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中間小説の時代(2)(2023)

2 大衆文芸
 「大衆文芸」は雑誌のタイトルである。「二十一日会」の同人誌として1926年(大正15年)に創刊されている。この会は、1925年秋、本山荻舟《てきしゆう》や長谷川伸、国枝史郎、平山蘆江、江戸川乱歩、小酒井不木《こざかいふぼく》、正木不如丘《ふじよきゆう》、矢田挿雲、土師《はじ》清二、白井喬二、直木三十三(三十五)が結成した親睦団体である。乱歩や不木、不如丘を除と、構成員は時代小説家に占められている。『大衆文芸』は時代小説を中核とした雑誌で、1927年(昭和2年)に19号で休刊している。その後、復刊と休刊を何度か繰り返し、主に時代小説家の活躍の場となっている。

 この場合の「大衆」は黄金の20年代に出現した政治・経済・社会の担う新たな社会大勢「マス(Mass)」を意味しない。モボやモガのような西洋的に近代化された都市文化を享受する人々に向けられたモダニズム文学ではなく、剣豪の登場する時代小説が「大衆文芸」である。それは、「大衆酒場」や「大衆食堂」の用法と似通っており、仏教の「大衆部」に由来する「庶民」の意味だ。つまり、講談社文化的文学を指し、「文学」ではなく、あくまで「文芸」である。

 松井計はこの「大衆文芸」の「ルーツ」の一つとして「書き講談」を挙げている。これにも歴史的経緯がある。

 近代化を前にした江戸時代の戯作者たちは時流に抗うかそれとも適応するのかという選択を迫られる。明治に入ってからも「髷物」を書き続ける戯作者の流れは村上浪六や宮崎三昧、前田曙山、行友李風の「撥鬢小説」を生み出す。また、講談の流れの上に、三遊亭円朝な代表とする「速記講談」、立川文庫などの「書き講談」、講談倶楽部による「新講談」などが人気を博している。その後、娯楽雑誌『日本一』が1920年に「講談革命号」を発行、「民衆文芸」という呼称を用いている。「大衆」ではなく、この時点において広く一般庶民を指す述語は「民衆」である。

 こうした流れは純文学にも関連している。「落語中興の祖」とも呼ばれる三遊亭圓朝は内容もさることながら、語りをそのまま文字化する文体が新鮮と知識人にも受けとめられる。近代文学確立における重要な課題の一つが言文一致である。書き言葉を話し言葉化するコンセプトは明確でも、その方法の模索が続いている。そうした中、坪内逍遥は圓朝の語り口調を二葉亭四迷に言文一致体の参考にしてはどうかと勧める。二葉亭は試してみるものの、それを採用していない。言文一致はたんに書き言葉を話し言葉化すれば実現するわけではない。近世の文章規範に則っていては、近代文学の文体ではない。この違和感は江戸の講談や落語の語り口調で島崎藤村の『破戒』を書いたらどうなるかを想像すればわかるだろう。結局、二葉亭はロシア語からの翻訳の文体に言文一致体を見出すことになる。

 その後も知識人の講談への関心は続く。講談の庶民の間での人気は侮りがたいものがあり、知識人は思想啓蒙の手段として捉えている。1919年(大正8年)、堺利彦や白柳秀湖らは講談に民衆の思想善導の可能性を認め、その改造運動を始める。『改造』において「新時代に適応すべき、形式上および思想上の改造講談とする「社会講談」を提唱している。

 話芸の講談は知識人にも影響を与えたが、欧化の時流に乗ることで生き残りを図った戯作者はそうではない。仮名垣魯文が『西洋道中膝栗毛』や『安愚楽鍋』、梅亭金鵞は『西洋新話』や『万国百物語』などを捜索したものの、思うように人気は回復しない。そこで、彼らは創刊され始めた「小《こ》新聞」に活動の場を求める。政論を中心とした「大《おお》新聞」に対して、小新聞は娯楽記事が主で、庶民にも読みやすい。そうした読者層を意識し、「つづきもの」と呼ばれる戯作調の連載読物を発表する。作家には柳水亭種清や為永春江といった幕末からの戯作者だけでなく、久保田彦作を始めとする魯文門下生や元新聞記者も加わっている。中でも彼らの文芸活動は『芳譚雑誌』において最も活発である。この時期の代表作として久保田の『鳥追阿松海上新話』(1878)が挙げられる。他にも、『夜嵐おきぬ』を始めとする実録毒婦物、幕末の事件、侠客や役者の物語などが人気と博している。しかし、近代化に適応しようという姿勢は、1883年完成の鹿鳴館に象徴される政府の欧化政策が攻撃されるようになると、保守化する。勧善懲悪主義が復活し、曲亭馬琴を始めとする江戸時代の戯作が復刻出版されている。

 1885年、坪内逍遙が『小説神髄』を発表、近代小説の特徴を開設する。それは勧善懲悪的な物語の否定や「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」という写実主義的な文学傾向として文学シーンに理解される。

 坪内逍遥の主張を現代的に言い換えると、次のような内容である。

 前近代は共同体主義の時代で、政教が一致している。共同体に所属する個人は規範を共有している。文芸の創作・鑑賞・評価も規範を踏まえている。この規範は美徳の実践を通じて現実から理想の状態へ到達できる、もしくは近づけると説く。もし善が負けて悪が勝つようであれば、この規範の信頼性が揺らぐ。そのため、文芸は勧善懲悪でなければならない。

 一方、近代は、宗教戦争の惨禍を教訓に、政教分離を最も基礎的な原理とする。それにより個人に価値観の選択が委ねられる。規範の共有を前提にした創作・鑑賞・評価は成り立たない。文芸が勧善懲悪でなければならないという根拠はない。また、政教分離は個人に内面の自由を保障する。認知行動が必ずしも一致しないので、近代の文芸では心理描写が重要になる。しかも、近代人は身分制から解放され、自由で平等、自立した個人である。そのような等身大の人物が文学作品の主人公たり得る理由はその内面にある。さもない人物であっても、心の奥底にはドラマがあるというわけだ。創作・鑑賞・評価は誰もが内面を持っていることを共通理解とする。

 戯作者とその後継者は近代文学をまったく理解していない。確かに、彼らは政治批判の目を持っているが、それはあくまで規範に則ったものである。好奇心を煽るセンセーショナリズムや新しい風俗紹介、有名人の英雄譚など江戸時代の庶民の文化傾向とさほど違いがない。しかも、彼らは政教分離に伴う個人の心理描写などおよそ関心がない。

 知識人坪内逍遥は近代の何たるかを理解できていても、戯作者にはそれが困難である。同じ1885年に結成された硯友社はこれに反発、戯作的傾向を強めて、娯楽作品を追求する。その代表が尾崎紅葉の『金色夜叉』(1897)である。この作品は物語の展開やきめ台詞などによって商業的成功を収めたものの、通俗道徳によりかかり、登場人物の葛藤は躊躇にすぎない。硯友社は紅葉の死と共に解体するが、彼らは筋の面白さに力点を置き、昔ながらの物語構造を借用、同時代的流行や読者の嗜好を追いかけ、新たな風俗を取り込んだ類型的な作品である通俗小説の流れを形成していく。こうしたノウハウを持たない知識人作家は、確かに、近代文学的課題を取り扱っているものの、彼らと異なり長編よりも中短編中心に書いている。これが後の芥川賞と直木賞の作品における長さにも影響を及ぼしている。

 こうした作家たちは時代小説の書き手と言うよりも、新たなジャンルの開拓者である。1900年前後、菊池幽芳や小杉天外などの「家庭小説」が新聞小説として支持を得ている。これは「光明小説」とも呼ばれ、明治30年代に家庭生活を素材にした散文フィクションで、過程小説とも呼ばれる。封建的な家庭関係の矛盾に苦しむ女性が主人公で、その問題は彼女がキリスト教の信仰や儒教の教え、純粋な愛情に帰依することで解決が図られる。ハッピーエンドとは限らないが、道徳的作風が光明ある帰結を予感させる。代表的作品に徳冨蘆花の『不如帰』(1898~99)、菊池幽芳《ゆうほう》の『己が罪』(1899~1900)、中村春雨《しゅんう》の『無果花《いちじく》』(1902)、草村北星《ほくせい》の『浜子』(1902)、田口掬汀《きくてい》の『伯爵夫人』(1905)などがある。

 この光明小説は「悲惨小説」の反動として出現している。これは「深刻小説」とも呼ばれ、人生や社会の深刻・悲惨な状況を描くジャンルである。日清戦争後、1895年(明治28年)から3、4年ほど流行している。代表的な作品を年ごとに挙げると、1895年の広津柳浪《りゅうろう》の『黒蜥蜴《くろとかげ》』や『亀さん』、後藤宙外《ちゅうがい》お『ありのすさび』、江見水蔭《すいいん》の『女房殺し』、96年の柳浪の『今戸《いまど》心中』や『河内屋』、北田薄氷《うすらい》の『乳母』、小栗風葉《ふうよう》の『亀甲鶴』、97年の柳浪の『畜生腹』などである。いずれも暗澹たる境遇の主人公が絶望的な帰結に至る作品で、露悪的・厭世的である。西洋の自然主義文学と違い、近代化のもたらした社会悪を告発する改良主義的姿勢に乏しく、政談・怪談に近い。類型的であるため、悲惨のインフレを避けられず、不自然さも目立ち、読者が慣れて飽きてしまい、光明小説にとって代わられる。

 読者の反応に敏感な反面、作り手にジャンルの成長や作家としての発展の意欲に欠ける。既成の物語構造を借用、読者の嗜好を予想して題材や設定、登場人物などを入れ替えただけの類型的作品がほとんどである。読者の慣れと飽きによって短期間の内にジャンルの流行が目まぐるしく移動・反復する。「家庭小説」が流行ったかと思えば、明治末から大正始めにかけては、『中央公論』の「説苑」欄において松崎天民や田中貢太郎、村松梢風、大泉黒石などの実録情話物が人気を得ている。数多く発表されてきたが、後々まで語られる小説はほんの一握りである。

 ただし、こうした作品群は時代との結びつきが強いため、当時の社会の気分をよく体現している。一作一作を丹念に読むのではなく、ジャンルを一固まりとして分析することで、読者や庶民の集合記憶が明らかになるだろう。

 庶民の娯楽である芸能も翻訳文化との縁がある。立川志の輔が得意とする落語『死神』は三遊亭圓朝作として知られている。これはグリム童話第2版所収の『死神の名付け親』を翻案した作品である。この昔ばなしはイタリアのルイージとフェデリコのリッチ兄弟によるオペレッタ『クリスピーノと死神』にもなっている。三遊亭圓朝が渡欧経験のある福地桜痴からいずれかを聞いて作ったと推測されている。

 純文学が翻訳の影響を受けたことは言うまでもないが、庶民文化も決して無縁ではない例は他にもある。1883年(明治16年)に板垣退助が渡欧した際、ヴィクトル・ユーゴーに会い、自由民権思想の普及のために自作を含め「政治小説」を民衆に読ませることを彼から勧められる。助言に同意した板垣は多数の小説を入手して帰国、それらは翻訳・翻案されて出版される。森田思軒による『瞽使者』(1887))や塚原渋柿園の『マンチェスターの叛乱』(1887)、黒岩涙香の『鉄仮面』(1892)・『巌窟王』(1901)などが代表的な作品である。また、矢野龍渓が政治小説『経国美談』(1883~84)や冒険小説『浮城物語』(1890)を発表、それに刺激され、押川春浪の『海底軍艦』(1900)を始め多くの冒険小説が出版、若年層の間で人気を博している。

 このように、明治期は必ずしも時代小説が非純文学系の主流ではない。さまざまなジャンルがその覇権を獲得しようと現われては消えていく。純文学と対立しているだけでもないし、翻訳の影響も受けている。時代小説が非純文学のヘゲモニーを握るのは大正からである。それに大きく貢献したのが1913年(大正2年)に中里介山が『都新聞』で連載を始めた『大菩薩峠』である。

 『大菩薩峠』は浄土真宗の悪人正機説をテーマにしている。悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機であることが本当にあり得るのかという問いの下、作家は何のためらいもなく悪行を繰り返す殺人鬼の机竜之助を主人公にしている。こういった倫理思想を扱うとしたら、それが規範として共有されていた前近代を舞台にせざるを得ない。非常に倫理的な作品であるが、ニヒルな主人公など従来の時代ものにはなかった独創性により1921年頃から爆発的な人気を獲得する。宮沢賢治もその愛読者の一人である。それは、言わば、類型的なチャンバラ映画ばかりの時に黒澤明の『七人の侍』が公開されたようなものだ。

 この未完の超大作に刺激されて、多くの時代小説家が出現する。1920年代は黄金の20年代と呼ばれ、その文化を担ったのが「大衆」である。産業社会の発展と共に都市に集まった根無し草の雑多な人々であり、画一的な大量生産・大量消費に基づく生活様式をし、複製技術による商業主義的文化を享受する。関東大震災の前後にマスメディアが発達、中でも、『キング』や『週刊朝日』、『サンデー毎日』などの大衆雑誌が創刊され、急速に発行部数を伸ばしている。中里介山のような倫理性はないが、大佛次郎や吉川英治、直木三十五といった時代小説家はこうした新聞や雑誌に作品を発表、人気作家になっていく。

 1924年(大正13年)、白井喬二が『富士に立つ影』の連載を報知新聞で始める。マスメディアはこの時代小説を「大衆文芸」と命名する。ただし、この場合の「大衆」は20年代に出現した新たな人々ではなく、従来の庶民や民衆とほぼ同意味である。高級文学に対する民衆文芸であるけれども、そこにはマスカルチャーの背景がある。文芸も文化産業化され、作者も読者もその中に組み込まれる。彼らは従来の民衆や庶民とは違う人々で、「大衆」と呼ぶほかない。白井は、翌翌年、二十一日会を結成、同人による月刊雑誌をその「大衆文芸」からとっている。このようにして「大衆文芸」が主に時代小説を指すようになっている。

 1927年、平凡社が円本『現代大衆文学全集』を出版開始し、白井も企画の中心として参加する。この時期になると、「大衆文学」が用いられている。全集の対象となるのだから、もはや「文芸」ではなく、「文学」だというわけだ。第1回配本の白井喬二による『新撰組』は初版だけで33万部という驚異的な発行部数を記録している。白井は、『正道大衆文学観』において、「大衆文学」を「ひろく一般民衆へ解放された文学」であるが、「文芸至上主義」に基づく「本格文学」で、「通俗文学」や「娯楽文芸」とは異なると述べている。「大衆文学」は非エリート主義的であっても、消耗品ではない。それは純文学と「通俗文学」との差異化にアイデンティティを見出している。岩波文化に対する講談社文化と捉えることができる。この認識が後の直木賞の評価基準と理解できよう。

 芥川龍之介との論争において筋の面白さがあると大衆文学を擁護した谷崎潤一郎であるが、彼が過去に時代医設定を求めた小説を発表しても、そう分類されない。大衆文学は、前近代を舞台にしながらも、近代人の願望が投影されたものである。一方、谷崎は近代を相対化するために、過去に遡行する。谷崎はそう言った小説では心理描写を斥ける。それが近代人を主人公にする際の方法だからだ。森鴎外も同様である。ところが、時代小説家はその点に頓着しない。だから、近代人である読者は過去を自分たちと同じ発想の時代であるかのように親しめる。

 「通俗文学」は「通俗小説」とも呼ばれる。それは大正中期に新聞や婦人雑誌、娯楽雑誌などに掲載された同時代を舞台にしたメロドラマを指す。1918年に久米正雄が『螢草』、1920年には菊池寛が『真珠夫人』を新聞小説として発表、読者から指示を受ける。主な書き手は中村武羅夫や久米正雄、加藤武雄、吉屋信子、小島政二郎などで、純文学出身者も含まれている。人気があったので、『日本一』誌が性欲文学の特集をしたり、『国粋』誌が流行作家の三上於菟吉の作品を掲載したりしている。大衆文学のこういった通俗文学への軽蔑は1980年代以前の劇画の少女マンガに対するそれを思い起こさせる。

 成長する大衆読者層を前に、純文学に行き詰まりを覚える作家たちが新たな路線を模索していめる。純文学は「大衆文学」や「通俗文学」を侵食して成長しようとする。それは「純」という修飾語とは逆にハイブリッド化である。むしろ、「大衆文学」の方が純化路線をとっている。1924年(大正13年)、菊池寛は創作小説と講談の中間である「読物文芸」を提唱、長谷川伸らの作品による「読物文芸叢書」を発刊する。また、昭和初期にかけて、あらに純文学系の佐藤春夫や山本有三、広津和郎、岸田國士らが通俗文学の新聞小説を執筆している。こういった問題認識が戦後の「中間小説」論につながっていく。


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