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黒澤明の関東大震災(2011)

黒澤明の関東大震災
Saven Satow
Mar. 24, 2011

「恐怖すべきは、恐怖にかられた人間の、常軌を逸した行動である」。
黒澤明『蝦蟇の油』

第1章 大正十二年九月一日
 1923年9月1日、その中学二年生は朝から気が重い。楽しい夏休みが終わり、うんざりする二学期の始業式だったからだけではない。お茶の水の順天堂病院付近の京華中学から、上の姉に頼まれた洋書を買いに京橋の丸善まで歩かなければならなかったからである。ところが、来て見れば、まだ開いていない。結局、少年は出直すことにして、今の新宿区東五軒町の自宅への岐路に着く。13歳の黒澤明は、2時間後この店の建物が瓦礫の山と化し、その写真は大震災の惨劇の象徴として世界に衝撃を与えることをまだ知らない。

 黒澤明監督の自伝『蝦蟇の油』は数々の示唆に満ちている。この中に、関東大震災をめぐる記述が見られ、監督は分析を交えつつ、その体験を表現力豊かに描いている。残念ながら、現在この傑作は入手が難しいため、あまり解釈せず、その部分を紹介することにしよう。

 朝から残暑の厳しい日だったが、空の青さは秋を感じさせる。しかし、11時頃、急に突風が吹き、屋根についていた手製の風見鶏が飛ばされる。デビュー作『姿三四郎』以来、決闘の場面で強風を使うクロサワは、「風見鶏を屋根に据えつけ直しながら、変だな、と思って青い空を見上げたのをおぼえている」と回想している。この強風は台風の影響で、それが火災被害を拡大させた一因とされている。その後、少年は朴歯の下駄を履き、近所の友達と家の前の通りで隣家の門につながれた赤い朝鮮牛に小石をぶつける悪戯を始める。こいつときたらなぜか昨夜中うなりっ放しで、うるさくてよく眠れなかったことへの仕返しである。

 「その時、何かゴーッという音が地面の下から聞こえて来た」。しかし、身体を動かしていたため、地面が揺れているのにまだ気がつかない。慌てて友達が立ち上がったので、どうしたのかと見上げたときに何が起きたのかを知る。後の質屋の土蔵が突然崩れ落ちたからである。

 下駄を両手で持ち、友達が掴まっている電信柱まで走り、しがみつく。もっとも、その電柱も激しく揺れ、電線が引きちぎられている。しかし、将来のリアリズムの巨匠は、緊急避難している間、その片鱗を見せている。

 すべての家の屋根瓦は、篩にかけたようにゆすられて踊るように跳ね動き、我さきに屋根から滑り落ちて、屋根の木組みを濛々たる土埃の中にさらけ出した。
 成程、日本の家はうまく出来ている。これなら、屋根が軽くなって、家はつぶれない。
 私は、電柱に掴まって激しく揺られながら、そんな事を考えて感心していたのをおぼえている。

 目前の現象を構造から実証的・論理的に把握する。これは黒澤映画の創作に一貫する姿勢である。監督は、スタッフや役者がなぜこうするのかと尋ねると、合理的な説明で返答したと伝えられている。そうした認識の最高の結実が『天国と地獄』だと言ってよい。

 しかし、黒澤「天皇」は別に冷静だったからではないと自身を分析している。「人間は可笑しなもので、吃驚しすぎると、頭の一部分がその状態から取り残されて、変に落ち着き払って、あらぬ事を考えたりするものだ」。事実、次第に家族のことを思い出し、夢中で自宅に走っている。

 半壊状態の自宅を前に、少年は「みんな死んでしまった」という感覚に襲われる。しかし、「奇妙なことに、悲哀よりも深い諦観に支配されて、その瓦の山を眺めていた」。これからどうしようかと思っていると、一緒に電柱に掴まった友達が家族と再会して通りの真ん中で一塊になっているのが目に入る。とりあえずあの家庭にお世話になろうと決め、歩き出す。やはりどこか冷静である。

 すると、その父親が少年に何かを言いかけて途中でやめ、通りを越えた家の方を見つめている。振り向くと、門から父、母、兄、姉とみんなそろって出てくるのが目に飛びこんでくる。少年は死んだと諦めていた家族の元へと一心不乱に走り出す。

 ここで普通は涙の抱擁となるが、黒澤映画ではそうならない。

 「明、なんだそのザマは!?裸足なんぞになりやがって、だらしが無いぞ!」

 兄にそう怒鳴られ、少年は泣くに泣けない。確かに、父も母も兄も姉も履物を履き、冷静に振る舞っている。「兄に至っては、落ちつき払っているというより、大地震をおもしろがっているようだった」。慌てて下駄を履く13歳の黒澤明である。

第2章 闇と人間

関東大震災は、私にとって、恐ろしい経験であったが、また、貴重な経験でもあった。
 それは、私に異様な自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた。

 このように偉大な映画作家は述懐している。「異様な人間の心」とは近代日本災害における最大の汚点である朝鮮人虐殺事件である。朝鮮人が暴動を起こしたというデマが飛び交い、自警団によって関東各地の朝鮮人数千人と中国人数百人が殺害されたという恥ずべき事件である。以後の災害ではこの蛮行を繰り返すまいという意識が日本で働いている。にもかかわらず、3・11の際にも悪質なチェーンメールを流す扇動屋が出現している。そこまでいかないまでも、数々の流言や風評が巷でもネット上でも溢れている。人間を描き続けた表現者は朝鮮人虐殺というパニックがいかに生じたかについて当時の観察と思索を交えて解明しているけれども、それは非常に同時代的である。

 地震による直接的被害は風景の一変として少年を驚かせている。けれども、記憶がなぜか定かではない。「ただ、地面が絶え間なく揺れ続けたことと、やがて、東の方の空に、原爆の雲のように、むくむくとせり上がる大火災の煙がひろがり、それが空の半分をかくすほど、高く聳えたことだけはおぼえている」。震災当日の夜、火災を免れた黒澤家のある山の手は停電だったが、下町の炎の光で明るい、そんな状況下、人々を驚かせたのは小石川砲兵工廠の爆発音である。神田から水道橋へと広がった火の勢いに呑みこまれ、貯蔵していた火薬や砲弾に引火、凄まじい轟音と共に火柱が吹き上がっている。

 ここで最初の奇妙な兆候が現われる。町内の中に、その音が伊豆の火山の噴火で、それが他の火山活動を誘発して、東京に近づいているとまことしやかに説く人が出現する。彼は、捨てられてあった牛乳配達の車を見せ、いざとなったらこいつに必要品を積んで逃げると得意げにみんなに話している。

 しかし、この人物には自分の考えを町内にひけらかす必要はない。誰にも言わず、いざとなったら、その計画を実行に移せばいい。むしろ、彼は周囲に話すことで自分の不安を鎮めようとしている。思いつきに誰かが同調すれば、その妥当性が確認でき、彼はほっとできる。震災によってシステムの秩序が拡散した結果、安定した秩序を急いで回復しようとサブシステムの形成に走っている。おそらくパニックは個人が自己保存に向かうからだけでなく、こうしたサブシステムによる秩序確保の動きも絡んでいる。

 山の手の空気が本当に不穏になるのは、各家庭にロウソクの備蓄がつき、辺りが漆黒の闇に包まれるようになったときからである。監督の見解を傾聴しよう。

 下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に怯えた人達は、恐ろしいデマコーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向こう見ずな行動に出る。
 経験の無い人には、人間にとって真の闇というものが、どれほど恐ろしいものか、想像もつくまいが、その恐怖は人間の正気を奪う。
 どっちを見ても何もない頼りなさは、人間を心の底からうろたえさせるのだ。
 文字通り、疑心暗鬼を生ずる状態にさせるのだ。
 関東大震災の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に怯えた人間を巧みに利用したデマコーグの仕業である。

 その頃から朝鮮人を捜し回る多くの大人の集団が「雪崩のように右往左往する」のが見られるようになる。

 こうした集団に少年の家族も襲われかけている。上野に焼き出された親類を捜しに父や兄と一緒に行ったときのことである。突然、父が棒を持った集団にとり囲まれる。髭を伸ばしているのは朝鮮人という噂があったからだ。『用心棒』の冒頭を思い起こさせる光景である。少年はドキドキしていたのに、兄を見ると、ニヤニヤしている。

 「馬鹿者ッ!!」

 陸軍戸山学校教官黒澤勇が大喝一声すると、暴徒はたちまち蜘蛛の子を散らすように逃げていく。明治の軍人は髭を伸ばしているものである。なお、この秋田県出身の軍人は甘粕正彦憲兵大尉による大杉栄らの虐殺に対しても怒り心頭だったと監督は記している。

 こうした雰囲気の中、町内で夜番に各家から一人出すことが決まったが、黒澤家はこんなことにつきあう気などさらさらない。デマや風評に踊らされる人は踊らされるし、そうでない人はそうではない。しかし、一応ご近所の手前もあるので、最も役に立たない人物にお役目を任せることにする。13歳の黒澤明が木刀を持って行くと、猫が通れるほどの下水の鉄管の傍に連れて行かれ、朝鮮人の侵入に備えろと立たされている。兄が鼻で笑って相手にしないのも当然である。

 さらに、少年が大人たちの馬鹿馬鹿しさに呆れ返ることが続く。町内のある井戸の水を飲んではいけないと少年が近所の人に注意される。その井戸の外の塀にチョークで変な記号が記されているが、それは朝鮮人が毒を入れた目印だと言う。少年は唖然として言葉もない。と言うのも、その記号は、以前、彼が描いた落書きだったからである。

 恐怖にかられた人間が突拍子もない行動をしでかす。これを真正面から描いたのが『生きものの記録』であるが、こうした経験が反映されているのだろう。

第3章 恐ろしい遠足
 火災が完全に収まった後、少年は兄に焼け跡を見る「恐ろしい遠足」へ連れて行かれる。歩みを進め、下町が近づくにつれ、焼死体の数が増えている。引き返したくても、兄がぎゅっと手を握って、前へ前へと進んでいく。少年は、想像を絶するショッキングな光景に遭遇することになる。

 焼跡は、見渡すかぎり、白茶けた赤い色をしていた。
 猛烈な火勢で、木材は完全に灰になり、その灰が時々風邪に舞い上がっている。
 それは、赤い砂漠のようだった。
 そして、その胸の悪くなるような赤い色の中に、様々の屍体が転がっていた。

 少年はありとあらゆる死体を目の当たりにする。無惨な光景に、眼をそむけると、兄から「明、よく見るんだ」と叱られる。そう言われても、つらいものはつらい。赤く染まった神田川の岸に立って死体の群を見た瞬間、少年はへなへなとへたりこみそうになってしまう。それは血のような赤ではない。「なんだか腐った魚の目のような、白く濁った赤い色」である。兄は、少年の襟をつかんでしゃんと立たせ、「明、よく見るんだ」と繰り返す。「私は、仕方なく、歯を喰いしばって、見た。眼をつぶったって、一目見たその凄まじい光景は、瞼に焼き付いて、どうせ見えるんだ!そう思ったら、少し、腹が坐ってきた」。無数のはちきれんばかりに膨らんだ死体が一定のリズムを刻んで波に揺れている。

 そして、見渡す限り、生きている人間の姿は見えなかった。
 生きているのは、兄と私の二人だけだった。私は、その二人とも、豆粒ほどの小さな存在のような気がした。
 いや、二人とももう死んで、地獄の入口に立っているのだ。
 そんな気もした。

 『影武者』で、人馬の屍が大地を覆いつくすという有名なシーンがある。そこでは、全体に「白茶けた赤い色」がかかっている。あの場面に、この回想を重ね合わせるとき、もはや絶句するほかない。

 隅田川を渡って、大震災で最も人命が奪われた被服廠跡の広場へと二人が行ってみると、そこは死骸だらけで、いくつかの死体の山が築かれている。その一つの上に座禅を組んだ姿勢の仏像のような黒焦げの死体があるのを二人は発見する。兄は、それを見つめたまましばらく動かず、「立派だな」とぽつんとつぶやくのが聞こえる。少年もそう思う。

 少年は、あまりに見すぎたために、「死骸も、焼跡の瓦礫も区別のつかないような、不思議と平静な気持ちになっていた」。その姿を見た兄は少年に声をかける。「そろそろ、帰ろうか」。

 帰る途中、二人は上野広小路のある焼跡に人が群がっているのに気がつく。兄は、それを見ながら、正金堂の火事場泥棒だと苦笑いし、お土産に金の指輪でも探すかと軽口を叩いている。しかし、13歳の黒澤明は別のものにはっとさせられている。それは『蝦蟇の油』全編を通じて最も感動的なシーンの一つであり、3・11以降、こうした感覚を体験する人は少なくないに違いない。

 私はその時、上野の山の緑に目をやったまま、動けなかった。
 木の緑を見るのは、何年振りだろう。
 そんな気がした。
 そして久し振りに空気のある所へ来た気がして、大きく深呼吸した。
 焼跡に緑は一つも無かったのだ。
 緑がこんなに貴いものだとは、その時まで私は知りもしなかった。

 その夜、少年は、あんな凄まじい光景見たら眠れるはずがないし、もしできたとしても悪夢にうなされるに違いないと覚悟して床につく。しかし、枕に頭を乗せて、気がついたらもう翌朝である。悪夢にうなされるどころか、熟睡している。不思議に思い、少年は兄にその理由を尋ねてみる。

 「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。よく見れば、怖いものなんかあるものか」
 今にして思うと、あの遠足は兄にも恐ろしい遠足だったのだ。
 恐ろしいからこそ、その恐ろしさを征服するための遠征だったのだ。

 以上が黒澤明監督の関東大震災から学んだことである。
〈了〉
参照文献
黒澤明、『蝦蟇の油』、岩波書店、1984年


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