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バニラ・エア事件と異議申し立ての民主主義(2017)

バニラ・エア事件と異議申し立ての民主主義
Saven Satow
Jul. 09, 2017

「善は決して失敗することのない唯一の投資である」。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー

1 バニラ・エア事件と合理的配慮
 永井啓吾記者は、『朝日新聞デジタル』2017年06月28日 05時11分配信「バニラ・エアが謝罪 車いす客に自力でタラップはい上がらせる」において、いわゆるバニラ・エア事件について次のように伝えています。

鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪。車いすでも搭乗できるように設備を整える。

 男性は大阪府豊中市のバリアフリー研究所代表、木島英登(ひでとう)さん(44)。高校時代にラグビーの練習中に脊椎(せきつい)を損傷し、車いすで生活している。木島さんは6月3日に知人5人との旅行のため、車いすで関空に向かった。木島さんとバニラ・エアによると、搭乗便はジェット機で、関空には搭乗ブリッジがあるが、奄美空港では降機がタラップになるとして、木島さんは関空の搭乗カウンターでタラップの写真を見せられ、「歩けない人は乗れない」と言われた。木島さんは「同行者の手助けで上り下りする」と伝え、奄美では同行者が車いすの木島さんを担いで、タラップを下りた。
 同5日、今度は関空行きの便に搭乗する際、バニラ・エアから業務委託されている空港職員に「往路で車いすを担いで(タラップを)下りたのは(同社の規則)違反だった」と言われた。その後、「同行者の手伝いのもと、自力で階段昇降をできるなら搭乗できる」と説明された。
 同行者が往路と同様に車いすごと担ごうとしたが、空港職員が制止。木島さんは車いすを降り、階段を背にして17段のタラップの一番下の段に座り、腕の力を使って一段ずつずり上がった。空港職員が「それもだめです」と言ったが、3~4分かけて上り切ったという。
 木島さんは旅行好きで158カ国を訪れ、多くの空港を利用してきたが、連絡なく車いすで行ったり、施設の整っていない空港だったりしても「歩けないことを理由に搭乗を拒否されることはなかった」と話す。
 バニラ・エアはANAホールディングスの傘下で、国内線と国際線各7路線で運航する。奄美空港だけ車いすを持ち上げる施設や階段昇降機がなく、車いすを担いだり、おんぶしたりして上り下りするのは危険なので同社の規則で認めていなかったという。バニラ・エアは奄美空港でアシストストレッチャー(座った状態で運ぶ担架)を14日から使用、階段昇降機も29日から導入する。
 同社の松原玲人(あきひと)人事・総務部長は「やり取りする中でお客様が自力で上ることになり、職員は見守るしかなかった。こんな形での搭乗はやるべきでなく、本意ではなかった」とし、同社は木島さんに謝罪。木島さんは「車いすでも心配なく利用できるようにしてほしい」と話している。

 事実関係を把握するためには、長くなりますが、記事全体を引用せざるを得ません。信じがたい事件です。障がいは社会的環境によって当事者に意識されます。今日、共生社会実現のために社会的環境をバリアフリーやユニバーサル・デザインなどの発想によって改善していくことが国際的な共通認識になっています。ところが、日本では交通機関がそれを共有していないのです。しかも、木島さんをクレーマーと非難する声がネット上で広がったと言うのですから、「合理的配慮」も知らない恥知らずの多さに呆れるほかありません。

 「合理的配慮(Reasonable Accommodation)」は障がい者から何らかの助けを求める意思表明があった際、過度な負担をもたらさない範囲で、社会的障壁を取り除くための理に適った便宜のことです。

 障がい者権利条約第2条は合理的配慮について次のように定義しています。

 障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。

 抽象的な記述ですから、具体的に理解することが少々困難です。そこで交通機関ではありませんが、アメリカの大学で行われている合理的配慮の例を紹介しましょう。近藤武夫東京大学先端科学技術研究センター准教授がまとめた『米国の高等教育機関における差別禁止と合理的配慮』の中に「米国の大学における合理的配慮の例」として次の六つが挙げられています。

1. 試験の配慮
– 別室受験,時間延長,代筆,代読
2. 記録の代替
– ノートテイキング,録音の許可
3. 教材へのアクセシビリティ
– 教科書・教材の代替フォーマット(点字,音声,拡大,電子テキストファイル等)の製作,字幕のないビデオ教材への字幕追加
4. 音声言語へのアクセシビリティ
– 手話通訳,リアルタイム・キャプショニング
5. 建物とその機能へのアクセシビリティ
– 教室,寮,コンピュータ室,図書館,実験室等
6. 支援技術によるサポート(1~5を技術的に支援)
– 音声読み上げソフト・装置,音声認識入力,代替入力装置(特殊キーボードやマウスなど),録音・メモ装置,拡大カメラ,タイマー,イヤーマフ・耳栓等法的には大学が提供すべき配慮の詳しい内容までは規定されていない点に注意

 しかし、こう列挙されても、合理的配慮とそうでないものの間の線引きがわからないと、現場が混乱します。そこで、次のような「合理的配慮とされないもの」を規定することにより、その概念を明確化しています。

– プログラムの性質を根本的に変更するもの
– 本質的な学術的要件を低めたり免除するもの
– 甚だしい財政または管理上の負担を生じるもの
– 個人的な装置やサービスの提供(i.e., 車いす,アテンダント,眼鏡,個別チューター,個人的な利用や勉強での代読者)

 これが「合理的配慮とされないもの」です。ただ、抽象的ですから、「実際に認められなかった配慮」に次のような具体例が挙げられています。

• レポート課題の提出期限を2倍に延ばす(授業期間が倍になってしまうため)
• 危険性のある動物であった場合のサービス・アニマル(介助犬など)の利用
• 手話通訳と文字通訳を同じ授業で同時に提供する
• 演説が不安障害のためにできないのに,演説の授業を取る事を認める(≒本質的な要件の減免)
• 屋外イベントでの会場までの道はアクセシブルにするが,人員を出して押して移動支援はしない

 こう見てみると、合理的配慮がいかなるものか理解しやすくなります。もちろん、障がい者からすれば、要求が合理的配慮に含まれないと判断されたら、納得できない場合もあるでしょう。そのため、異議申し立ての機会が用意されています。一旦却下されても、その審査によって判断が覆ることもあります。

 木島さんの要求は専属のCAの用意や出発時刻の変更などはありません。障がい者のアクセシビリティをめぐることです。事前通知なしで障がい者が健常者同様に利用できなければなりません。アクセシビリティは合理的配慮の代表的な概念です。この怠慢ですので、バニラ・エアは今回の件で合理的配慮を欠いていたと言わざるを得ません。それどころか、事前通知していたら搭乗拒否していたとされていますから、お話になりません。木島さんを非難した人たちは、そんな恥ずかしいことをする前に、合理的配慮を調べ、障がい者の問題に向き合うべきでしょう。

2 ラディカル・デモクラシー
 バニラ・エア事件は、全国青い芝の会が川崎バス闘争を展開した1977年から40年を経ても、日本が未熟社会だという情けない実態を露わにしています。全国シバの会は脳性麻痺(CP)障がい者が結成した組織です。当時、車椅子障がい者に対する路線バスの乗車拒否が相次いでいます。車椅子障がい者と介護者が乗車口ではなく、幅広の降車口から乗ろうとすると、バスは利用を拒否するのです。

 太田泉生記者が『朝日新聞デジタル』2017年1月30日13時31分配信記事「障害者はなぜ人里離れた施設で生涯を送らなければならないのか?」で川崎バス闘争について紹介しています。青い芝の会は異この現状への議申し立ての直接行動を始めます。バスに強引に乗りこんだり、車両の前で坐りこんだり、車内で消火剤を巻いたりする抗議運動を繰り広げます。これだけのことをしなければ、日本社会は車椅子障がい者がバスを利用できないことを人権侵害だと思いもしなかったわけです。

 こうした異議申し立ての直接行動を「ラディカル・デモクラシー」と言います。一般的な民主主義は、参加型であれ、代表型であれ、コンセンサスを指向します。このコンセンサスは議論を通じて形成された明示的なものもあれば、慣習のように暗黙的なものもあります。

 しかし、民主主義的意思決定と言いながら、その過程から排除された人たちがいるのではないのかという批判があります。コンセンサスなど本来不可能ではないのかとか、排除の正当化に利用されているのではないのかとか、既得権益の合理化のための儀式化になっているのではないのかとかいった理由が挙げられます。民主主義の公共空間は排除を克服しようとするコミュニケーションの形態を理念としています。こうした民主主義と排除の問題に再考を促す異議申し立ての直接行動がデモクラシーの意義だという認識が導き出されます。それがラディカル・デモクラシーです。

 ラディカル・デモクラシーはコンセンサスの民主主義を批判します。しかし、それがあくまで「デモクラシー」を名乗るのは、排除の問題の再検討に基づいているからです。権利は資源に対するアクセス可能性で、そこから排除されれば行使できません。民主主義はこの範囲が広がるほど開かれているとされます。範囲は法や慣例のみならず、障がいや貧困などにより事実上定まることもあります。

 さまざまな現代思想家がラディカル・デモクラシーの根拠づけを行っています。懐かしきポスト構造主義の著作でおなじみの難解な言い回しだったり、アクロバティックな論理だったり、議論のための議論だったりするものも少なくありません。しかし、生産性はありませんけれども、ユークリッド幾何学に対するゼノンのパラドックスのように、民主主義の体系をブラッシュアップすることに寄与していると解するべきでしょう。

 ラディカル・デモクラシーの最初の実践の一つとされるのがヘンリー・デイヴィッド・ソローの「市民的不服従(Civil Disobedience)」です。彼は奴隷制や米墨戦争に反対して人頭税の支払いを拒否、投獄されています。

 この実践はマーティン・ルーサーキング牧師による公民権運動にも影響を与えています。南部諸州の人種差別はジム・クロウ法に基づいています。人種差別を批判して一般公共施設を利用しようとすれば、違法になります。有色人種はこのコンセンサスの形成過程から排除されています。もちろん、加わっていたとしても、少数派ですから、その決定を覆すことは難しかったでしょう。

 公民権運動の正当性を保障した思想の一つが人権です。これはジョン・ロックの社会契約説に由来し、近代において発展しています。ロックは自由で平等、独立した個人の不可侵の権利として人権を規定します。これに基づいて近代の政治・経済・社会の基本構造を描いています。人権は近代における普遍的規範です。障がい者権利条約も合理的配慮の定義の中で人権に言及しています。

 規範は抽象的ですから、その具体的な解釈は時代や社会に依存します。ですから、人権の内容はコンセンサスです。異議申し立てが提起されることや拡張されることがあり得ます。公民権運動は人権の内容に関するコンセンサスの見直し要求です。その時点で違法であったとしても民主主義に反しているわけではありません。

 アメリカのローレンス・コールバーグは人間が法や道徳などの規範をどのように捉えるのかに関して体系的な理論を提示しています。これは20世紀後半から現代に至るまでの道徳教育に最も影響を与えています。彼はジャン・ピアジェの発達心理学理論を援用し、道徳判断を段階論によって整理します。

 コールバーグは道徳の発達を習慣の観点から三つのレベル、さらにそれを六つの段階に次のように分類しています。

慣習以前レベル 第1段階:罰と服従への志向 罰が与えられるから、親が言うから、悪いことをしないと判断
第2段階:道具主義的相対主義への志向 何かの役に立つなら正しいことだと判断
慣習的レベル 第3段階:対人的同調あるいは「よい子」への志向 周囲からよい子と思われるように判断
第4段階:「法と秩序」の維持への志向 法と秩序を維持することが絶対に正しいとして判断
脱慣習的レベル 第5段階:社会契約論的遵法への志向 法も人間のためにあるので不都合な場合には討議を通じて変更できると判断
第6段階:普遍的な倫理的原理への志向 法で定められているかではなく、より普遍的な道徳原理が内面に打ち立てられていてそれに照らし合わせて判断

 コンセンサスの民主主義が第5段階、ラディカル・デモクラシーは第6段階に位置付けられます。いずれにしても民主主義は脱慣習的レベルに属しています。法を人間のためにあるとして絶対視せず、変更可能としています。コンセンサスを不変と捉えていては、社会的排除を固定化のみならず、拡大しかねません。異議申し立てはこの排除を克服して社会の統合を促進することにより民主主義を進化させるために必要な方法です。

 ただし、すべてが異議申し立てになるわけではありません。人権のような近代における普遍的規範に依拠しているからこそ異議申し立てがそう機能するのです。

 他方、ジム・クロウ法を絶対視してそれに服従することが当然だとする認識は第4段階に属します。また、バニラ・エア事件で無理解をさらけ出した人たちは第4のみならず。迷惑行為と見なしてもいますので第3も含めた習慣的レベルにとどまっています。青い芝の会の闘争に同様の態度をとった人たちもそうです。どれも民主主義にふさわしい道徳的判断をしていないことになるでしょう。

 バニラ・エア事件はともかく、異議申し立ての行動に対して、特定政治勢力による動員や扇動などを疑う意見がしばしば発せられます。参加者はカネをもらったり、組織に指示されたりして騒ぎを起こしていると言うわけです。しかし、それは問題の構造や原因に関する思考の放棄です。行動する人々をそれぞれ意思のある一人の人間と見た上で、なぜこうしたことをするのかと掘り下げて論じていません。その判断は、道徳発達の段階で言うと、習慣以前のレベルです。

 2017年7月1日に秋葉原駅前で安倍晋三首相が都議選の応援演説をした際、聴衆は「安倍辞めろ!」と抗議の声を浴びせています。この異議申し立て行動が「共謀罪」に当たるとか行ったのは「左翼活動家」だとかいった投稿を永田壮一千代田区議などがフェイスブックにしています。これについて総理自身や安倍昭恵首相夫人が「いいね!」を与えています。この行為は総理夫妻がそろって道徳発達段階が習慣以前のレベル、それも第1段階にとどまっていることを明らかにしています。

 2月の森友事件発覚以降、夫妻の発言や行動の未熟さが露呈しています。それは道徳判断が著しく未発達だからなのでしょう。このような習慣以前のレベルに属する人物が首相を務めていることは民主主義にふさわしくありません。「安陪辞めろ!」と異議申し立て行動をすることは脱習慣的レベルの民主主義に即しているのです。
〈了〉
参照文献
林泰成、『新訂道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
H・D・ソロー、『ソローの市民的不服従 悪しき「市民政府」に抵抗せよ』、佐藤雅彦訳、論創社、2011年
近藤武夫、『米国の高等教育機関における差別禁止と合理的配慮』、文部科学省、2,012年
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2012/08/08/1323321_1.pdf


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