見出し画像

紙と饗宴 ─ポストモダンとニュー・アカデミズム(5)(2004)

5 《知への漸進的横滑り》を確認するためのストレッチ運動の試み─アカデミズムの歴史を問う
 日本のポストモダンの特徴はニュー・アカデミズムの流行であろう。その最大のスターは浅田彰であり、彼は日本的なポストモダンの現象を完全に体現している。

 浅田彰は、1983年、『構造と力 記号論を超えて』において、衝撃的に登場する。浅田彰は、先行する吉本隆明や江藤淳、山口昌男、蓮実重彦、柄谷行人らとは異なった時代に属している。スキゾ=パラノは、一種の流行語になり、翌年には、『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』を刊行、これでも「逃走」をめぐって話題になっている。彼は、以降も著作を発表しているものの、次第に書かなくなっている。「いや、単純に怠惰ゆえにです。しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、大いなる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるんで、ぼくは選ばれなかったというだけのことですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に意識していますけれど」(浅田彰『伝統・国家・資本主義』)。

 一般的にはともかく、若き俊才が浅田彰以上に影響力をアカデミズムに及ぼしたケースもある。久保亮五は、27歳のときに、『ゴム弾性』を書いている。「ゴムは奇妙な物質である」から始まるこの著作は、現在に至るまで、高分子科学や統計力学、エントロピーの古典的名著である。彼は、1943年に、橋かけゴム分子のエントロピー弾性についての統計力学的理論を発表している。これにより、彼の名前は、湯川秀樹と並んで、世界の物理学会に知られるようになっている。また、谷山豊が、後に谷山=志村予想と呼ばれる大胆な予想を発表したのも20代後半である。彼はアンドレ・ヴェイユに絶賛され、自ら命を絶ってしまったため実現しなかったものの、プリンストン大学から招聘されている。この予想はアンドリュー・ワイルがフェルマーの最終定理の証明の際に鍵として使ったことで知られている。ただ、両者とも、画期的な業績を残したものの、あくまでアカデミズムの内部にとどまっている。

 彼らと違い、浅田彰はアカデミズムを越境する。モダニズムはサロン性が強かったものの、反アカデミズムの運動であったのに対し、ポストモダニズムは必ずしもアカデミズムと対立しない。浅田はポスト構造主義を消費し、それによってニュー・アカデミズムを一般にイメージさせている。「ニューアカというのは、アカデミズムのファッション化だと思うのです。浅田彰だって『構造と力』で初めて出たときには、別にフランス現代思想を論ずるというより、そのチャート式見取り図をつくるのだと言っていました。チャート式見取り図というのは、いわばファッションの世界とアカデミズムの世界をつなぐのです。つまり、本郷と六本木をクロスオーバーさせるというのがニューアカの役割なんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。大学は「ルーズ・カップリング(Loose Coupling)」と呼ばれる通り、従来から多様な人々の緩やかな連合体であったが、その頃には、「大学(University)」から「マンモス大学(Multiversity)」にまで拡大している。1984年、ハーバード大学総長のデレク・ボック(Derek C. Bok)は『象牙の塔を超えて』を発表する。浅田彰はそれをまさに実践している。

 今日のアカデミズムは大学と不可分の関係にあると見なされている。大学は、ヨーロッパで、同業者組合、すなわちギルドの一種として誕生している。修士号を意味する「マスター(Master)」はその名残である。アカデミズムは、誕生した当時、必ずしも、こうした大学とは直結していない。

 森毅は、『メディアのなかのアカデミズム』において、アカデミズムの歴史を次のように解説している。

 アカデミズムと言っても、ギリシアは問わない。それは、世界が違うから。
 ルネサンスのアカデミズムというのは、フィレンツェあたりの都市貴族が工房の職人たちをまきこんだグループだったはずだ。いくらかは都市間の交流があっても、まあ今年の村祭りはどんな趣向でやろうか、といった気分。実際にパフォーマンスぐるみで成立している。レオナルドを万能の人のように言ったりするのは、後世の専門家どものひがみで、もともとルネサンス職人に専門なんかない。
 十七世紀あたりで、フランスやイギリスになっても、確かに王の中央権力が強くなるから、そちらに義理を立てたり、頼ったりするのだが、別に制度化がしっかりしているわけではない。ひょっとすると、バラ十字の地下ネットワークもあったのかもしれぬが、いくらか力をつけてきた知的階層のなかよしグループのようなものだろう。
 つまりはサロン。なにより集まって論じあう。そして、やたらと手紙を書く。手紙はあまり私的でなかったようで、書きうつされては読まれている。印刷されてもごく小部数。十八世紀になって、王のまわりにアカデミズムが作られていっても、事情はそれほど変わらぬ。だから、アカデミズムとは、サロンから発生している。このごろだと企業がスポンサーになってシンポジュームなどがあるが、今のほうがよほど権威的である。
 今のアカデミズムという制度は、百五十年ぐらい前からのものだろう。つまりは、近代国家の制度なのである。近代教育の制度が作られるのと同じこと。同時に活字メディアのあり方が変わる。大部数の出版もそのころだが、新聞や雑誌が成立するのも同じ時代である。学校では、教科書がつくられて、カリキュラムが制度化する。活字メディアの時代が来て、近代アカデミズムも近代学校体制も作られたのだ。
 そうして、現代がある。この現代を、近代的制度の発展と見るか、近代的精度の過剰と見るか。たとえば、日本人が学校に囲いこまれる期間は、この百年に、三年から十五年ぐらいに、つまり五倍になった。あと百年たって、今の五倍になったら、死ぬまで学校にいかなければならない。それがまあ、生涯学習というわけだが。

 学術団体としてのアカデミーの起源は、フランク王国のカール大帝やイギリスのアルフレッド大王の事業に遡る。だが、アカデミーが本格的に発展したのはルネサンス期である。イタリアでは、1438年、コジモ・デ・メディチがアカデミア・プラトニカを開設、フィレンツェの自宅を開放し、会員に談論の場を提供する。その後、15世紀から16世紀にかけて多くのアカデミアが誕生、その多くが古典や自然科学の研究に取り組み、最新の知識を生み出している。特に、フェデリコ・チェシが1603年に設立したローマのアカデミア・デイ・リンチェイには、ガリレオ・ガリレイも所属している。その他、イタリア語辞典を刊行した詩人アントン・フランチェスコ・グラッツィーニの開設によるアカデミア・デラ・クルスカも有名である。イタリア・ルネサンス発展を支えたこれらのアカデミアは、教会や大学、職人組合などと対抗することが多く、自己防衛のために君主や資産家の支援のもとで生き延びるか、あるいは組織を形成するといった措置をとっている。

 アカデミーは、17世紀以後、パトロンの支援を離れ、国家と結びつく。イタリア・ルネサンスの影響を受けて、16世紀にアカデミー・デュ・パレが開設されたフランスでは、17世紀には国家がアカデミーを直接的に組織する。リシュリュー枢機卿によるアカデミー・フランセーズ(1635)、王立彫刻絵画アカデミー(1648)、科学アカデミー(1666)、音楽アカデミー(1669)はフランス国家認定の学術団体である。フランスの文化・科学技術の向上のための重要な役割を担っている。同様に、イギリスではローヤル・ソサエティ(1660)が設立され、18世紀に入り、フランスの科学アカデミーと並び、ヨーロッパ各地での国立科学アカデミー設立に大きな影響を与える。プロイセンの王立科学協会(1700)やスウェーデンの王立科学アカデミー(1739)などが相次いで、誕生している。

 さらに、植民地アメリカでは、ベンジャミン・フランクリンが最初にアカデミーという言葉を紹介すると同時に、1743年、フィラデルフィアにアメリカ哲学協会を設立する。その後、1780年にボストンにアメリカ学術アカデミーが発足している。独立後の18世紀に発生した中産商業階級の実学的中等教育の必要性に応じて、マサチューセッツ州アンドーバーのフィリップス・アカデミーなどのように、私立のアカデミーが登場している。学校教育機関としてのアカデミーは、19世紀前半に最盛期となるが、次第にパブリック・スクールにその役割を譲る。20世紀までに、合衆国では各地に学術研究団体としてのアカデミーが誕生したものの、中央集権が弱い体制であるため、ヨーロッパのような国家権力と結びついたアカデミーは育っていない。むしろ、空軍士官学校(アカデミー)や陸軍士官学校(アカデミー)、海軍士官学校(アカデミー)、ポリス・アカデミー、映画のアカデミー賞などに使われている。

 国家と癒着してからのアカデミズムはペーパー・アカデミズムと化す。ペーパーは、アカデミズム自身の保存として機能、大学のギルド性を強調するために、おしゃべりを排除し、単一化に向かう。専門家は論文を書く人のことを指す。合衆国の場合、中央集権的なアカデミーが発達しなくても、アカデミズムの三権や産業界との結びつきは強く、論文の量でその人の業績が判断されるという状態に至る。アカデミズムは閉じられ、蓄積が成果と確信される。系が閉じられなければ、近代アカデミズムの業績である線形と平衡の手法が使えなくなってしまう。

 一方、日本のアカデミズムは事情が少々異なる。ニュー・アカデミズムは日本的なアカデミズムとジャーナリズムの関係の再検討を促している。日本のアカデミーは国民国家の形成と共に登場する。東京帝国大学が創設されるが、これは、西洋と異なり、神学部を持たない大学である。アカデミズムは、最初から、神の死に置かれている。高級官僚候補生を育成する帝国大学は国民国家体制と帝国主義政策推進の一機関という色彩が強い。

 ペーパー・アカデミズムの時代に発足した日本のアカデミズムには、ルネサンス的なサロン性が希薄である。欧米では、アカデミズムの支配力が強く、そこから離れて活動し、その手法を用いながら、一般にも影響力を持っていたのはジャン=ポール・サルトルくらいだろう。今日でも、欧米と比べて日本の企業経営者に大学院修了者が少ないように、大学院の認知度が低く、アカデミズムの持つ発言力はその内部に限定されている。しかも、メディアへの露出度はアカデミズムの貢献度には換算されない。

 その一方で、小林秀雄を筆頭に、有力な文芸批評家の多くはアカデミズムと距離をとり、ジャーナリスティックに活動している。棲み分けていたアカデミズムとジャーナリズムをニュー・アカデミズムはクロスオーバーさせている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?