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後遺症と文学(2)(2021)

第2章 アオリストとしての文学
 新型コロナウイルス感染症に言及する小説はすでに登場している。社会の中の文学なのだから、今後も増えていくだろう。けれども、後遺症を正面切って扱う作品が出現するかは疑問である。実は、感染症の後遺症を小説に描くことは難しい。

 批評は、一般的に言って、すでにあるものを扱う。しかし、いまだないものを論じることも批評には可能である。これを「不在批評」と呼ぶことにしよう。それは将来登場すると予想されるものを語ることだけではない。なぜこれまでこのようなものが出現しなかったのかを明らかにする試みも含まれる。つまり、不在批評は文学の可能性を探究するものだ。

 けれども、不在を論じる際に気をつけなければならないことがある。いまだないものだけに願望を込めたり、直観を披露したりしかねない。それは母語話者がその言語の意味や用法について思い込みや思いつきで説明することと似ている。不在を論じるには、隣接するすでにあるものを吟味してそれと比較することが不可欠である。隣接するものをしっかりと論じているからこそ店それが他に移植できる。

 文学作品が感染症の後遺症を扱うことは多くない。感染症の過程を段階に分けるなら、それは感染・発症・治療・回復である。もちろん、治療の甲斐なく、残念な結果に至ることもある。スペインかぜを取り扱った志賀直哉の『流行感冒』はこの四段階をすべて描いている。それはちょうどこの物語の起承転結に相当している。

 後遺症は長い回復とも言えるが、場合によっては障がいが伴うため、社会復帰・参加が関心事である。マンガであるけれども、手塚治虫の『ブラック・ジャック』の「アリの足」(1974)という物語はそれを描いている。言及はないが、1960~61年、日本でポリオの大流行が発生している。

 この回の主人公の少年はポリオにより非対称性弛緩性麻痺の後遺症が残った中高生である。彼は、本間丈太郎医師の本を読み、かつて自分と同様に手足の不自由な少年が歩いて旅をしたことを知る。足を引きずりながら前に進もうとするアリの姿を目にした彼は、本の少年と同じ行程の旅に出る。出発してしばらくすると、彼はブラック・ジャックが後をつけてくることに気がつく。独力でやり遂げると迷惑に思っていた彼だったが、あの本の少年がこの医師だと知る。かたくななだった心も打ち解け、BJのサポートを受け入れ、彼は旅を成功させる。以上のように、「アリの足」はポリオの後遺症に苦しむ少年が自立を試みる物語である。

 架空のパンデミックを扱う作品は感染症流行の発生・爆発・終息のプロセスを描くのが主眼なので、後遺症に踏みこむことはあまりない。出現する感染症は概して感染力が強く、致死率も高い。後遺症は日常性と関連するので、こうした非日常性の世界には登場する余地がない。

 数少ない感染症の後遺症を扱った小説としてアガサ・クリスティの『鏡は横にひび割れて(The Mirror Crack'd from Side to Side)』が最も有名だろう。これは、1962年に刊行された「ミス・マープル」シリーズの長編第8作目にあたるミステリーである。傑作の誉れが高く、何度も映像化されている。なお、題名は、アルフレッド・テニスンの詩『シャロットの女 (The Lady of Shalott)』の一節に由来している。

 ネタバレにつながるので、内容に踏みこむことは差し控えざるを得ない。イギリスのセント・メアリ・ミード村に、アメリカから女優マリーナ・グレッグが引っ越してくる。彼女は歓迎パーティーを開き、地元の人々を招待する。「ミス・マープル」ことジェーン・マープルも親友のドリー・バントリーとその屋敷尾を訪れる。ところが、マリーナ・グレッグとあいさつを交わした直後、飲み物を口にしたドリーが倒れ、死んでしまう。この第一の殺人事件から物語が展開していく。

 実は、マリーナ・グレッグには障がいのある子どもがいる。その原因は先天性風疹症候群である。免疫が不十分な妊婦──特に妊娠20週まで──が罹患すると、風疹ウイルスが胎児に感染、後遺症として難聴や心疾患、白内障などによる障がいを持って生まれてくる高い可能性が認められる。発症頻度は妊娠1ヶ月でかかった場合50%以上、2ヶ月の場合は35%などとされる。この風疹症候群が事件の鍵である。

 先天性風疹症候群は今日の日本でも公衆衛生上の重要な関心事の一つである。厚生労働省は、『風そんについて』において、平成に入ってからのその状況について次のように述べている。

かつてはほぼ5年ごとの周期で、大きな流行が発生していましたが、平成6年以降の数年間は大流行がみられませんでした。しかし、特に平成14年からは局地的な流行が続いて報告されるようになり、平成15年~平成16年には流行地域の数はさらに増加し、例年0~1名であった先天性風しん症候群が10名報告されました。これを受けて、厚生労働科学研究班による緊急提言(略)が出され、予防接種の勧奨、風しんり患妊娠女性への対応、さらに流行地域における疫学調査の強化がなされ、その後、風しんの流行は一旦抑制されました。
ところが、平成23年から、海外で感染して帰国後発症する輸入例が散見されるようになり、平成25年には累計14,344例の報告があり、風しんが全数報告疾患となった平成20年~平成25年では最も多い報告数となりました。この流行の影響で、平成24年10月~平成26年10月に、45人の先天性風しん症候群の患者が報告されました。その後、平成26年から平成29年にかけては、各々年間319例、163例、129例、93例の報告があり、平成23年以前の水準に落ち着いていたものの、平成30年には7月下旬頃から関東地方を中心に患者数の報告が増加しています。
厚生労働省は、風しんに関する特定感染症予防指針を改正(平成29年12月21日一部改正、平成30年1月1日適用)し、風しん及び先天性風しん症候群の発生時に迅速な対応ができるよう、風しんの患者が一例でも発生した場合に、感染経路の把握等の調査を迅速に実施するように努めるとともに、原則として全例にウイルス遺伝子検査を実施することで、確実に風しんを診断することとしています。また改めて定期予防接種に対する積極的な接種勧奨を行うとともに、妊娠可能女性とその家族への予防接種の推奨、また産褥女性に対する風しん啓発を行っており、2020年度までに風しん排除の達成を目指しています。

 風疹は感染症法により医師の届け出が必要な疾患で、厚生労働省がサイトでも詳しい情報を提供している。風疹は風疹ウイルス(RNA型)による急性の熱性発疹性感染症である。ヒト=ヒト感染し、経路は飛沫幹線で、不顕性感染もある。感染力が強く、1人から5~7人が感染する。ちなみに、季節性インフルエンザの感染力は1人から1人程度である。

 風疹の潜伏期間はおよそ14~21日である。その後、発熱や発疹、リンパ節の腫れなどの症状が現われる。症状は子どもでは比較的軽いが、2,000人~5,000人に1人くらいの割合で脳炎や血小板減少性紫斑病などの合併症を発生することがある。また、大人がかかると、発熱や発疹の期間が子どもに比べて長く、関節痛も多いとされる。なお、発疹の出る前後約1週間に感染させる可能性がある。

 風疹における最も重要な症状は、すでに述べた通り、先天性風疹症候群である。風疹の致死率は低いが、この後遺症があるために風疹は危険な感染症に位置付けられる。妊娠20週頃までの女性が感染すると、先天性風疹症候群の子どもが出生する危険性がある。

 風疹の予防にはワクチンが有効である。風疹ワクチンの接種が日本で開始されたのは1976年である。翌777年8月から女子中学生を対象に定期接種が始まっている。1989年、生後12〜72ヶ月の子どもへの麻疹ワクチン接種時に、麻疹・おたふくかぜ・風疹の3種混合ワクチン(MMR)の選択も可能になっている。

 しかし、抗体量が十分でないとしても、妊婦はワクチン接種することができない。そのため、家族を始め身近な人たちの予防も不可欠である。先天性風疹症候群をを避けるには、風疹を流行させないことが重要である。風疹予防の公共性はここにある。

 アガサ・クリスティのミステリーでは、妊娠中の女優の感染した原因が事件に大きく関連している。女優はなぜ風疹に感染したのか見当がつかなかったが、そのパーティーの時に、彼女はそれを知る。女優にとって感染のミステリーが溶けた瞬間に、殺人事件のミステリーが始るというわけだ。

 こうした傑作がある一方で、感染症の後遺症をめぐる作品はあまり見受けられない。これは小説がアオリストを扱うのが得意である反面、そうでない者を不得手にしていることに起因している。

 「アオリスト(Aorist)」は古代ギリシア語やサンスクリット語などの動詞の相(アスペクト)の一つである。この概念はギリシアの「境界のない、範囲が不確定の」に由来する。アオリスト相は、動作が継続的・反復的であることを表わす未完了相、また動作の結果を示す完了相と違い、継続・反復・官僚ではなく、動作を総体的な出来事として捉える。

 「風邪をひいた」をアオリスト相で言ったとしよう。これにはひき始めて終わった風邪という一つの出来事を表わしている。「かつてよく風邪をひいた」という反復や「風邪をひいてまだ治らない」という継続、「風邪をひいたけれども今は治った」という完了のニュアンスはない。アオリストは動作を一つのオブジェクトとして言い表すことだ。

 始まりと終わりによって範囲が規定されたオブジェクトであるなら、起承転結など物語の展開構造を当て嵌めやすい。アオリストは小説にしやすい。しかし、後遺症は継続するので、比ゆ的意味においてアオリストではない。そのままでは、当然、取り扱いが難しい。

 ただ、『ブラック・ジャック』や『ミス・マープル』は後遺症をアオリストとして切り取っている。前者は旅、後者は感染という一つの出来事によつて描く。継続・反復・完了の物事もアオリストによって捉え直すならば、物語にできる。こういった発想が傑作につなががっている。なお、『ブラック・ジャック』には「後遺症」(1974)という物語もある。

 実際のパンデミックを小説にしにくいのは、それがアオリストではないからだ。非常に影響が広範囲に亘り、始まりと終わりも曖昧で、一つのオブジェクトとして捉えるのが難しい。他方、架空の場合は最初と最後が明確で、感染力と毒性が強い感染症により自然状態に近い世界となり、それはアオリストである。

 参考までに言うと、筋立てのゆるい小説もあるが、それは筋以外にアオリストを見出している。ヌーヴォー・ロマーンは、物語構造から離れていても、行為を一つのオブジェクトとしている。

 今回のパンデミックをめぐる小説も登場している。しかし、それらは感染症自体ではなく、社会の変化の一部を描いている。つまり、そうした作品におけるパンデミックはオブジェクトではなく、環境である。感染経験者は決して少なくはないし、その体験談もメディアを通じて伝えられている。それらを参考に、経験していない作家でもこの感染症をめぐる小説を書けそうに思える。けrども、継続中であるから、パンデミックはアオリストでなく、小説にするのは難しい。当然、その後遺症はなおのことである。

 新型コロナウイルス感染症の後遺症は、ポリオや風疹と違い、現時点でhじゃ生涯続くのではなく、主に症状の遅延世思われる。ただ、これは今回のパンデミックの特徴の一つである。後遺症を扱うのが難しいことは確かだが、今後文学が取り組まないとしたら、パンデミックに向き合う姿勢として不十分だろう。アオリストとして把握しやすい物事ばかりを取り上げるようでは、社会の中の文学にならない。
〈了〉
参照文献
伊藤笏康、『言葉と発想』、放送ダウ額教育振興会、2011年
アガサ・クリスティー、『鏡は横にひび割れて』、橋本 福夫 訳、ハヤカワ文庫、2004年 
手塚治虫、『ブラック・ジャック』5、少年チャンピオン・コミックス、1975年

「コロナ後遺症? 息切れや倦怠感、リハビリで軽減めざす」、『日本経済新聞』、2020年7月25日21時00分更新
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61919500V20C20A7EA1000/?fbclid=IwAR1BXQ9bv54ywZV0soRV-F8IUnJzQEsYSLsLKhO1mQEemxcxqhA6ulYEk7s
「“無症状の4人に1人が肺炎に” コロナ感染者を追跡調査 和歌山」、『NHK』、2021年10月29日 15時49分 更新 
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211029/k10013326721000.html
「新型コロナ 後遺症でも労災認定 国が労基署への相談呼びかけ」、『NHK』、2021年11月4日 6時20分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211104/k10013333751000.html?fbclid=IwAR0JMg1DPs6QMWDV3tiN4kCM3VZVlbB-rUs2dzcf1pH0G77gtoPMzXwN75s
「コロナ後遺症、症状多岐 倦怠感や脱毛、1年続く人も―専門医『早く受診を』」、『時事通信』、2021年11月08日07時01分更新
https://www.jiji.com/sp/article?k=2021110700291&g=soc
厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/index.html


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