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両津勘吉に見る歴史の綾(2011)

両津勘吉に見る歴史の綾
Saven Satow
Aug. 02, 2011

「学びは『今』と『ここ』に焦眉の時論的問題には無力かもしれない。そうした無力性が反知性主義というニヒリズムや安易なポピュリズム、高踏的衒学趣味という知のデカダンスへの布石となることなく、学びという迂回こそが世界と人生の悲惨と苦悩と困難を切り開いていく根源的な力なのだという希望をもちつづけたいものである」。
竹内洋『教育への信頼』

1章 両津出身の女性看護師
 今の彼にはその記憶はほんのわずかしか残っていません。けれども、そこだけ非常に鮮明です。

 1976年、夏休みを間近に控えた暑い日の夕方、岩手県にある北上市立南小学校の5年生が帰宅する途中の出来事です。大堤の酒屋の傍だったと思いますが、定かではありません。捨てられていた数冊のマンガ雑誌の中から『週刊少年ジャンプ』のある号を取り出します。そのマンガ家志望の少年は『週刊少年チャンピオン』の方が好きでしたから、それは偶然のことです。ページを開くと、その『チャンピオン』で人気のマンガ家と似た名前の「山止たつひこ」による『こちら葛飾区亀有公園前派出所』というタイトルの読切マンガが目にとまります。一瞬のうちに惹きこまれてしまいます。『いなかっぺ大将』で切り開いた劇画の絵でギャグ・マンガを描く川崎のぼるの後継者に感じられます。読み終わるや否や、こう確信します。「この人には才能がある。きっとすごいマンガ家になる」。

 佐藤清文という文芸批評家は、そうした自負もあり、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を略して呼ぶことはありません。必ず『こちら葛飾区亀有公園前派出所』と言います。

 もっとも、その後の1677年に公開されたせんだみつお主演の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の映画化に関してはまったく評価していません。劇画の絵でギャグ・マンガを展開する試みは、映画で言うと、『仁義なき戦い』シリーズで鳴らした菅原文太がそのままの演技で喜劇映画『トラック野郎』シリーズを演じていたのに相当します。マンガ史ならびに映画史を理解していれば、この手法を採用して当然です。1978年に岡本喜八監督が制作した『ダイナマイトどんどん』のような作品に仕上がらなければおかしいのです。それはヤクザの抗争を扱い、『仁義なき戦い』ばりの演技で展開される菅原文太主演の完璧な喜劇映画です。また、1980年公開の『グライング・ハイ』でレスリー・ニールセンがやはりシリアスな演技でコメディを演じ、その後、彼の芸風となっています。さらに、80年代に入ると、大映テレビがシリアスな配役・演技を追及していくと、コメディに到達するという見事な逆説を示しています。こうした映像の流れにあって、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のマンガ史上の意義が映画化に反映されていないというのは、お話になりません。

 浅草出身の主人公の姓が「両津」というがいささか不思議です。両津は佐渡島の地名だからです。連載がまだ浅かった頃、派出所内ですき焼きパーティーをするシーンがあります。そこで両津がつくるのは土鍋を使った寄せ鍋風のすき焼きで、東京の一般的なすき焼きと違うのです。これは、新潟を含む東日本でところどころ見られる習慣です。実際、新潟県出身の高橋留美子の『うる星やつら』や『めぞん一刻』でも同タイプのすき焼きが描かれています。そのため、作者ないしその親世代が新潟県出身なのだろうと若き佐藤清文は勝手に思いこんでいます。

 しかし、その後、単行本内の作者による解説を読み、まったくの誤解だったと知ります。「両津」の由来はデビュー前の作者が入院した際に出会った女性看護師の出身地が新潟県両津市(現佐渡市両津)だったからです。これはたんなる偶然ですが、両津出身の女性看護師からバイオレンス・ポリスマンの誕生は、佐渡出身の竹内洋京都大学名誉教授による『学校が輝いたとき』で描かれた島の戦後史を読むとき、歴史の綾というものを感じずにいられません。両津出身の看護師という存在はその町の戦後の原点を具現しているからです。

2章 赤ん坊の地獄と米百俵
 佐渡島は能舞台が多いことで知られています。これには世阿弥が流されたことも無縁ではありません。佐渡島は、古くから、政治犯の流刑地で、その能の大成者の他にも、順徳天皇や京極為兼、日野資朝、日蓮などが配流され、それと関連してさまざまな人が訪れています。そうした人の流れは都から洗練された文化をももたらし、歴史的に独特の発展を遂げています。

 ただし、そうした伝統は金北山と大地山を結ぶ線の西側に集中しています。この西佐渡に比して、東佐渡はその貴族的文化波及も乏しく、非常に貧しい地域です。戦前、佐渡には旧制中学校2、農業学校2、高等女学校3の計7校も中等教育機関が設置され、島の規模を考えれば、非常に充実しています。ところが、そのすべてが西佐渡にあり、東佐渡は初等教育機関があるだけです。ここからも東西の格差の一端がうかがわれるでしょう。両津は、その名が示す通り、この東佐渡に属する漁師町で、人口密集地です。

 この教育後進地域で、戦後すぐに高等女学校創設の運動が地元の名望家たちの間で高まります。発端は領津町の乳児死亡率の高さです。1933年の乳児死亡率の全国平均は1000人当たり121人です。一方、両津は216人と全国平均の倍であり、新潟県の町としてワーストです。戦前、両津町は「赤ん坊の地獄」と揶揄されます。この最大の原因が女性たちの衛生知識の低さです。実態を把握しようと調査を始めた町の小児科医は町民の反応に絶句します。産むだけ産んで、死んだら死んだでそれでいいではないかという意識だったからです。こうした通念を教育を通じて変えない限り、両津町の乳児死亡率の改善はありえないと町長を始めとする名望家たちは確信します。西佐渡に、確かに、高等女学校が3校ありますが、東佐渡の女子には遠すぎます。下宿をするか、バス通学をしなければなりません。それは貧しい一般家庭にとって大きな負担で、足で通える範囲に高等女学校がなければなりません。名望家たちも高等女学校を開校さえすれば、みんな通うようになると楽観視していません。最初は少数であっても、その人たちが刺激となって、徐々に進学率が上がってくれればと考えています。町議会も設立案を可決、敗戦後の混乱の中で資金を集め、高等女学校設置を国に働きかけます。

 19463月、町立両津高等女学校の設置が許可されます。51日に入学式が挙行され、新入生110名、選任教諭3名、他に他校から出張教諭による授業嘱託でスタートします。ところが、11月に公職追放により町長がパージされてしまいます。19474月、新憲法施行に備えて、首長の公選制が始まります。ちょうど学制も旧制から新制へと切り替わる時期でもあります。両津高等女学校を新制両津高等学校へと移行すると公約を掲げた柴田正一郎が両津町長に当選します。弱冠38歳で、民主日本の門出としてふさわしい人選です。

 ところが、当選の二日後の417日、両津町が大火に見舞われ、町の半分が消失してしまうのです。国中が赤字の状態であり、人口9000人ほどのこの町も例外ではなく、そこにこの災害からの復旧・復興が加わります。もともと教育に意義を見出していない人が多い地域でもあり、公約凍結の世論が高まります。庶民とは縁がない新制高等学校など無駄であり、新制中学校で十分、「ブルジョアのための高校設置反対」というビラまで出回っています。

 けれども、若い力に迷いはありません。隣の賀茂村の浜野喜作村長と連携し、青年町長は自らの公約実現に邁進します。町民を説得するための公聴会の開催を決断するのです。反対論に流されがちな町民を前に、医師が町の乳児死亡率の高さとそれを改善するための教育の必要性を説き、助役や町議会議長も、民主日本の建設には新しい人材育成が不可欠であると訴えます。最後に、柴田町長が壇上に立ち、山本有三の戯曲『米百俵』についてかたり始めるのです。

 山本有三は戦前から広く読まれた作家で、加えて、これは長岡藩で起きた実話を元にしており、町民にとっても馴染み深いのです。戊辰戦争により窮乏に陥った長岡藩を見かねた隣接の三根山藩が米百俵を支援します。餓えに苦しんでいた藩士たちはその分配に期待しましたが、家老小林虎三郎はこれを基金に学校創設を決断するのです。「人物をつくれ、教育こそ人間形成、長岡復興の要諦である」と反対論を説得します。こうして設立された国漢学校は、後に坂之上小学校、旧制長岡中学校へと至ります。多くの人材を輩出し、その中には小野塚喜平次東京帝国大学総長や山本五十六連合艦隊司令長官がいます。この戯曲を紹介した後、柴田町長は演説を次のように締めくくります。「今、戦争にヤブレ、重ねて両津は大火に襲われ、疲弊の極みに達している。この時こそ『米百俵』の精神をわれわれは学ばねばならぬ」。

 2001年、当時の小泉純一郎首相が『米百俵』に言及した国会演説を行っています。ただ、それはほぼ「臥薪嘗胆」の意味で使われ、恣意的な曲解にすぎません。小泉政権下、教育予算が増えたことはありません。

 演説の後、町民から拍手喝采が沸き起こります。もう心は決まっています。翌年、両津町加茂村組合立両津高等学校が発足するのです。

3章 古今東西、天下一等の学園の建設!
 普通科3学級で開校したものの、資金難のため、校舎はバラック、トイレに至っては地面に穴を掘ってむしろで囲っただけという有様です。ただし、教員の人材には恵まれています。戦時中は疎開、戦後になると、食糧難・就職難から佐渡出身者や縁のある人たちが島に渡ってきます。それぞれ民主日本建設のための人材育成の使命感に燃えています。けれども、生徒集めには苦労しています。当初の反対論とは逆に、ブルジョアの子弟は伝統のある西佐渡の高校に進学します。そこに通えない事情を抱えた中学生が両津高校に入学するわけです。そのため、この高校は「オカラ学校」と揶揄されています。

 むしろトイレの実態が教育庁の知るところとなり、校長が呼び出され、改善が要求されます。女子生徒もいるというのに、人権無視ではないかというわけです。そんなこともあり、49年、白山に新校舎が建設されるのです。

 1950年、菊池勘左ヱ門が2代目校長に就任します。菊池勘左エ門は両津出身で、富山県の教育界の実力者として知られた人物です。貝類の研究者でもあり、新種を12種も発見し、そのうちユキノツノガイ・ハブタエツノガイ・トヤマツノガイ・ロウソクツノガイの4種を自ら新種記載しています。その大物が前年に郷里に戻っていたところ、両津高校の新校長を依頼されています。着任後、菊池校長は、「古今東西、天下一等の学園の建設!」をスローガンに掲げます。もともと熱心な教師がそろっていたこともあり、就職志望の生徒には、簿記検定三級の合格を目標とした教科書を手作りし、徐々に増えてきた進学志望者にはガリ版刷りのテストを繰り返しています。さらに、生徒たちには、君たちは両津高校の先祖であり、その実績によって子孫の運命が左右されると説いています。成果は次第に現れ、後に設置された商業科の生徒の70%が合格するようになり、普通科からも地元の新潟大を始めとして東大や京大、東北大、早稲田、慶応などいわゆる難関校への進学も続々現われていきます。

 教育のもたらす変化は時間がかかります。政治や経済のようなスピードはありません。1961年のラジオ聴衆加入普及率は、新潟県が58.0%、佐渡郡の平均が46.1%であるのに対し、両津は41.1%です。向上したいと望み、自分でものを考えるためには、より多様な情報が必要です。ラジオを聴くというのもその一つです。両津は、この時点でも、まだ開明の意義が内部で共有されていたわけでは必ずしもありません。教育には長い眼が不可欠です。舟木一夫の『高校三年生』の歌声がラジオから流れる63年、団塊の世代が高校に入学を始め、それが大きな転機となっていきます。

 一方で、当初の目的だった乳児死亡率の低下は、劇的に現れます。50年代、両津の乳児死亡率は全国平均レベルでほぼ維持し、1962年からは全国平均を一貫して下回っています。ちなみに、62年の乳児死亡率は全国平均が1000人当たり26.4人に対して、両津のそれは17.9人です。その30年前は216.3人だったことを思えば、まさに奇跡的です。実は、小児科医が両津高校の孔子として公衆衛生を説くのみならず、校舎に地域の女性を招き、新生児や乳幼児の健康診断・育児指導を行っているのです。こうした環境の中で、乳児死亡率は飛躍的に下がっていきます。「赤ん坊の地獄」はこうして消えていくのです。

4章 社会のナビゲーター
 こうした経緯を見てくると、両津出身の女性看護師という存在に大きな意義を秘めていることがわかるでしょう。両津の戦後を凝縮しているとさえ言えます。乳児死亡率を下げるために、女性への健康に関する知識・意識を高めることが両津の戦後の出発点です。両津で生まれた女性がこうした状況の中で育ち、学び、看護師となって、秋本治と出会うのです。それは、確かに、偶然です。けれども、背後にある両津の歴史が彼女を看護師にさせた一つの理由であったことは否定できません。    

 しかも、それがバイオレンス・ポリスマンの姓に借用されるというのも、偶然ですが、何と言う歴史の綾かと思わずにいられません。かつて「両津もんは向こう気ばっかり強くて教養がない」と嘲られています。まさに「始末書の両さん」はそれを具現化したような人物です。新しき両津が生み出した女性から古き両津が復活するのです。

 思いつきや思いこみに基づき、たんにその不備だけが目立つような作品の方が多いことでしょう。まったくの偶然から誕生した「両津勘吉」が、実は、歴史の綾を秘めているというのは表現作品において数少ない例外かもしれません。けれども、偶然から世界の渥美が見えてくることは、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の方法と相通じるのです。

 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の特徴は解剖学的・百科全書的方法です。ルーズソックスが作品に登場する際、それは決して小道具や口実として扱われません。ルーズソックスがどういうもので、いかなる種類があり、どんな特徴があるかが詳細に言及されるのです。対象が何であり、何でありうるかが物語られます。定義が提示され、構造と携帯に基づいて分類されるのです。対象は解剖されて、百科全書的知識として明示化され、作品の中でそこから見えてくる社会が展開されていきます。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の真の主人公は社会です。両さんは、むしろ、ナビゲーターです。作品の最初の方で偶然の出会いがあり、それをきっかけに固有の秩序を持った社会が顕在化します。読者は両さんに連れられて、そのゾーンを体験するのです。

 「両津勘吉」は確かに偶然の産物です。けれども、それは両津の戦後史のナビゲーターの役割を果たしています。偶然にも、作品と相通じます。

 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を映画化する際には、こうした特徴を反映させる必要があるでしょう。これほど社会の厚みを明示してくれる作品もめったにありません。偶然から思わぬ世界が見えてくるような映画でなければ、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を冠したところで、その名に傷をつけるだけというものです。
〈了〉
参照文献
竹内洋、『改訂版学校システム論』、放送大学教育振興会、2007

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