見出し画像

新井政談(4)(2022)

4 儒教とキリスト教
 前近代の政治の目的はよい生き方をすること、すなわち徳の実践である。現実を共同体の認める規範に基づく美徳を実践することで理想に到達できる。前近代は共同体主義の時代である。共同体が先行して個人がそこに属している。共同体の認める規範に従う義務の対価として権利が個人に付与される。政教は一致している。こういった発想は洋の東西を問わない。
 
 ところが、宗教改革を機に、自身の道徳の正しさ根拠に殺しあう宗教戦争が欧州で繰り広げられる。その惨状を目の当たりにした17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、よい生き方もできない。その際、ホッブズは、政治を公、信仰を私の領域に属し、相互に干渉してはならないとする政教分離原則を提唱する。それは価値観の選択が個人の自由であること、すなわち個人に委ねられたことを意味する。近代は自由な個人が集まって社会を形成したとする個人主義の時代である。
 
 近代では、公私分離の原則に則り、公の領域である政治は私に属する経済に介入すべきでない自由放任が原則とされる。価値観の選択が個人に委ねられている以上、社会の目的を道徳に依拠することはできない。確かに、個々の価値観は異なるが、幸福を求め、不幸を避けることは共通している。社会の目的はそうした幸福が増大、不幸を減少させることである。政府は市場メカニズムが理想的に働くための制度整備をすることに取り組むことが求められる。その際、経済政策をめぐる議論は実証性・再現性・客観性のある経験科学に基づいている必要がある。これは市場の失敗を踏まえて登場した現代国家、すなわち福祉国家でも同様である。
 
 江戸時代は、近世と呼ばれることもあるが、あくまで前近代に入る。政治の目的は徳の実践である。それは共同体の認める規範に根拠を置いていなければならない。江戸時代においては幕府が公認する朱子学がそれにあたる。問題に対処ずるため、政策を検討する際、調査した事実を見定め、現実性を考慮した上でも、決定的な論拠となるのは規範である。規範は抽象的・一般的であるため、具体的・個別的事例への適用には解釈が必要である。そこに学説に通じた体系的知識を持った理論家が求められる。妥当性を規範の原理原則から説明できなければ、政策に説得力がない。
 
 儒教における理想の政治は孟子の説く「王道」である。白石もそれを踏まえ、幕府もそうあるべきだと考えている。孟子は、武力によって他国を制し、天下に号令をかけるような政治を「覇道」と批判する。そうした力による服従を強いる支配は、民心が離れ、国を滅ぼすからだ。思いやりがあり、情け深い仁愛に基づき、民心を帰服させる「王道」が天下統一の政治である。民心をつかむことが統治の要であって、軍事力や領土の大きさなどではない。「王道」と¥覇道」の峻別、すなわち政治の良し悪しの判断基準は「王覇の弁」である。「王道」の政治は、孟子によると、堯《ぎょう》や舜《しゅん》、禹《う》、湯《とう》、文王、武王らの古の聖王の統治に当たる。
 
 王道の政治は儒教道徳に基づいているので、政教一致である。統治の際の儒教における徳の実践がよい政治である。理想の政治は過去に実現しており、それを参照して統治に取り組むべきである。聖王の統治を理想として模倣し、その意図や背景を理解したうえで、自身の政治が果たしてどうなのかを比較して判断する。それは卓越主義で、グレコローマンの政治道徳思想とも共通する。
 
 江戸幕府を開いたのは徳川家康である。彼はこの体制にとっての聖王に当たる。白石が家康に言及して自説を主張するのは、儒教の一派である朱子学を支配のイデオロギーにする幕府の政策論争において、正統的姿勢である。しかも、白石は儒学者であることは確かだが、林羅山を継承する林派に属していない。にもかかわらず、政策を提言し、実現する機会に恵まれた例外的な人物である。彼の活動を面白くないと思っている勢力からの批判を斥ける必要がある。家康の示した美徳を実践することで理想の政治に到達できるのだから、これを教条主義と解する方が当時の発想を理解していない。
 
 白石が前近代における政治の目的を体系的に理解していることを物語るのがシドッティ事件の対応である。彼は『西洋紀聞』や『采覧異言』の中にそれを記している。
 
 ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti)は1668年にシチリアの貴族の家系に生まれたカトリックの司祭で、教皇庁の法律顧問を務めている。彼は、教皇庁での選任により、宣教師として日本へ赴くことを教皇クレメンス11世から直に命じられ、ローマで日本語学習をしている。その後、いわゆる「鎖国」の日本への布教のため4年間のマニラでの活動後、宝永5年(1708年)8月に屋久島へ上陸する。マニラとメキシコのアカプルコの間を主に中国産品を扱う貨物船、すなわちガレオン船が年一往復している。この太平洋航路を慶長遣欧使節が利用している。マニラで手に入れた和服帯刀に月代の髪形という姿で潜入したものの、言葉が通じないことに不信を抱いた農民に通報され、当局に捕まり、長崎に送られてしまう。公儀の監視下に置かれ、翌年、江戸小石川の切支丹屋敷に移送される。シドッティは上陸に際して長崎を避け、そこでの尋問も頑強に拒否している。その理由はプロテスタントのオランダに妨害されないためだろう。将軍職に就いたばかりの徳川家宣は、最も信頼する政策顧問の白石に命じて、宝永6年(1709年)11月から翌月にかけて切支丹屋敷でシドッティの訊問を行なわせる。
 
 白石はシドッティと二度対面、その様子を記録、それについての論評を加え、さらに江戸に来訪したオランダ商館長から得た情報も追加して、正徳5年(1715年)、『西洋紀聞』を成稿する。ただし、その後も晩年まで手を加えている。
 
 シドッティは来日の理由を布教の許可を得るためと説明する。確かに、幕府は厳しい禁教令を施行しているが、清国やシャムではすでに緩和に転じている。こうした情勢の変化を受けて、江戸で公儀に直接懇願すれば、「恩裁の御事」によって許可されることを期待して海を渡ってきたと話す。危険を覚悟しながらも、「法のため、師のため、其他あるにあらず」と来日したというわけだ。なお、この「法」が指す意味は信仰である。
 
 11月に行われた最初の尋問の際、奉行所の役人がシドッティに絹の上着を与えようとしたが、彼は「教戒」上異教徒からはもらえないと拒否する。また、脱走は不可能なので、監視役も負担だろうから、夜間は自分を拘禁し、彼らを休ませてはどうかと提案する。それに対して、役人たちは感心したものの、白石は「此ものはおもふにも似ぬ、いつはりあるものかな」と反論する。監視役がシドッティに接する姿勢は私的感情ではなく、あくまでも「おほやけ」の命令に基づいている。公務としての行為を断られたのでは、彼らの立場がない。その「うれへおもひ給ふ所」を理解するなら、上着を受け取るべきだと白石は言う。シドッティは納得し、ただ贅沢な絹ではなく、木綿にして欲しいと述べている。
 
 役人が防寒として上着を渡すことも夜間に寝ずの番をすることも公務である。彼らは命令に従って行動しているだけだ。彼らはそれを達成することで評価される。それが実現するように行動することが思いやりになる。白石はそう考えているが、役人たちの思いは違うように見受けられる。欲しくないというものを渡す必要はないし、夜間勤務がないのは楽でいい。しかし、公務から演繹的に行動をとらえるなら、白石の主張は妥当である。彼が体系から演繹的に物事を論理思考する人物だということがここからもわかる。
 
 白石はシドッティに対し、キリスト教を次のように批判する。
 
「もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐての二尊、国におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし」。
 
 儒教が卓越主義であるのに対し、キリスト教は超越主義である。アウグスティヌスによれば、人間には原罪があり、キリスト信徒は神の前ですべて平等である。この宗教は共同体を超えて信仰されているので、そこに内属する序列は解体される。市民や奴隷、外国人などの差別は信者の間では認められない。聖職者たちはあくまで信徒の代表であって、上級ということはない。その罪深き人間の間に何とか秩序を構築することが政治である。理想は「神の国」であるが、不完全な人間に実現は不可能だ。人格の完成を指向する儒教と異なり、原罪を説くキリスト教は完成主義をとらない。人間にできることはその理想を参照しつつ、セカンドベストの体制を目指すことだけである。世界を超越した外に理想を置き、現実を反省的に認識した上で、徳を実践する。理想が古のこの世に実現されており、政治はその再現を試みるべきとする儒教と世界の構造に違いがある。
 
 超越主義は卓越主義を相対化する。キリスト教の神への信仰は現世における権威に対する挑戦と白石は批判する。創造主である「天主」への信仰は、父への孝や主君への忠といった徳よりも優先されるので、人間関係における秩序を破壊することになりかねない。
 
 主君以上に神を敬うので、既存の秩序を壊すのではないかという危惧は、キリスト教伝来当初から直観的に支配者層の間で抱かれている。ただ、徳川幕府が禁教にした要因の一つは、キリスト教が国を乗っ取ろうとしているという警戒である。スペインやポルトガルは、キリスト教の布教をセットとして南蛮貿易を行っている。この交易は諸藩に経済的・軍事的利益をもたらし、それは幕府には脅威に映る。スペインやポルトガルは日本を植民地化する野心があり、キリスト教もそれを推し進めている。
 
 白石は、キリスト教の超越主義的原理を理解し、従来幕府内で支持されてきたキリシタン奪国論を否定する。宣教師が日本にやって来るのは布教が目的であって、国を乗っ取る意図などない。白石は、侵略的であるかどうかは宗教でなしに人の行動によって判断すべきというシドッティの意見を聞き入れる。キリスト教の教義のみならず、そもそも地勢等上も侵略を考える必要はない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?