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ワクチンと公共性(2)(2021)

第2章 ワクチン
 特定の病気にかかって回復すると、二度と発症することがない現象は古来より知られている。疫病を免れることを人工的に作り出して予防する発想から生まれたのがワクチンである。免疫は、ウイルスや細菌といった病原体が体内に侵入した際、それと戦う防御システムである。その免疫には自然免疫と獲得免疫がある。自然免疫は生まれつき備わっており、ウイルスや細菌にはあるけれども、人間にはない成分を認識して攻撃する。自然免疫のみで撃退できる場合もあるが、多くの場合は不十分で、獲得免疫が必要となる。ワクチンはこの獲得免疫を人工的に作り出すものだ。

 ウイルスや細菌を弱毒化・無毒化したものを投与することにより、獲得免疫を誘導、その後、同じ病原体が侵入しても、それが攻撃するために増殖を抑えることができる。このワクチンは予防薬であって、IT用語と違い、治療薬ではない。

 「ワクチン(vaccine)」の語源はラテン語の”vacca(雌牛)”である。これは、エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)による史上初のワクチンである天然痘ワクチンが雌牛から取られたエピソードに由来している。

 致死率が高い重篤な疾病であるが、一度かかると二度と天然痘が発症しないことは古くから知られている。そのため、中国で乾燥させた天然痘のかさぶたを摂取させたり、患者の衣服を着たりして軽度の天然痘に感染させる予防法が試みられている。18世紀にはトルコ経由腕欧州にもこれが伝わっている。しかし、安全性に問題があり、死亡例も発生するなど社会に定着するには至らない。・

 18世紀後半の英国で、ウシの病気である牛痘に感染すると、天然痘に罹患しない、あるいは軽症ですむことが経験的に知られるようになる。そこで、エドワード・ジェンナー博士は、1796年、使用人の8歳になる少年に牛痘の膿を植えつけ、数か月後に天然痘のそれを接種してこれを実証する。結果は仮説通りで、彼は、1798年、『牛痘の原因と効果についての研究(An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccine)』を刊行して種痘法を公表している。1800年以降、徐々にこの天然痘の予防法がヨーロッパ諸国へと広がっていく。

 『毎日新聞』2020年5月6日更新「英国の医師ジェンナーが…」はこのジェンナーの種痘法をめぐって次のように述べている。

 英国の医師ジェンナーが18世紀末、「牛痘」を使った種痘で天然痘を予防した話は有名だ。明治時代、修身の教科書にも採用された。「まづ、わが子に種(う)えて」と書かれていたため、日本では家族を最初の実験台にしたと信じられた。だが、実際は使用人の子どもだった▲「牛痘」でもなかった。21世紀になってゲノム解析で牛に感染した「馬痘」が由来とわかったそうだ。どちらも最近、知った。初のワクチンを生んだジェンナーの評価が変わるわけではないが、古い知識はたまに更新する必要がある▲種痘の普及で日本や欧米では天然痘は怖い感染症ではなくなった。しかし、アフリカや南アジアには多くの患者が残されていた。1974年にはインドで20世紀最悪とされる流行が起き、1万5000人以上が死亡した▲天然痘撲滅に動いたのが世界保健機関(WHO)だ。指揮をとった蟻田功(ありた・いさお)博士は感染者と接触があった人を追跡して種痘を施し、感染を減らした。新型コロナウイルスのクラスター対策と似ている▲バングラデシュでアジア最後の患者が見つかったのが75年。その後、アフリカからも姿を消し、WHOは80年5月8日に天然痘の世界根絶宣言を出した。冷戦下、対立していた米国とソ連も支援し、蟻田氏は「人類は政治、宗教、人種を超えて共同の敵に当たることができる」と総括した▲宣言から40年。米国はWHOへの資金拠出を停止中だ。新たな敵に一丸となって対処できるのか。再び人類の知恵が問われている。

 もっとも、このワクチン法が天然痘以外の感染症に応用されることはなく、それは19世紀後半のルイ・パスツールによる微生物学の確立を待たねばならない。1870年代、パスツールがニワトリコレラの予防法を研究している時、培養した病原体を弱毒化して生体に接種すると免疫が作られることを突きとめる。この発見に基づき、彼は、1879年にはニワトリコレラワクチン、1881年には炭疽菌ワクチンを開発する。パスツールのイノベーションを受けて、以後さまざまな感染症に対するワクチンが作られるようになる。

 ワクチンの予防効果が広く医学界で確立し、保健行政もその接種を後押しするようになる。日本では、1948年、日本国憲法の下で予防接種法が制定される。予防接種には定期接種・臨時接種・任意接種がある。予防接種法とその関連法規が規定するのは定期・臨時接種である。2020年1月時点、その法令は、A類疾病として14の感染症、接種努力義務がないB類疾病として2の感染症を定めている。これら法定接種の多くが乳幼児・児童を対象とし、国・地方自治体からの全部あるいは一部費用補助が受けられる。また、法定接種によって副反応が生じた場合、被害者と家族に損害補償される健康被害救済制度が運用されている。

 日本における子どもへの予防接種には次のようなものがある。

B型肝炎ワクチン
ロタウイルスワクチン
ヒブワクチン
肺炎球菌ワクチン
4種混合(DPT-IPV)ワクチン
不活化ポリオワクチン(IPV単独)
BCGワクチン
MR(麻疹風疹混合)ワクチン
おたふくかぜワクチン
日本脳炎ワクチン
HPV(子宮頸がんなどHPV感染症)ワクチン

 おたふくかぜワクチンと3種混合ワクチン、HPVワクチンは任意接種、他は定期接種である。4種混合ワクチンはジフテリア・百日咳・破傷風・ポリオを対象にする予防接種である。この中からポリオを別にしたものを3種混合ワクチンと呼ぶ。また、BCGワクチンは結核の予防接種である。

 現代の乳幼児はこういった予防接種を受けている。かつては接種も普及していなかったこともあり、子どもの死亡率が高い。現在は生後1年以内の死亡率は250人に1人であるが、1939年までは10人に1人である。

 乳幼児のみならず、風疹では、胎児の健康のためにもワクチン接種が必要とされている。妊婦、特に妊娠初期の女性が風疹に罹患すると、胎児がウイルスにより健康被害を受ける危険性が高い。中でも、難聴・心疾患・白内障が三大症状とされる。そうした障碍は先天性風疹症候群と呼ばれる。アガサ・クリスティの『ミス・マープル』の傑作「鏡は横にひび割れて」では、この症候群が犯罪の動機につながっている。履歴がなければ抗体をもちろん持たないが、過去に風疹を発症したり、ワクチン接種したりしていても、抗体価が低い場合もある。しかし、そのような状態でも妊婦はワクチンを受けることができない。風疹を流行させないために、ワクチン接種率を可能な限り上げる必要がある。

 ところが、パンデミックに伴い、子どもの予防施主比率が減少している。

 『NHK』は、2020年11月13日 6時15分更新「はしか感染 世界で86万人余 1996年以降最多に WHO」において、それについて次のように伝えている。

WHO=世界保健機関ははしかに感染した人の数が去年、世界で86万人あまりにのぼり、1996年以降最も多くなったという統計を発表し、新型コロナウイルスの感染が広がる中でもはしかの予防接種が滞ることがないよう各国政府に呼びかけています。
WHOは12日、はしかに感染した人の数が去年、世界で86万9770人にのぼり、1996年以降減少傾向にありましたが、去年はこの23年間で最も多くなったと発表しました。
また、死亡した人の数は20万7500人と推定されるということです。
WHOは、従来から感染が広がるアフリカ地域に加え、ジョージアや北マケドニア、南太平洋のサモアなど、世界の広い範囲で流行していて予防接種が徹底されていないことが原因だとみています。
新型コロナウイルスの感染が広がる中、ユニセフ=国連児童基金は、医療機関がひっ迫し、はしかの予防接種にあたる医療従事者が不足していることや感染を恐れて保護者が子どもの予防接種を控えていることなどから、はしかなどの予防接種を受けられずにいる子どもが増えていると指摘しています。
WHOは、世界26か国の9400万人余りがはしかの予防接種の機会を失い感染者がさらに増えるおそれがあると指摘していて、接種が滞ることがないよう各国政府に呼びかけています。

 新型コロナウイルスの感染を恐れるあまり、医療機関に赴くことをためらい、子どもの予防接種を避けてしまう。この躊躇は、これまでワクチンが子どもの生命や健康被害をどれだけ救ってきたかを考えれば、合理的とは言えない。しかも、子どもを対象にしたワクチンは特定年齢で受ける必要があり、それを逃すことは将来の健康にもよろしくない。しかし、人間の合理性は限定的なものなので、短期と長期のリスクに直面した時、後者より前者を優先してしまいがちだ。

 ワクチンは人間だけでなく、動物にも感染症予防に利用されている。その代表が犬の狂犬病ワクチンである。これは狂犬病予防法に基づき、生後3か月以降のすべての犬に対し、年1回の接種が義務付けられている。狂犬病は人間にも感染し、発症した場合、致死率はほぼ100%である。非常に危険な疾病であるため、このような法制度が施行されている。「狂犬病」という呼称であるが、ウイルスの宿主は犬に限らず、キツネやコウモリなども含まれる、

 新型コロナウイルス感染症のワクチンには個性的な特徴がある。従来、一般的に使われてきたワクチンは不活化ワクチンや組換えタンパクワクチン、ペプチドワクチンなどである。それはウイルスの一部のタンパク質を人体に投与し、免疫ができるというものだったが、今回は違う仕組みを持っている。COVID-19ワクチンはメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンに属する。これはウイルスのタンパク質の一部ではなく、それを合成する情報の一部を身体に投与するものだ。身体の中でこの情報を元にウイルスのタンパク質の一部がつくられて抗体などができ、免疫が獲得される。

 しかも、このワクチンをめぐって驚くニュースが報じられている。それは異なるメーカー製のワクチンを接種した際に効果が向上するということだ。

 ミシェル・ロバーツ保健編集長は、『BBC』2021年6月29日更新「異なるワクチンの組み合わせ接種も『高い予防効果』=英研究」において、それを次のように解説している。

新型コロナウイルスのワクチン接種で、1回目と2回目で異なるメーカーが製造したワクチンを使った場合も予防効果が得られるとの結果が28日、イギリスの研究で示された。
「Com-Cov臨床試験」に関する今回の研究では、ファイザー製またはアストラゼネカ製のワクチンを2回接種した人と、両ワクチンを1回ずつ打った人について調べた。
その結果、すべての組み合わせで免疫がつくられ、十分に機能していることがわかった。
これにより、ワクチン接種がより柔軟に実施できると、専門家らは指摘している。
今回の研究はまた、アストラゼネカ製ワクチンをすでに2回接種した人について、仮に異なるメーカーのワクチンの追加接種(ブースター)を秋に推奨されて受けた場合、より強力な追加免疫を得られる可能性があるとした。
だが、英政府の副主任医務官を務めるジョナサン・ヴァン・タム教授は、現在の国内のワクチン接種スケジュールを変更する理由はないと述べた。十分な量のワクチンがあり、接種の効果もみられていると説明した。
一方で、今後の検討対象になりうると表明。「別々のワクチンの接種は、追加接種にさらなる柔軟性を与えることになる。ワクチン接種をまだまだ進める必要がありながら、供給面で困難に直面している国を支援することにもつながる」と述べた。
一部の国ではすでに、別々のワクチンの接種を実施している。スペインとドイツは、1回目にアストラゼネカ製を打った若者に対し、2回目はファイザーやモデルナが製造したワクチンを接種している。ただこれは、効果の観点からではなく、アストラゼネカ製ワクチンについて、まれに深刻な血栓を生じさせることが懸念されているためだ。
新型ウイルスをブロックし殺すT細胞や抗体を得て、新型ウイルスの感染症を完全に予防するには、2回の接種が重要だ。
今回の研究では、50歳以上のボランティア850人に対し、4週間の間隔を置いてワクチンを接種した。その結果、以下のことがわかった。
アストラゼネカ製の後にファイザー製を打った場合、ファイザー製の後にアストラゼネカ製を接種した場合よりも、抗体とT細胞が活発化した
前記の2通りの接種は、アストラゼネカ製の2回接種より抗体が増した
ファイザー製を2回接種した人が抗体の反応が最も強かった。T細胞の反応が最も強かったのは、アストラゼネカ製の後にファイザー製を打った人だった
「ベストな」新型ウイルスワクチンは? 簡単に比較できない理由を解説
筆頭研究者のオックスフォード大学のマシュー・スネイプ教授は、今回の結果によって、同じワクチンを2回接種する英政府の方針が損なわれるわけではないと説明。「標準的なスケジュールは両方とも、重症化や入院の防止に非常に効果的だと、すでにわかっている。8~12週の間隔を置いて接種されれば、デルタ変異株にも有効だ」とした。
同教授はまた、今回の結果から別々のワクチンの接種も効果的だと示されたと述べた。研究ではイギリスで一般的な8~12週の間隔ではなく、4週間の間隔を置いて接種されたが、それでも効果が確認できたとした。
「間隔は長いほうが、よりよい免疫反応が得られるとわかっている」
12週間の間隔を置いて別々のワクチンを打つ研究も実施されており、結果は来月、公表される予定だ。
秋の追加接種は
28日に公表された査読前の別の研究は、アストラゼネカ製ワクチンを2回目の接種から6カ月以上後に改めて接種することで、免疫力を高められるとした。
ただ専門家らは、今年の冬を前に追加接種が必要かを判断するには時期尚早だとしている。時間の経過による免疫の低下については、まだ不明な点が多い。
イースト・アングリア大学のポール・ハンター教授は、「いま問題なのは、この秋に追加のワクチン接種を実施するのかどうかだ。今回の研究などからは、年齢や病気が理由で新型ウイルスのリスクが大きい人については、可能性が高いとみられる」と話した。
同教授は、アストラゼネカ製ワクチンを打ってきた人について、さらに同じワクチンが接種されるのではなく、ファイザー製ワクチンが追加接種されるかもしれないとの見方を示した。一方、ファイザー製を打ってきた人については、今回の研究結果から、秋の追加接種は必要ないだろうとした。

<分析>ファーガス・ウォルシュ医療担当編集長
異なるワクチンを同じ人に接種する今回の研究の初期結果は、とても明るいもので、追加接種について興味深い選択肢を示している。
1回目と2回目の接種で、アストラゼネカ製とファイザー製という別々のワクチンを使うことで、強い免疫反応が生み出された。実際、ファイザー/ファイザー、アストラゼネカ/ファイザー、ファイザー/アストラゼネカのいずれの組み合わせで接種しても、アストラゼネカ/アストラゼネカの接種よりも多くの抗体がつくられ、細胞の反応も高まった。
これは、アストラゼネカ製の2回接種がいくらか劣っていることを示しているのだろうか。いや、必ずしもそうではない。
アストラゼネカ製の2回接種によって、新型ウイルス感染症による入院リスクが90%以上減少したと証明されていることは、覚えておくべきだろう。
アストラゼネカ製ワクチンの効果が高いことは、現実世界で証明されている。同ワクチンは効果がゆっくり現れる「スローバーナー」タイプで、免疫レベルは徐々にアップする。接種間隔が長い場合は特にその傾向がみられる。現在、1回目と2回目の接種の間隔は8~12週間とされており、十分な免疫反応が得られるはずだ。
今回の研究が示しているのは、追加の3回目の接種においては、それまでの2回で接種したのとは異なるメーカーのワクチンを打つのが望ましいだろうということだ。
ただ、別々のワクチンを接種することで悪寒や頭痛、筋肉痛など、より短期の副反応がみられていることには注意が必要だ。

 自然科学はこのように新たな研究成果の登場によって、従来の説の変更されることが起こるものだ。最新の知識で認識をアップデートする必要がある。

 従来、ワクチン開発は製薬企業にとって積極的投資対象ではない。多種多様の大勢に使用するため安全性の高さが要求され、開発に多額・長時間を要し、承認まで厳しい審査と長い期間が待ち受け、需要は不確実、そうこうしている間に特許も切れる。生活習慣病の治療薬の方が確実にもうかる。

 新型コロナウイルスワクチンは公共機関からの資金支援もあり、大きな需要が見込め、承認も特例的に迅速であったため、極めて短期間の内に開発される。今回のケースにより製薬企業のワクチンに対する姿勢が変わるという期待もあるが、今後こうした条件がそろうかは疑問で、そう決めつけることはできない。ただし、大きな成功を収めたmRNAワクチンの将来性は期待されており、この分野の投資が増加していくことは間違いないだろう。

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