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フェティシズム通信(1992)

フェティシズム通信
Saven Satow
Oct. 31, 1992

「うんこ びちびち
しっこ じょんじょん
青っぱな じゅるじゅる」。
吾妻ひでお『ちびママちゃん』

 カール・マルクスは、『資本論』において、貨幣退蔵者、すなわち守銭奴がマネー・フェチだと次のように述べている。

 金を貨幣として、したがって貨幣退蔵の構成分子として固定させるためには、流通することや、または購買手段として、享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それゆえに、貨幣退蔵者は、黄金神のために自分の肉欲を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実である。他方において、彼が流通から貨幣を引上げることのできるものは、彼が商品として流通に投じたものだけである。彼は生産するほど、多くを売ることができる。したがって、勤勉と節約と吝嗇はその主徳をなしている。多く売って少なく買うということが、彼の経済学のすべてである。

 「フェティシズム(Fetishism)」は「客体のひそかな擬人化、人間化、あるいは客体の活性化と同じことだと言ってもいいだろう」(ヴィクトル・フォン・ゲープザッテル『フェティシズムの現象学』)。「フェティシュ(Fetush)」はポルトガル語の「魔術」に由来し、プリミティヴな社会での石や木像などの物的な崇拝対象から転じ、訳語として「物神」が用いられる。フェティシズムは、シャルル・ド・ブロスが1760年に発表した『物神崇拝』の中で使用したことから流布する。その後、オーギュスト・コントが『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』(1822)において多神教を総括する用語として使っている。

 守銭奴は収入をできる限り増やし、支出をできる限り減らして、貨幣を貯めこもうとする。貨幣の機能は交換・保存・尺度であるが、彼らは集めること自体が目的である。貨幣のために「勤勉と節約と吝嗇」という禁欲主義に励む。だから、守銭奴は貨幣フェティシストである。言うまでもなく、貨幣が活動を通じて社会に流通することが経済成長につながるので、彼らの行動は望ましくない。

 フェティシストは特定の対象を偏愛するだけではない。それを崇拝するために、禁欲主義的姿勢さえ厭わない。修道士のような態度でその物神に帰依することがフェティシズムである。

 しかも、フェティシストの崇拝対象は具体的な古物というより、そのイデアである。巨尻のフェチであれば、彼らが求めているのはそのイデアを表象するそれである。放尿フェチなら、その角度や色などを通じてイデアが認識できるものでなければならない。だからこそ、ローラン・ヴィルヌーヴの『フェティシズムの博物館』によれば、「フェティシズム」が性器に向けられることは稀で、そこ以外の部分への執着として顕在化し、それを通じて、性器的なものを想像していく。フェティシストは性器には無欲であるが、これは天国のために現世に無欲であるという宗教的意識を思い起こさせる。フェティシズムはイデアへのエロスであり、プラトニズムの一種である。

 フェティシズムの特徴がわかると、日本におけるマニア誌がなぜこのような状況なのかの理由も理解しやすい。日本のマニア誌はSMから始まり、その後、S向きとM傾向などさまざまな領域に細分化されていった経緯がある。1992年の時点で、たいていのマニア誌はせいぜい2、3年しか続かない。ところが、スワッピングなどを含む男女交際や同性愛と並んで、SM系雑誌は息が長い。『SMスナイパー』や『SMマニア』など10年以上続いている本も少なくない。中には、戦前の雑誌の流れを汲むものまでもある。

 マニア誌は広範囲に渡り、極めて専門化されている。そのため、セグメント化しすぎて微妙な差異があり、分類化が困難である。ボンテージ系はSMに属しているが、ビザール系はそれに分類されない。また、フット・フェティシズム系も、男を踏みつけている足やミニスカートから出ている足などのように、関心にデリケートな差異があり、互いに固定読者をつかんでいる。しかも、男を踏みつけている足に拘るフット・フェティシズム系といわゆるM男系の雑誌の間では、カメラのアングルからまったく違っており、別の領域として扱われている。

 今日のマニア本の細分化はこの程度でとどまらない。女性のうなじに関する写真や文だけで構成されている定期刊行物もある。また、医療プレイ・マニア系は、ほとんどが医療器具の使用法の専門的な解説などに費やされている。写真はそれを補助するために用いられているだけで全体の一割にすぎない。吉田照美が少年の頃ことのほか好きだったお医者さんごっこの域を超えている。

 なお、マニア誌では、編集スタッフが一方の性か全体の60%を上回っていると、刺々しくなるが、各々の性の量的比率・地位がバランスのいい本ほどユーモラスになり、できがよくなる。ノルウェーでは、すべての職場において、一方の性は全体の40%以下となってはならないというクォータ制が完備されている。マニア誌の場合の「性」は女性と男性のみを意味しないのであり、よい本ではクォータ制の理想が実現している。

 こうしたマニア誌は「雑誌(Magazine)」ではない。「通信(Report: Communication)」である。雑誌は読者層を想定した上で、彼らの多様な価値観や必要性に応える表現や知識を提供する。セグメント化したとしても、一元主義的ではない。一方、マニア誌はそれに帰依する禁欲主義者にとってのイデアを追求する。多様性は不要である。マニア誌の作り手と読み手は美意識を共有していなければならない。それを分かち得ていない一般市民がマニア誌を見ても理解できないのは当然である。理解されるようでは、マニア誌としては不十分だ。

 マニア誌はイデア表象の通信、すなわち報告の場である。だが、イデアは永遠であるとしても、それは実現し難く、マニア誌は長続きできない。継続するマニア誌は交際を目的にするなどコミュニケーションに関連するものにほぼ限られる。それはプラトンの『饗宴』の表象で、美のイデアを求めるエロスの探求である。フェティシズム通信としてのマニア誌はプラトニズムの実践にほかならない。

Shiny, shiny, shiny boots of leather
Whiplash girlchild in the dark
Comes in bells, your servant, don't forsake him
Strike, dear mistress, and cure his heart

Downy sins of streetlight fancies
Chase the costumes she shall wear
Ermine furs adorn the imperious
Severin, Severin awaits you there

I am tired, I am weary
I could sleep for a thousand years
A thousand dreams that would awake me
Different colors made of tears

Kiss the boot of shiny, shiny leather
Shiny leather in the dark
Tongue of thongs, the belt that does await you
Strike, dear mistress, and cure his heart

Severin, Severin, speak so slightly
Severin, down on your bended knee
Taste the whip, in love not given lightly
Taste the whip, now plead for me

I am tired, I am weary
I could sleep for a thousand years
A thousand dreams that would awake me
Different colors made of tears

Shiny, shiny, shiny boots of leather
Whiplash girlchild in the dark
Severin, your servant comes in bells, please don't forsake him
Strike, dear mistress, and cure his heart
(The Velvet Underground & Nico "Venus in Furs")
〈了〉
参照文献
今村仁編、『現代思想を読む事典』、講談社現代新書、1988年
寺山修司、『不思議図書館』、角川文庫、 2005年
カール・マルクス、『資本論』1、岡崎次郎訳、国民文庫、1983年

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