのみ共有されていた「軍隊的な感覚」が国全体へと行き渡る契機となる。冷戦というイデオロギー的な戦時体制はこうして維持される。

 森毅は、『景気の還暦』において、戦時体制が戦後に与えた影響について、次のように記している。

 やがて戦争とともに、すべての人が戦時企業社会に組みこまれるようになった。たとえば、稲垣足穂や富士正晴のように、およそ企業にそぐわない貧乏文士だって、ちゃんと徴用されている。
 学校教育というものが、国民体制として組織されたのだって戦争中である。企業国家日本の体制は戦争中につくられたようなところがある。
 それに、みんなが軍隊体験をしたものだから、会社も組合も正当も、軍隊的な感覚でものを語るようになる。反戦を主張していた政党の指導者まで、委員長をやめるときの言葉が、「これからは一兵卒として戦う」だったのには、笑ってしまった。「企業戦士」がつくられたのは、戦時国民体制によってだったのではないか。
 そう考えると、戦後民主主義だって、たかがイデオロギーだったのではないかと思えてくる。高度経済成長期で生活様式が変わったところで、それは企業社会の流れに適応しただけのような気がする。

 さらに、御厨貴も、『エリートと教育』において、戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。

 戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。

 この状況は日本だけでなく、ある程度、参戦国の間で共通している。「軍隊的な感覚」が戦後を支配したのであり、経済発展もその産物である。ベビー・ブーマーの反抗は、そのため、国境を超えて類似し、時に、連帯している。

 しかし、東西冷戦の終決後に次々と社会人になっていくジェネレーションXにはそうしたvisibleな敵はいない。彼らの生きている時代はinvisibleであり、主観的を通り越して、独善的でさえある。

 ベビー・ブーマーにしろ、ジェネレーションXにしろ、アメリカの戦後に登場した世代の中心は郊外に住む白人の中流層である。それは彼らの悩みが曖昧だからである。下流層の場合、その悩みには貧困という極めて具体的な政治的・経済的・社会的問題が影を落としている。また、上流層の苦悩は、世間体と内実、権力と欲望といったこれまたつかみやすいものの葛藤・矛盾から派生している。近代社会はピラミッド型ではなく、正規分布的な所得の人口構成を目指す以上、中流が近代社会を最も代表し、彼らの消費が資本主義社会を再生産している。進学して、何かしらの熱い思い出をつくった後、そこそこのところに就職し、結婚して郊外にみんなと同じような住宅を購入する。カネもモノもまあまあ持ち、人並みの生活を手にしている。それは描いていた夢と言うわけではないけれども、築いてきた等身大の理のなはずだが、どこか心が満たされない。昔はあれほどしゃべっていたのに、今は気がつくと、じっと黙っている空白の間が生まれている。毎日同じような繰り返しの中で老いていくのだろうとふと思う。そこには将来がない。過去のリサイクルばかりしている。もしもあのときに別の選択をしていたら、違った人生になったかもしれないと考えないこともない。こうした将来のなさと代用の意識を内部に秘めた普通の人々こそ近代小説の主人公である。そんな彼らが同時代的に社会をゆさぶってきたのが第二次世界大戦後の歴史の一側面である。

第2章 ジェネレーションXの台頭
 ジェネレーションXへの先入観が覆る出来事が起きる。1999年11月、WTOの総会が開催されるシアトルは、グローバリゼーションが環境破壊と世界の均質化を招くと抗議する若者たちによる5万人規模のデモで埋め尽くされる。シアトル市警はこうした大規模なデモをまったく想定しておらず、投票にさえろくに行かない若い連中が政治的行動を始めるわけがないと高をくくり、とんだことになったと慌てふためく。投票しない有権者など政治家は無視ないし軽視し、支持者の利益を優先して政策に反映させようとする。既成の二大政党は、大企業から献金を受け、商業主義に毒されている。しかし、ジェネレーションXは「消費は美徳」と商業主義に洗脳されてきたという自覚がある。『ジェネレーションX』も、「ぼくはターゲット・マーケットじゃない」や「買物は創造ではない」、「買った経験は数に入らない」といった反コマーシャリズム的なフレーズに覆われている。そんな政治に参加したいとは思っていないだけだ。

 近藤康太郎は、『「ジェネレーションX」の反乱~デンバー』にいて、1999年のジェネレーションXの反乱について次のように述べている。

 現状に不満がある。でも投票はしない。そんな二〇代から三〇代前半中心とした「ジェネレーションX」と呼ばれる人々は、政治の「つけ」を回される世代でもある。ベビーブーム世代が退職する時期が近づき、各種の年金や高齢者・貧困層向け公的医療保険は破綻の危機にある。一方で、インフラ整備や教育にかける連邦予算は、二〇世紀最後の四半世紀で一〇パーセントも減っている。
 「ジェネレーションXは最も少ない公的サービスのために、最も高い税金を払わなければならない世代、ということです」
 ワシントンにある研究機関ニュー・アメリカ財団のテッド・ハルステッド理事長は、そう指摘する。
 ハルステッドによれば、ジェネレーションXの政治行動は「従来型」のものでは測れない。
 「投票率や政党の集会への参加は確かに減っている.だが、地域のボランティアやデモ、商品ボイコットなど、新しい政治参加の意識は高い」
 シアトルやワシントンで突如として表われたかに見える、一九六〇年代そのものの「反抗する若者」は、実は長い間に準備されてきた現象だ。
 アライオも投票には行ったが、一票に大きな思いは込めなかった。
「むしろ私たちが本当に持っている『票』を生かそうと思う。それはお金と行動力。問題のある大企業の商品を買わない。インターネットを使って抗議行動を組織する。態度と行動が私たちの『票』だと思っているんです」

 ジェネレーションXが政治に関心を示さなかったのは、「合理的無知(Rational Ignorance)」の好例だと言える。アンソニー・ダウンズ(Anthony Downs)は、『民主主義の経済理論』(1957)の中で、「民主主義国における政治の政策には、ほとんどつねに反消費者、生産者支持の偏向が見られる」と言っている。ダウンズは政治的市場も、経済的市場と同様、すべてのプレーヤーは自分の利益の拡大を狙う合理的存在である前提から出発する。普通の人々は身近な出来事や直接関係することにはさほどの労力も払わなくても情報を入手できるが、それ以外に関しては誰かから伝えられない限り、知ることは困難である。政治はその典型だ。政府・与党が何を主張し、どのような政策を実施しようとしているのか、また野党がどこを批判しているのか、そもそも今いかなる政策が運用されているのか、そうした政治の動きが自分の生活にどう影響を及ぼしているのかはさまざまな手段を使って情報を収集・分析しなければわからない。しかし、それには時間もコストもかかり、一般の人々が生活と両立させることは非常に難しい。かりにそれだけの手間暇を費やして政治に精通しても、その個人の声を聞き入れることが支持率の上昇や選挙での勝利につながるとは思えないので、政府・与党が政策決定の際に、考慮する可能性はまずない。有権者として選択肢がない。ハイリスク・ノーリターンであるため、多くの人々は政治を詳しく知ろうとせず、合理的な選択として無知であることを選ぶ。ジェネレーションXは、こんな閉塞感から、政治に対し背を向けている。

 インターネットの普及はこの合理的無知である必要性を減らす。ネットを使えば、少なくとも、情報収集の点ではコストはあまりかからないし、また連帯するのにも手間要らずだ。しかも、ネットは何事にも手を加えたいというジェネレーションXの願望を可能にしてくれる。商業主義への嫌悪がある彼らは、政治運動でも、お仕着せのレディメイドを嫌う。自分なりにカスタマイズせずにはいられず、それは自己表現でもある。ネットは彼らにとってエクスカリバーである。ベビー・ブーマーの政治運動が参加型民主主義への希求だとすれば、ジェネレーションXはカスタマイズ型民主主義を志向していると言える。

 けれども、ジェネレーションXは素人の手法で政治参加をしているわけではない。メディア・リテラシーにも通じ、コミュニケーション技術を磨いた上で、活動を行っている。シアトルでの抗議活動を組織したNGOの広報担当者は、近藤康太郎によると、参加者に報道陣への受け答え指導をしている。

「言葉は短く、ポイントをはっきり。編集で大事なことをカットされないようにしなければだめ」
 自分が記者役になって、デモ隊に参加する若者に質問し、カメラの前で話させる。
「敵は巨万の富を持ち、政治家を動かす大企業。こちらは彼ら以上に賢く、プロフェッショナルにならなければ対抗できないんです」

 シアトルほどこのジェネレーションXの政治デビューにふさわしい都市はないだろう。ジェネレーションXの代弁者であるニルヴァーナが活動の拠点を置いていたからである。グランジ・ロックならぬグランジ・ポリティクスを世界に見せつけるにはうってつけの場だ。

 ジェネレーションXを最も表象するのはネットワーク化したコンピュータ・テクノロジーであろう。ベビー・ブーマーを象徴するのがロックンロールとコミック本(アメコミ)のカウンター・カルチャーだったとすれば、彼らにとってそれはインターネットとビデオ・ゲーム(テレビ・ゲーム)のオルタナティブ・カルチャーである。

 1980年代、コンピュータは人気ハードを販売する企業が市場を制している。アップル社のマッキントッシュやNECのPC98シリーズがその代表である。ソフト開発はハードに従属的でしかない。90年代に入ると、ソフトの季節が到来する。ハードをあまり選ばないMSのウィンドウズOSが市場を席巻する。ところが、2000年代には、GoogleやFacebook、YouTubeなどインターネット上でのサービスを提供する「クラウド・コンピューティング(Cloud Computing)」がICT産業の注目株と認知される。それは、換言するなら、ブラウザの季節である。ハードウェアからソフトウェア、さらにネットワーク・サービスと主役がめまぐるしく変わっている。前の二つの季節を担ったのは、スティーブ・ウォズニアックやスティーブ・ジョブス、ビル・ゲイツなどベビー・ブーマーであったが、今はラリー・ページやセルゲイ・ブリン、チャド・ハーリー、スティーブ・チェン、ジョード・カリムといったジェネレーションXが牽引している。

 ジェネレーションXが最初にその力を存分に発揮したのは、何よりも、ビデオ・ゲームである。ナップスターが事業停止に追いこまれたように、ベビー・ブーマーを表象するロック産業がネットに必ずしも友好的ではないのに対し、ゲーム業界はオンラインとは不可分な関係にある。あらゆる面でビデオ・ゲームほど彼らと相性のいいメディアもない。

 日本では、テレビ・モニターを使うゲームを「テレビ・ゲーム」と呼ぶが、アメリカにおいては、ビデオの入力端子を用いているため、電子ゲームを「ビデオ・ゲーム(Video Game)」と総称する。

 『ジェネレーションX』のサブタイトルにつけられている「物語(Tails)」は極めて示唆的である。と言うのも、この「テイル」はロマンスの短編形式であり、ビデオ・ゲームは、文学ジャンルに照らし合わせると、「ロマンス(Romance)」に属しているからである。もちろん、その傾向を逆手にとった「レジャー・スーツ・ラリー(Leisure Suit Larry)」のような流れもある。ノースロップ・フライの『批評の解剖』(1957)によると、ロマンスは世界の多様性を提示するジャンルである。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、作者の意識的・無意識的願望の分身、すなわちアバターであって、何かの象徴である。作品の傾向は内向的で、扱い方は主観的であり、願望充足がこめられ、時折、情緒的でさえある。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。しかし、神々の物語である神話とは違い、近代小説と神話の中間に位置する。SFやアドベンチャー、ファンタジー、サスペンス、ホラー、バトルなどがロマンスに含まれるが、意識されないことも多いけれども、歴史小説や時代小説も近代小説ではなく、ロマンスの一種である。これらはゲームの題材として好んで使われている。

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