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平野謙(2)(2005)

3 私は中途半端がすきだ
 小林良雄や松田康雄などさまざまなペンネームを使っていたが、一九四一年、山室静と同人誌『批評』を始めた際、「シャンとした一本立ちの名にしたい」という理由から、後に文学史に残るペンネームを考案し、以降この署名に統一される。三五年四月に『進歩』での初の文芸時評「島木謙作の評価について」が「平野謙」による最初の作品だとされている。

 「謙」という字を選んだのは「ただケンという音を好んだから」である。「顕」にしようかとも一時期悩んだが、字画が多いし、宮本顕治からとったと推測されるのが嫌だったので、避けている。本名を名乗るという選択肢もあったはずだが、「とにかく本名を使わないことは、左翼に影響された時代の名残として、自明のことと思っていた」(平野謙『私のペンネーム』)。それは、同時に、一九九〇年前後に活躍した強肩・俊足の外野守備と巧打のスイッチ・ヒッターで知られるプロ野球プレーヤーを一度でも耳にした文学者に、その名前を忘れさせないようにさせている。

 竹田青嗣は、『世界認識のパラドックス』において、「政治と文学」について次のように述べている。

 私が想い出すのは、「政治と文学」というアポリアを、ソクラテス的論法で泳ぎわたった平野謙以下の「近代文学派」のことだ。当時、「政治と文学」という対立項は、時代的な難問だった(私たちはしばしば嘲笑するが軽薄すぎる。なぜひとつの時代の中で最も困難なアポリアがひとつ現われるのか、なぜそれが容易に超え難いものなのかを考えてみるべきだ。それは現在でも全く変わらない事態なのだから)。たとえば平野謙は、自分は過去に中野重治と小林秀雄から深い影響をうけた、人にはバカげたことにうつるだろうが、やっと覚悟をきめた、「ほかならぬこの二重性、中途半端の裡にこそ」自分の文学的宿命がある、と書いている(「私は中途半端が好きだ」)。平野謙がとったのは、要するに、中野重治(政治)と小林秀雄(文学)という両極の「情熱」のあいだを生きることだった。私にはそれは、問題を、「はっきりさせる」のではなく、むしろ解決不可能(=アポリア)という相で存在させることによって、自身の文学的情熱を引き延ばすことだったと思える。

 近代文学派は「ひとつの時代の中で最も困難なアポリア」として「政治と文学」をつむぎだし、その挑戦者を募集したというわけだ。こういったトピックは党派抗争に不可欠である。他にも、アポリアをめぐるさまざまな論争が次々に生まれ、同誌は文学界を活性化し、多くの作家の登場を促している。こうした数々の論争は同人拡大にもつながり、花田清輝、野間宏、福永武彦、中村真一郎、安部公房、武田泰淳、原民喜らも加わった大集団になった時期もある。批評中心の雑誌だったけれども、埴谷の『死霊』を掲載している。

 一九五〇年代後半から、初期同人よりも若手の執筆が増え、新人発掘の機能も果たしたものの、雑誌自体は徐々に衰退し、東京オリンピックの六四年、休刊を迎える。高度経済成長による人口流出と開発により地方の伝統的な生産関係・様式が崩壊し、日本全体が都市的な均質化した風景に覆われていく。日本近代文学が前提としていた党派性もまた効力を失っていき、一九五六年一月から始めた『毎日新聞』の文芸時評欄の担当を平野謙は、学生運動が最高潮に達する六八年一一月、とうとう降りる。

 竹田青嗣は、『日本近代文学という発想』において、日本の文学界での平野謙の果たした役割を次のように述べている。

 日本の近代小説を「芸術と実生活」という二律背反にとらえ、それを「政治と文学」という新たな二律背反へと「揚棄」すること、それが平野における「私小説的文学精神の方法化」ということの現実的意味あいでなかったろうか。磯田光一は平野の方法を「私小説的思惟によって私小説的思惟を撃つという、きわめて逆説的な道程」と評したが、そういう言い方はもはや奇妙である。私たちはむしろ次のように言うべきであろう。日本の私小説を成立させたまさしくその思惟のかたちこそが、平野の私小説観、日本近代文学観を可能にしているものにほかならないと。つまりそこでは批判されている私小説と、私小説を揚棄しようという欲望が、ともに同じ「文学」的な問いの内側にあるのだ。

 平野謙の「日本近代文学」なる発想は、奇型化し逼塞した日本の近代小説の道すじを、いかに戦後という新たな時代(“歴史”)の中で治療するかという課題の中で発見されたといえる。しかしすでに見て来たように、彼が現実的に果たしたのはむしろ逆の事態であった。つまり、日本文学を貫流していた「文学」的問いを、彼は戦後文学の発想の枠組みの中にほとんどそのままの形で延命させたのである。それはただ「芸術と実行」というより素朴な形から「政治と文学」という新たな命題へ移し変えられたとしか言えない。

 平野謙の私小説批判は対象である私小説と同じ基盤に立脚している。その意味でそれは真の批判とは言えない。しかも、「政治と文学」という問題は「芸術と実生活」と構造的に同一であり、平野謙は「日本文学を貫流していた『文学』的問い」を歴史的・社会的変化の中で「延命」させただけである。平野謙の批評は日本近代文学における問題点を是正し、健全にすることを妨げる役割を果たしている。

 しかし、平野謙は確信犯である。彼は問題点が見えていたにもかかわらず、あくまで日本近代文学を「護る」ために、そう振舞い続けている。彼ほど日本近代文学の底流を理解していた批評家はいない。夏目漱石の『道草』や志賀直哉の『暗夜行路』の翻訳者であるエドウィン・マクレランは、柄谷行人の『感じることと考えること』によると、「おおかた方の日本の批評家よりはるかに日本の近代文学の底流を理解していた。たとえば私は彼によって宇野浩二の面白さに開眼させられたほどだった。彼が批評家では平野謙を評価していたこともつけ加えておこう」。日本の文芸批評家は、多くの場合、海外の日本文学の研究者から軽視ないし無視されている。そもそも日本の文芸批評を翻訳しようという試みさえ稀である。日本文学の特集を雑誌が組んだとしても、批評が掲載されることはまずない。そんな中、マクレランほどの研究者が一目置く批評家が平野謙である。

 平野謙自身がこの二つの論争の反復性を自覚していることは、『文学・昭和十年前後』の次のような記述から明らかである。

 一口にいうと、昭和十年前後という時期を、私は現代文学の根本的な再編成のエポックと考え、その具体相を私なりに明らめたい、と思っている。だから、昭和十年前後という文学史上のエポックを、もう一度私なりにほじくりかえしてみたい、と考えたのである。

 彼は意識的に同じ構造の「昭和文学のふたつの論争」を提起している。と言うのも、「昭和十年前後という文学史上のエポック」である以上、そのころに起源を持つ文学的問いの「芸術と実生活」や「政治と文学」が論じられることは不可避だからである。昭和十年前後は日本近代文学の「根本的な再編成のエポック」であって、以降はその延長にあり、論争は時代的な変化に応じているだけで、本質的には同じである。

 磯田光一は、『平野健論』において、平野謙の理論の「ゆがみ」自体が日本近代の「ゆがみ」を表象していると次のように言及している。

 そして人間が何といおうと、歴史が二度と繰返さぬかぎり、その「ゆがみ」こそが唯一の現実であったということを認めることなしに、私たちは日本の「近代」について何事も語ることはできない。平野謙を凡庸な近代主義者から截然と分つ要因こそ、「近代」という名の土着的な伝統を、自分の血液の問題として語ったという事実を措いてほかにない。

 しかし、こういう「凡庸」な意見は、『椿三十郎』の城代家老睦田のような食えない狸の面を見失っている。平野謙は日和見な現状追認などしない。

睦田 わしに人望が無かったことがいかんかった。このわしの、間延びした顔にも困ったものだ。昔のことだが、わしが馬に乗ったのを見て、誰かこんなことをいいよった…「乗った人より、馬は丸顔…」
(黒澤明『椿三十郎』)

4 交渉人
 平野謙は日本文学の現状を知りぬいた上で、最適の代替案として自説を提示する。抜け目のないしたたかなタフ・ネゴシエーターである。たんなる安易な修正主義者ではない。平野謙は私小説の支配という日本近代文学の既成事実に対し、代替案を提示する。その支配を完全に覆すことはしない。彼は交渉的な読解を行っているのであって、一方的に自分の主張を押し通すことは極力避けている。確かに、私小説は後戻りできない状況をつくりあげ、他の文学に協調路線を強いている。その圧力に対し、正面衝突を避けながら、代替案を模索するのが得策である。既成事実の大きさに囚われすぎて、相手を正面から批判し、代替案を提示しないと、私小説は自分を正当化することに専念し、現状打破の道が閉ざされてしまう。泣き寝入りをせず、相手に理解を示し、相手の面子を保つ代替案を示す。彼にとって、文学論争は、あくまでも、交渉である。

 「交渉は、暴力的手段によることなしに、利害をめぐる対立を解消し、利益を実現するための”話し合いのプロセス”である。交渉の基本は、ギブ(譲歩)とテイク(獲得)であり、決して勝つか負けるかのサバイバルゲームではない」。「交渉には要求と譲歩があり、要求のために譲歩があり、要求のために情報がなされる」(中嶋洋介『交渉力』)。交渉は決して一点を目指さない。ある交渉終結領域に向けて進められるため、曖昧さが残らざるを得ない。狭い領域で交渉が行われると、決裂しやすい。その匙加減が公証人の腕の見せどころである。

 森毅は、『過激派とのつき合い』において、交渉の過程について次のように述べている。

 このごろは、団交などもあまりなくなったが、あれだって世間が考えるほどに敵対的なものではなかった。どなりあっていても、ものの一月か二月もすると、教授と学生として顔を合わせねばならぬ。そのときに、おたがい気まずくならぬように、というのが最も気をつかうところだ。団交の多かったころには、団交中毒というものもあった。こちらの片言隻句に野次が飛んでくるので、表現に神経を使うし、反応がすぐに来る。ところが、日常の授業になると、こちらが嘘を言ってしまっても気がつかない。団交の緊張感が妙になつかしくなるのだった。
 そのころの団交評論では、「四分六か七三か」と言われたものだ。五分五分の分かれだと、当局はなんと言っても制度的権力なので、「当局の勝ちすぎ」になって、状況に合わない。そうかと言って、学生側が八分も勝つと、これは「学生の勝ちすぎ」で、彼らの事態処理能力の手にあまる。だから、七三か六四かの比較的狭い幅のなかで、断交という名のイベントがあるのだ。
 その調子を知るために、予備折衝がある。べつに「ボス交」のとりひきをするのではない。おたがい相手の調子の瀬ぶみをするのである。

 平野謙は、決して、相手を再起不能になるまで追いこまない。交渉終結領域を超えた結果を導き出してしまえば、自らの処理能力にあまり、日本近代文学自体を破綻させかねない。自分の意見を強く主張するよりも、相手の主張をうまくかわすように心がけている。相手を論破できるとしても、日本近代文学全体が衰えては元も子もない。

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