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Zへのメッセージ(2)(2022)

2 ポスト真実
 そのZ世代が置かれている同時代が「ポスト真実(Post-truth)」の時代でしょう。吉田徹同志社大学教授の『imidas』2019年6月25日配信「ポスト真実――フェイクニュースに抗するジャーナリストたちの闘い 第3回」によると、この概念が普及するきっかけはブレクジットです。2016年、英国のEU離脱の賛否を問う国民投票が可決された際、『フィナンシャル・タイムズ』紙のウェブ記事のコメント欄に、ある読者が離脱派のあられもない印象操作、つまり世論誘導に対して、「私たちはポスト真実の時代に入った」と批判します。それがあっという間に拡散、同年末、オックスフォード大学出版の辞書部門が「時代を最もよく表現している言葉」に選んだことで世界的に知られていきます。さらに、2017年、大方の予想を覆して当選したドナルド・トランプ米大統領が「フェイクニュース」とCNN記者を罵倒し、それも同様の意味合いで流通するようになっています。加えて、同大統領のケリーアン・コンウェイ補佐官が就任式をめぐるショーン・スパイサー報道官の虚偽発言を「オルタナティブ・ファクト」と擁護しています。これはジョージ・オーウェルの『1984年』に登場する言葉です。
 
 「真実」は客観的事実ではなく、イデオロギーによる解釈にすぎず、信条や感情、直観も等価であるというのが「ポスト真実」の発想です。ここで注意が要るのは「真実は解釈である」と「真実は解釈にすぎない」の間には違いがあることです。前者は真実の相対性を意味します。その論拠が科学的に妥当なのか議論することを求めるものです。解釈は抽象的・一般的な規範を具体的・個別的な事例に適用することですから、そうした過程を検討することを怠ってはならないのです。他方、後者は真実に対する自身の信条や感情、直観の優越性です。それを正当化するためなら正統性のないものでもかまいません。「ポスト真実」は真実の相対化ではなく、真実の超克や侮蔑と理解できるでしょう。フランスの画家ピエール・ボナールは「絵画とは小さな嘘をいくつも重ねて大きな真実を作ることである」と言いましたが、「小さな真実をいくつも重ねて大きな嘘を作ること」が「ポスト真実」の時代です。
 
 選挙予想はその好例でしょう。それはさまざまなデータ分析の解釈です。外れることもあります。けれども、その際、なぜそうなったのかを検証することができます。しかし、自分の信念に基づくだけの直観が選挙結果を的中させたとしても、その妥当性を実証することができません。結果から事後的に正当化しているにすぎません。論拠の検証自体を否定するのですから、自身の信念に囚われているだけです。
 
 さらに言うと、政治判断は根拠に基づく複数の選択肢からの決定です。ある選択をすれば、他を斥けることになります。その際、犠牲が伴い、そこに責任が生じるのです。しかし、根拠は政治家個人が納得すれば十分というわけではありません。多くの人々を説得できるものでなければならないのです。そのために、経験科学的分析に基づく予測を論拠として提示する必要があります。
 
 そうした知見を根拠とするシナリオは、変数を変更して設定するため、複数用意されます。条件が一つに固定されているのであれば、それしかあり得ないけれども、そのようなことは政治判断の対象ではありません。複数のシナリオから一つを選ぶ動機は価値観であり、決定者にはその説明が求められるのです。「ポスト真実」の政治は、こうした過程が抜けていますから、無責任になります。
 
 「ポスト真実」は「ポストモダン」の言いかえです。普遍的な原理や理論といった「大きな物語」が終焉を迎え、ヒエラルキーは崩壊、すべて等価になります。それは日本では、あなたがたZ世代が生まれる前の80年代に流行した思想潮流です。実際、OEDによると、現在の意味の「ポスト真実」を初めて使ったのはセルビア系アメリカ人劇作家のスティーブ・テシック(Steve Tesich)です。彼は、1992年、週刊誌『ネーション(The Nation)』にイラン・コントラ事件と湾岸戦争についてのエッセイを寄稿、「自由な人間である我々は、ポスト真実の世界に生きると自由に決めたのだ(we, as a free people, have freely decided that we want to live in some post-truth world.)」と書いています。これはポストモダン状況を踏まえた意見です。
 
 ネット検索をすればすぐわかることですが、「ポストモダン」は建築の「ポストモダニズム(Postmodernism)」に由来します。それはモダニズムの機能主義の反動として登場し、その超克を試みています。共通理解とされている合理的に住みやすい建築物は近代主義の呪縛です。しかも、それは歴史が一方向に進歩していくという進歩主義史観に基づき、過去の様式を抑圧しているのです。ポストモダニズムは合理的で機能主義的、進歩主義的なモダニズム建築に対し、装飾性や折衷性、過剰性などの回復を目指した建築様式です。1970年代後半から出現し、1980年代に流行します。磯崎新による筑波センタービル(1983)は日本におけるポストモダニズムの代表作の一つです。ポストモダニストは古い様式の型を引用、懐かしさに新しさを求めています。
 
 ポストモダニズムは、異化効果のある建物を示して、共通了解がモダニズムのイデオロギーにすぎないことを暴露しようとします。モダニズムに慣れきったため、閉塞感が蔓延している認識に違和感のある構築物によって喝を入れねばならないのです。形状が機能に従ったり、素材を忠実に生かしたりする必要などありません。
 
 こうしたモダニズムの解体と共に、機能性・合理性・進歩性に代わる新しい価値観を生み出すはずでしたが、実際に生じたのは恣意性です。歴史や社会の文脈に問題提起をすると恣意的に振舞うとしたら、それは表現者の自意識の優越性を示したいだけです。マウントを取りたがっているというわけです。
 
 この風潮は文学を含め他の分野にも広がります。理論書を文学書のように読解したり、歴史的・社会的なコンテクストを無視して断片的に古典を引用したり、ろくに調べもせず思いこみと思いつきで執筆したりするなど安易なことが横行しています。しかし、そうした粗雑な作品が考えたつもりになっている人たちの間でもてはやされているのです。代表が村上春樹やカルチュラルスタディーズでしょう。それを批判すると、表現の世界だからかまわないではないかとの反論も寄せられたものです。しかし、この企ては分野の境界も恣意的に破壊しているのですから、他にも拡張することは容易に想像できます。流行が去っても、その発想は次第に社会に広がっていきます。かくして2010年代に、それが「ポスト真実」として政治に浸透するのです。
 
3 倫理性を欠いた功利主義としてのポストモダニズム
 ただ、ポストモダニズムは新しい思想ではありません。それは倫理性を欠いた功利主義です。
 
 前近代は共同体主義の世界です。共同体が先にあり、そこに個人が属します。個人は共同体で共有されている規範に従う義務があり、その対価として権利が与えられます。規範が認める徳を実践することで現実の状態から理想へと向かいます。そうしたよい生き方をすることが個人の幸福です。政治の目的も規範の認める徳を実践することです。これは、規範の内容の違いはあるものの、洋の東西を問いません。
 
 ところが、16世紀欧州で起きた宗教改革を発端に、宗教戦争が勃発します。自らの道徳の正しさを根拠に殺し合いを人々は繰り広げてしまいます。17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは、この惨状を教訓に、政治の目的を平和の実現に変更することを提案します。平和でなければよい生き方もできないというわけです。近代政治がここから始まります。
 
 ホッブズは、その際、政治を公、信仰を私の領域に属し、相互に干渉してはならないと唱えます。宗教が政治の根拠だったから、残虐な行為も正当化されたと考えられるからです。それが政教分離で、近代における最も基礎的な原理です。この原則をないがしろにしたら、近代は成り立ちません。
 
 政教分離により価値観の選択が個人に委ねられることになります。価値観の多様性は何も今に始まったことではなく、近代的原理がもたらすものです。共同体の規範に従う必要はありません。ですから、権利は義務の対価ではなく、天賦のものです。近代は個人主義であり、権利の体制です。
 
 価値観の選択が自由である状況を踏まえながらも、近代倫理思想の思考の枠組みは大きく二つあります。それが直観主義と功利主義です。
 
 その前に、前近代の倫理思想にも触れておきましょう。政治の目的はこの共同体の規範に基づく徳の実践とします。現実の状態がそれを通じて規範が教える理想へと達するのです。この美徳の実践の卓越性を模範とするのが卓越主義であり、古代における主流の倫理思想です。また、キリスト教のような超越神を信仰する宗教に基づく場合、その倫理思想は超越主義をとります。理想は全知全能の神でなければ実現できません。この世で人間ができることは、それを参照してセカンド・ベストの状態を実現することです。子の実践が超越主義における政治の目的です。
 
 直観主義は義務論とも呼ばれ、イマヌエル・カントが提唱した行動の動機を重視する倫理観です。道徳的実践は命令として理性に与えられるものを動機としていなければなりません。それは「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法です。行為が道徳的であるには、その個人だけでなく、広く人類が納得するような普遍的理由に基づいていなければなりません。動機が普遍的倫理を根拠にしていることにより、実践が道徳的と判断されます。
 
 政教分離に伴い、価値観の選択が個人に委ねられ、多様化しています。けれども、近代の理念は社会の前提です。例を挙げると、自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成しています。近代政治の目的は平和の実現です。他にもまだあります。その内容の理解には違いがあるとしても、こうした理念を否定すれば、近代社会が成り立ちません。理念や原理原則を共有しているからこそ近代が成立・持続できるので、それらは普遍的です。こういった共通認識を根拠にした実践なら、広く人々は受容できます。
 
 一方、功利主義はジェレミー・ベンサム を始祖とする思想で、結果を重視するため、帰結主義とも呼ばれます。その行為が道徳的であるかは結果によって判断されます。ただし、それは個人的ではなく、社会的効用の増減が基準です。幸福計算に基づく「最大多数の最大幸福」はその端的なスローガンです。利己的な動機による行為であっても、結果として利他的であれば、それは道徳的ということになります。
 
 価値観が多様化すれば、快・不快の内容は異なります。しかし、いずれであっても幸福を求め、不幸を避けることでは共通しているのです。各々の価値観に優劣はないのですから、それらは計算できます。
 
 ポストモダンが流行した際、価値のヒエラルキーが崩れ、フラット化したという言説がもっともらしく主張されましたが、それは功利主義への無知を露呈しているのです。義務論を功利主義で批判したのがポストモダン思想の実情です。
 
 けれども、ポストモダン思想と違い、功利主義はここで止まりません。社会の目標は幸福を増やし、不幸を減らすことです。功利主義は差別や格差の改善を進めます。その際、逆差別といった反論が発せられることもありますが、限界効用によりそれは当たりません。1杯目のビールは2杯目よりうまいものです。このような限界効用の計算に基づけば、被差別者の不幸の減少は他の人のそれよりも社会的効用の総和が大きくなるというわけです。いわゆる逆差別はこの限界効用を無視した主張にほかなりません。
 
 最大多数の最大幸福に加えて、この限界効用が功利主義の倫理思想の重要な点です。すべてが投下であるだけでは素朴な相対主義です。ポストモダンが倫理を書いた功利主義というのはそのためです。
 
 加えて、近代の二つの倫理思想は市場経済も踏まえています。功利主義は、経済学説でもあるので、理解しやすいでしょう。また、直観主義は伝統的な共同体の慣習に従うのではなく、ルールを決めてそれを守るという発想で、現代の市場経済の常識です。
 
 このように思想史をたどると、「ポスト真実」が倫理性を書いた功利主義だということがわかります。ところが、日本文学では「ポスト真実」を主張した書き手が権威として長年扱われています。それが小林秀雄です。

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