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詩のディアスポラ(1)(2006)

minima poetica
─詩のディアスポラ
Saven Satow
Feb. 12, 2006

 「人は、大いに善であるためには、激しく広く想像力を働かさねばならぬ」。
P・B・シェリー『詩の擁護』

1 詩人受難の時代
 近代は詩人にとって受難の時代である。近代以前、詩は神の文学として見なされ、文学の王座に長らく君臨している。ナポレオン・ボナパルトは詩人に憧れ、ドイツに遠征した際、敬愛するヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと面会している。いかなる業績を残そうが、美しい一作の詩を表わすのに優ることはない。

 それは西洋に限らない。世界各地で、詩は最高の文学として敬われている。創世神話や英雄譚はしばしば叙事詩の形式で語り継がれている。また、李白や杜甫は、東アジア文化圏において、最高の文学者として敬意を表されている。小説は、この偉大な文学に比べれば、通俗的な読み物にすぎない。事実、中国を代表する「小説」の『西遊記』は「奇書」にすぎず、「文学」として扱われていない。

 しかし、近代の到来は事態を逆転させる。近代が迫る中、ウィーン体制の反動化しつつも、P・B・シェリーが一八二一年に『詩の擁護(A Defense of Poetry)』を書いたという歴史的事実は、メアリーの夫が極めて鋭敏な感覚の持ち主だったことを如実に示している。詩は守られるべき立場へと見なされ始める。

 フリードリヒ・ニーチェが散文詩『ツァラツゥストゥラはかく語りき(Also Sprach Zarathustra)』(一八八五)を通じて一九世紀を「神の死」に要約したことは極めて象徴的な出来事である。詩と散文という二面性は古い時代が終わり、新しい時代が始まる隠喩であろう。そのニヒリズムは、時として、シェリーが『詩の擁護』の中でソポクレスの『オイディプス』に匹敵する悲劇と賛美するウィリアム・シェークスピアの『リア王(King Lear)』における次のセリフの事態を招いてしまう。

 King Lear: Nothing will come of nothing─Speak again─.

 ニヒリズムの時代である近代において、詩人は文学の王者の地位を追われ、小説による詩の殺害が行われる。正岡子規は近代の精神を理解し、短歌俳句命数論を唱え、伝統的な定型詩の死を予想している。また、シャーロットとエミリー、アンのブロンテ姉妹は、当初、詩集の出版を計画していたが、時流の変化によりそれを断念、小説の執筆に向かっている。近代は詩が死を迎える時代である。

 近代における詩の死にインドで育ったイギリスの詩人は苛立ちを隠さない。ジョゼフ・ラドヤード・キプリング(Joseph Rudyard Kipling)は、一八八九年、日本に一ヶ月滞在し、その旅行記を残している。彼は日本の伝統芸術に深い感銘を受け、こうした芸術の国が憲法を制定し、近代国家の体制を確立しようとしていることを訝っている。憲法を持てる国は、彼によれば、世界中に二つしかない。それはイギリスとアメリカである。と言うのも、両者とも「芸術と無縁の国」(『キップリングの日本発見』)だからである。

 政治の議論を行って投票したり、腐敗や不正、スキャンダルを載せた新聞を発行したり、工場を建設して毛織物を生産したりするなど近代は芸術性と対立する。彼にとって芸術は詩を意味する。近代の政治体制は神の死により超越的なものに基礎を置くことができないため、自らを律する憲法を必要とする。しかし、その憲法は散文的であり、退屈でさえある。詩の持つ高い芸術性など微塵もない。近代は詩と相容れない。

 詩人たちもなす術もなく立ちすくんでいたわけでもなく、むしろ、一九世紀末、シャルル・ボードレールやステファヌ・マラルメ、ポール・ヴェルレーヌ、ポール・ヴァレリーなどが登場し、「近代詩(Modern Poetry)」の運動は活性化している。詩は自らのうちにその存在根拠を見出さざるを得ず、「芸術のための芸術(Art for art’s sake)」というスローガンはその一例である。詩人たちは近代的な自我を表現し、口語をとり入れ、韻律や定型を捨て、詩の民主化運動に務めている。小説がその地位を形成している間、詩にはこのように活動の余地が残されている。

 近代詩は制限選挙、すなわちエリート民主主義の時代を反映している。伝統的な定型詩には決まり事が蓄積され、それを共通理解として作者と読者は作品を交歓する。けれども、近代詩はそのルールを解体し、読者は作者と美意識を共有できる人に限定される。民衆が理解できないからこそ、詩の高貴なる精神性が確保されうる。詩はエリートの芸術である。

 ところが、二〇世紀に入ると、「ローリング・トゥエンティーズ」が体現している通り、商業主義がはびこり、その神の死は決定不能に陥る。すべては商品化する。神も例外ではない。神が生きていても、死んでいても、商品化できない以上、それは決定不能になっていなければならない。「現代詩(Contemporary Poetry)」は、近代詩の形式主義化や耽美化などへの反省により生まれる。近代詩が自己を表現したとすれば、表現自体を扱う。

 普通選挙、すなわち大衆民主主義の時代が到来する。現代詩は近代史のエリート性をさらに推し進める。大衆にはわけがわからないからこそ、詩は芸術である。詩は芸術の大衆化に対抗することにアイデンティティを見出す。それに対し、大衆は現代詩を遠ざけ、古典的作品を愛好していく。

 商業主義の流れに抵抗し、現象学・実存主義に影響を受けた哲学的な内容、エロティシズムとバイオレンスなど近代詩が扱わなかったタブーへ切りこみ、日常から乖離した特異な言葉遣いによる異化作用などがその特徴的である。しかし、詩も商品化されざるを得ない。二〇世紀を支配するのが商業主義である限り、詩人は社会的であらねばならない。「西欧文明の運命は共産主義との戦いよりも、むしろ、広告との戦いにかかっている」(アーノルド・J・トインビー)。

 W・B・イェイツ(William Butler Yeats)は、神の死が決定不能になったことを鋭敏に理解していた詩人である。このアイルランドの詩人は、『再臨(The Second Coming)』(一九二〇-二一)において、時代の精神を次のように具現化している。

Turning and turning in the widening gyre
The falcon cannot hear the falconer;
Things fall apart; the centre cannot hold;
Mere anarchy is loosed upon the world,
The blood-dimmed tide is loosed, and everywhere
The ceremony of innocence is drowned;
The best lack all conviction, while the worst
Are full of passionate intensity.

Surely some revelation is at hand;
Surely the Second Coming is at hand.
The Second Coming! Hardly are those words out
When a vast image out of Spiritus Mundi
Troubles my sight: somewhere in sands of the desert
A shape with lion body and the head of a man,
A gaze blank and pitiless as the sun,
Is moving its slow thighs, while all about it
Reel shadows of the indignant desert birds.
The darkness drops again; but now I know
That twenty centuries of stony sleep
Were vexed to nightmare by a rocking cradle,
And what rough beast, its hour come round at last,
Slouches towards Bethlehem to be born?

 イェイツは時期によって作風が著しく異なり、多彩なジャンルを手がけた文学者であるため、一つの像に要約することは難しい。その上、政治家でもある。「新しい文学は、多かれ少なかれ多様かつ雑種的な組み合わせや結合のもとに、『国民的』な形で現れざるをえない」(アントニオ・グラムシ『獄中ノート』)。

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