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ヘンリー・キッシンジャー、あるいは19世紀から学びすぎた男(2023)

ヘンリー・キッシンジャー、あるいは19世紀から学びすぎた男
Saven Satow
Dec. 01, 2023

「自分のすべてを受け入れるのだ。何もかもを。自分は自分。そこに始まり、そこに終わる。自分を責めたり、悔いたりする必要など、どこにあるのだ」。
ヘンリー・キッシンジャー

 1938年、英語が苦手なサッカー少年が家族と共に、ナチスのユダヤ人迫害を逃れてアメリカへ渡る。野球と英語の国で、この15歳の名前はハインツ・キッシンガーからヘンリー・キッシンジャーへと変わる。

 1943年に米国籍を取得し、第2次世界大戦ではドイツに出征する。47年に帰国してハーバード大学に入学、ナポレオン戦争後の欧州の平和を論じて博士号を取得している。その後、同大学の教壇にも立ったが、彼の名が世界的に語られるのは学究生活の実績が理由ではない。それは1969年から始まる外交の実務家としての業績である。

 キッシンジャーは、69年、リチャード・ニクソン政権で大統領補佐官(国家安全保障問題担当)に就任、外交の実務で手腕を発揮する。彼は冷たい戦争を続ける旧ソ連とのデタントを進める。その一方、71年、ソ連と対立する中国と国交樹立のため極秘に交渉している。それは、翌年のニクソン大統領の訪中と79年の米中国交正常化につながる。

 1973年、国務長官に就任したものの、ニクソン大統領がウォーターゲート事件により辞職してしまう。だが、後任のジェラルド・フォード政権でも留任し、その73年にベトナム戦争のパリ和平協定をまとめ、米軍の完全撤退を実現する。この業績により同年のノーベル平和賞を受賞している。

 キッシンジャーは77年に政府の要職を退くが、以後も国際政治の専門家として発言や行動を精力的に行っている。2007年、彼は核廃絶を訴える共同提言を発表、その後、核テロ防止のため核廃絶を目指すべきだとする意見をバラク・オバマ大統領に伝えている。

 そうした歴史的成果を上げる反面、キッシンジャーは自由や民主主義、人権といった近代の理念を二の次にしたり、周辺国や小国への配慮を軽んじたりしている。彼は、1969〜73年にかけて、中立国カンボジアに対し、北ベトナムへの補給を絶つ目的で秘密裏に空爆を軍に指示している。また、73年、民主的選挙で誕生したチリのサルバドール・アジェンデ政権を葬り去るべく、CIAを通じてアウグスト・ピノチェト将軍のクーデターを画策している。さらに、1975年、東チモールがポルトガルからの独立を宣言した際、共産化を防ぐためとしてインドネシアによる軍事侵攻を後押ししている。

 キッシンジャーはアメリカの国益を優先した大国主義的リアリストである。この姿勢は公職を離れてからも変わらない。最近でも、ウクライナ戦争の早期終結のため、ロシアによるクリミア半島併合を容認するような発言をしている。

 キッシンジャーのこういった認知行動はおそらく19世紀ヨーロッパの国際政治から学んだものである。彼の博士論文のテーマはナポレオン戦争後の欧州の平和だ。当時の外交理論は「力の均衡」である。彼はそれを参考に自身の外交戦略を立てている。ただし、キッシンジャーは19世紀から学びすぎている。

 「力の均衡」論は19世紀欧州における国際政治の支配的理論である。それはヨーロッパ全体を巻きこんだナポレオン戦争の反省に基づいている。

 近代政治の目的は平和の実現である。それを現実化するためには、各国が状況に応じて同盟を柔軟に組み替えて力の均衡を維持すればよい。ある国が突出した力を持とうとしたら、他国が同盟を組んでその野心を打ち砕き、均衡を維持することで、欧州大戦争の再発を防止できる。小さな戦争は大きな戦争の抑止につながり、平和の実現には必要だ。

 こうした秩序維持を担うのが外交官や軍人である。彼らはすべてを安全保障に翻訳して認知行動する一元主義のリアリズムを信奉している。いずれの国も政治・経済・社会の体制が似通っている。それを前提に担当者は相互信頼を築き、外交ゲームに興じる。こうしたエリートは、一元的に仕事に臨まなければならないのだから、民意などに囚われる必要はないと考える。

 国際政治においてリアリズムは一元主義を指し、理想主義の対義語ではない。なお、経済や文化など多様性が国際政治を構成しているとする多元主義の認知行動をリベラリズムと呼ぶ。

 しかし、この力の均衡はあくまでヨーロッパ内でのみ適用される理論である。その外で列強が帝国主義的政策を推し進め、国家間戦争をしたり、現地住民の抵抗を武力で抑えたりすることはその考えに縛られない。

 ヘンリー・キッシンジャーの外交戦略はこの力の均衡論を東西冷戦に援用したものである。ただ、冷戦は、19世紀欧州と違い、東西両陣営が政治・経済・社会の体制が異なっているため、相互不信が強く、外交も限定的である。こうした状況から正当化されるのが核抑止論である。人類を複数回絶滅させるだけの核兵器で両陣営が脅しあっている。やられたらやり返す。しかし、その時は人類も巻き添えだ。相手は信頼できないが愚かではなかろうという思考の合理性を前提に各国政府は安全保障・外交政策をデザインする。核保有国は大国が主で、小国は同盟国としてその核の傘に位置づけられる。キッシンジャーは核抑止論に立脚する東西冷戦の世界を19世紀欧州に見立てて力の均衡論を適用している。

 大国間の柔軟な国際秩序構築、小国や周辺国への配慮の欠落、信頼できる相手に絞っての秘密交渉、民主主義や人権など近代の理念の警視といったキッシンジャー外交の特徴は力の均衡に忠実だったことを物語る。彼が理念や理想に囚われず柔軟に現実の事態に対応したとするのは誤解である。むしろ、キッシンジャーは理論に忠実に振舞っている。

 それをよく伝えるエピソードがある。藤田直央記者は『朝日新聞DIGITAL』2023年12月1日 5時00分配信「キッシンジャー流、日本に衝撃 ニクソン訪中、直前まで伝えず 沖縄核密約交渉、外交当局外し」において、次のような逸話を紹介している。

 70年代に外相同士で親しかった宮沢喜一元首相は、95年の著書で、日本の将来をめぐる「論争」を紹介している。
 キッシンジャー氏「これだけ経済力のある日本がやがて核兵器を持つに至るのは、歴史的必然だ」
 宮沢氏「そんなことはしない」
 キッシンジャー氏「いいとか悪いとか言っているのではない。歴史とはそういうものだ」

 キッシンジャーは19世紀欧州から学んでいる。しかし、彼はそれを学びすぎている。

 力の均衡論は第一次世界大戦によって破綻する。小国セルビアで起きたオーストリア皇太子暗殺事件が大戦争を抑止するはずの同盟の連鎖を通じてヨーロッパ全体に戦火を燃え広がらせたからである。20世紀を迎える頃、各国で国民の政治参加の拡充、支持者を増やそうと政治家はナショナリズムを煽り、外交官が国益のために極秘に他国と交渉することがままならなくなる。欧州の外の権益争いでも外交に妥協が許されず、同盟も硬直化する。小さな戦争も大戦争の抑止ではなく、国民に相手国への遺恨をもたらす。力の均衡論はそれを可能にしてきた状況が失われる。もはや大戦争を防ぐ力はない。

 キッシンジャーは19世紀欧州で実践された力の均衡論を20世紀アメリカに導入する。東西冷戦という大国を中心に陣営を形成する状況下で画期的な成果を上げた反面、およそ20世紀的と思えぬ蛮行ももたらしている。力の均衡論の可能性と限界がまさにキッシンジャーの外交戦略のそれである。

 2023年11月29日に100歳で亡くなったヘンリー・キッシンジャーが20世紀の国際政治を代表する人物の一人であることは確かである。その功罪の検証は今後発展していくだろう。それは望ましい国際政治や外交戦略の認知行動の参考になるに違いない。彼から学ぶべきことは大いにある。しかし、学びすぎるべきではない。
〈了〉
参照文献
「キッシンジャー流、日本に衝撃 ニクソン訪中、直前まで伝えず 沖縄核密約交渉、外交当局外し」、『朝日新聞DIGITAL』、2023年12月1日 5時00分配信
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15806310.html?iref=pc_ss_date_article

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