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若き角栄の血は叫ぶ(2)(2015)

2 戦後的名望政治家
 政治家は、官僚と違い、選挙を経ている。選挙活動で選挙区を回る。人々の要求は言葉に言い表されたものだけではない。地域の風景や雰囲気、ならびに一人一人の様子や表情などを読み取り、何が必要なのかを汲み取って、政策に反映する。霞が関にはそれはわからない。政治家の存在意義の一つがそこにある。民衆の求める優先順位を無視して政策が進められるなら、政治家など要らない。

 角栄を始め戦後に登場した政治家の多くは世襲ではない。彼らは地盤・鞄・看板などの政治資産を持っていない。それは有権者と同じだ。当選しようとすれば、民衆との意識の共有が不可欠である。「国会議員の発言は、国民大衆の血の叫びである」(田中角栄)。他方、政治資産を持った世襲議員はそれを運用すればいいのだから、民意を気にしない。彼らは票田を持っているが、不在地主だ。世襲議員は選挙貴族であって、日本政界は遺産相続社会と化し、民主主義が弱体している。「政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ」(田中角栄)。

 当選した角栄の元に地元から陳情が押し寄せる。彼は即断即決で対応、やると約束をしたことは必ず実行する。公共事業の竣工式には何が何でも出席し、その模様を8ミリで撮影してそれを支援者に見せている。しかし、角栄は東京にいて椅子に座って陳情を待っていただけではない。乞われれば、どんな山奥だろうと足を運ぶ。

 陳情政治と言えば、自民党流の利益誘導としてしばしば非難される。しかし、それは近世から続く。伝統に位置づけて捉える必要がある。近世には、村々に自治を指導する名主が存在している。それは地方によっては庄屋や肝煎とも呼ばれる村役人で、身分はあくまで農民だが、現代風に言えば、首長である。

 日本の村落の多くは室町時代に形成している。それに功績のある者の一族が代々村の有力者、すなわち名主・庄屋・肝煎りとして振る舞っている。

 名主の活動は昔話にもよく描かれている。彼らは村落共同体の指導者であり、全体の発展を考えて取り仕切る。婚姻の世話や紛争解決、借金の肩代わり、飢饉の対応、土木工事への出資など大小問わず奔走する。中国の士大夫のどのレベルではないが、リーダーとして恥ずかしくない教養を身につけるため学習にも励んでいる。

 戦前の名望政治家は名主の系譜上にあると見なせる。明治政府は中央集権化を進め、地方の事情を軽視する。地域の発展を最優先に行動する彼らに人々は陳情する。その光景は近世とさほど変わらない。確かに、名望政治家が鉄道や学校の誘致などであられもない行動をしたことも事実であるが、地域の幸福に対する責任感は並々ならぬものがある。

 名望政治家が地域との関係が希薄になっていくのが政党政治の時期である。政党の組織化が未熟であった頃は党勢を拡大するために、地域の有力者である名望家の影響力が不可欠である。しかし、政党が全国に根づいてしまえば、名望家との立場は逆転する。

 地域の有力者であっても、全国組織の中では影響力は限定される。他の地域との競争もあり、要求はあまり通らず、妥協を余儀なくされる。権力を手にするには党内での存在感を高めねばならず、そこでの活動が優先される。代議士は地域の代表と言うより、政党人だ。世界恐慌以降の地方の疲弊に対し政党政治が有効な.対策を打てない。人々にすれば、代議士はもう遠い存在で、信頼感は薄れている。地方の窮状を汲みとり、軍部が台頭する。

 近代化の進展と共に、地主は収益率の高い投資に熱心になる。中には、地方を離れ、都会に移住する不在地主も現われる。彼らはかつての地方名望家と違い、地域との結びつきが希薄である。農村が窮乏に見舞われても、不在地主は責任感も危機意識も弱く、小作を始め農民は彼らに対して不満を募らせる。こうした不信感が小作争議へと発展している。戦前は農民が日本の人口の半分を占めていたとされる。農村の救済は国家的課題と位置づけられている。

 近代は自由主義によって推進される。それは理想を追求するあまり、時として、現実を軽視する。そこで保守主義が現実に立脚して加熱した流れを鎮静させ、変化を休止的ではなく、漸進的にする。自由主義と保守主義の調停が近代の進展である。

 戦前の日本は保守主義が強い。政友会と民政党の二大政党はいずれも保守主義に立脚している。近代を迎えた際、名主など地域の有力者が政治家になっている。その彼らは名望政治家と呼ばれる。藩閥政治打倒を掲げる政党は地方から中央を包囲する戦略をとる。そのため、地方の有力者に支持・参加を呼びかける。名望家たちは政党を通じて地方を中央政治と結びつければ地元を発展させる機会と捉える。両者の利害はこのように一致する。

 名望家は知識人ではない。中国は科挙があるため、各地に士大夫がいる。彼らは知識人として地域の民衆を指導する。ところが、日本に科挙はない。地域を運営する責任者は名主などの村役人であるが、農民身分であり、知識や教養は士大夫に遠く及ばない。理想を制度化し、運用するには、体系的認識が不可欠であり、知識人でなければできない。知識人がいなければ、理想に基づいて新たな法や制度を編み出すよりも、蓄積されてきた習慣を前提にして社会を勧めていく方が選ばれる。知識人の不在が戦前の政治における保守主義の優勢をもたらしている。

 田中角栄は名主や名望政治家の系譜上にある。出自から見れば、彼にはかつてならそんな資格はない。しかし、戦後民主主義における現代の名主である。地域の実情を知る自分こそ国政を通じてその発展を促進させ、格差を是正できる。

 戦前の名望政治家の系譜にあるのが河野一郎である。河野家は豪農で、彼の祖父長谷川豊吉も衆議院議員である。また、自民党には職業経歴から党人派と官僚派に二分される。河野一郎は党人派の代表である。角栄も党人派と見なされている。河野一郎と比較すると、角栄が戦後流の名望政治家であることが明瞭になる。

 戦前、帝大出身者は官僚、私学出は政治家とコースが異なっている。けれども、戦後、吉田茂首相は官僚を政治家に転身させる。理由は大きく二つある。一つは政党政治崩壊後の15年間、政治家は統治から締め出され、統治経験が乏しかったことである。官僚の事務能力がなければ、政権運営ができない。もう一つは戦前からの政治家は既得権を守ろうとするので、戦後改革の妨げになり、その勢力を抑えこむ必要があったことである。日本国憲法の変更を主張する政治家が戦前に政界入りしていたことからも明らかだろう。

 党人派と官僚派の政治家は折り合いが悪い。官僚派の佐藤栄作とそりが合わなかった河野一郎である。彼は官僚など暴れ馬であり、抑えこんで言うことを聞かせるのが政治家の仕事と信じている。霞が関を脅すことさえ躊躇しない。

 ところが、党人派であるはずの角栄は官僚との関係が良好である。彼は官僚の名前や経歴、家族構成を調べ、一人一人に接する。彼は課長級の官僚を昼食に誘ったり、夫人の誕生日プレゼントを用意したりしている。河野が恐怖で官僚を支配しようとしたのに対し、角栄は寛容に接する。河野の姿勢が「男味」とすれば、角栄は「女味」である。

 この「男味」と「女味」の提唱者は森毅である。森毅は、幼い男の子と女の子が親へのねだり方が違うと指摘している。前者はどれだけそれが欲しいかを説明して口説こうとする。一方、後者は親の機嫌を見計らって切り出す。それを踏まえて、「男味」は自分本位で集約型、「女味」は他者本意で分散型と要約する。「頑張れば壁が突破できるというのは〈集中〉の効果だけれども、〈分散〉のほうは、世界を広げることによって。いろんな可能性を見つけやすくする」(森毅『男味と女味─集中と分散について』)。

 この他者本位で分散型の女味が田中派の派閥としての「総合病院」と呼ばれる性格にも反映する。角栄は『週間朝日』1981年6月19日号において自派をこう語る。「僕のグループは総合病院みたいなもんだ、眼が潰れたといっても、目医者にだけ行ってはダメなんだ。眼が潰れるということは、糖尿病かも知れない。血糖値が3百あるか4百あるかも知れないし、糖尿病ならすぐ肝臓は心臓はどうだとピシャリとやらなければならない。うちは総合病院だから、良い医者が集まっています」。

 後に、この総合病院を竹下登が引き継ぐのは当然だろう。彼は角栄以上に女味の政治家だからである。

 議員になった角栄は政策が法律を通して実現することを知る。彼は法を熱心に勉強している。父の事業の失敗で進学できなかった角栄は勉強することを苦にしない。体系性は乏しいが、局所的合理性が極めて高い。彼は33本の議員立法を成立させている。これは戦後最多である。彼はそこでも女味を発揮している。

 角栄は局所的整合性が保たれるように発想の転換を示す。官僚は前例主義である。当時、大蔵省は目的税を認めていない。だが、道路をより建設するためには財源が不可欠である。1953年、建設省の意向を受け、角栄は道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出する。その際、「ガソリン税相当分」という表現を用いて目的税への道を開いている。

 「この世に絶対的な価値などはない、ものはすべて比較だ.外国人は物事を白か黒かと割り切ろうとするが、娑婆はそれほど単純じゃない。黒と白との間に灰色がある。どっちとも言えない。真理は中間にある」(田中角栄)。

 社交上手で、気配りを欠かさない。そんな角栄の女味の起源を彼の家族構成に求めることもできよう。角栄はおばあちゃん子である。女姉妹の中で唯一の男として育っている。彼は女性の中で成長している。女味の家庭からそれを体得したとも考えられる。

 戦後的名望政治家や女味なども信頼とお互い様の社会関係資本の増大と関連している。角栄は政治がこのソーシャル・キャピタルと相互作用を持っていると示している。「私が大切にしているのは、何よりも人との接し方だ。戦術や戦略じゃない、会って話をしていて安心感があるとか、自分のためになるとか、そういうことが人と人とを結びつける(田中角栄)。

 女味の戦後的名望政治家角栄は、政界入り後、猛スピードで出世の階段を昇っていく。その姿は自民党のみならず、戦後政治家の表象である。90年代以降の政治は女味や戦後的名望政治を批判して形成されている。しかし、それは角栄が取り組んできた格差の是正など国民生活をめぐる諸問題を悪化させてしまう。ソーシャル・キャピタルの減少をもたらすからだ。若き角栄を顧みることは政治における信頼とお互いさまの社会関係資本が重要だと確認させてくれる。「国民のための政治がやりたいだけだ。蟷螂の斧と笑わば笑え」(田中角栄)。
〈了〉
参照文献
高橋和夫、『改訂版現代の国際政治』、放送大学教育振興会、2013年
早野透、『田中角栄』、中公新書、2012年
御厨貴他、『改訂版日本政治外交史』、放送大学教育振興会、2013年
森毅、『ええかげん社交術』、角川oneテーマ21、2000年

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