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「美しい日本」?(2012)

「美しい日本」?
Saven Satow
Oct. 26, 2012

「白菊よ白菊よ恥長髪よ長髪よ」。

 安倍晋三自民党総裁が誕生して以来、その党内外のファミリーから「美しい」や「強い」といった形容詞が乱発され、しばしば「日本」に前置されています。「美しい日本」や「強い日本」です。けれども、こうしたフレーズを口にするだけで、その人は日本において政治について発言する資格に疑問符がつくのです。

 「美しい日本」は日本語としておかしいのです。例を挙げて考えてみましょう。

A 美しい日本
B 日本は美しい
C 日本は美しい国

 この三つの文の内、BとCは日本語上問題がありません。「美しい」を実体のない対象に使うことができない言語もありますが、日本語はその辺が厳密ではありません。しかし、Aは変です。この違和感は次の例と比較すると、明瞭になります。

A 美しい吉永小百合
B 吉永小百合は美しい
C 吉永小百合は美しい人

 BとCはまったくひっかかりを覚えません。しかし、Aはおかしいと感じます。それは固有名詞に修飾語がついているからです。

 修飾には語や文を限定する機能があります。日本語には冠詞がありませんから、修飾が限定ではなく、飾りだという意識があります。ですから、固有名詞にも修飾語がつけられると思ってしまうのです。

 けれども、修飾には限定の用法があることも確認しておくべきです。「国」や「人」は、修飾語がつく場合、集合として理解されます。集合全体から「美しい」という条件に合うものが選ばれるわけです。

 しかし、「日本」や「吉永小百合」は固有名詞です。言語的な意味で集合を持ちませんから、修飾語によって限定することはできません。これは飼い犬に「ぺス」と名前をつけることを考えてみると、わかります。犬という集合からある一匹を取り出して、それに「ぺス」と命名したのですから、この時点ですでに限定されています。限定されたものをさらに限定する行為は、ほとんど素粒子研究の世界になってしまいます。

 固有名詞は、いつ、どこで、誰がそうつくったのかという起源が、現実的にはともかく、原理的にはあります。言い換えると、固有名詞は生まれる瞬間に立ち会うことができるのです。一方、普通名詞にはその場がありません。「国」を「国」と呼ぶようになった瞬間を誰も体験することができないのです。神話や民話で固有名詞の由来が語られることはあっても、普通名詞のそれはまずありません。普通名詞に属するものを固有名詞に命名することは原理的には誰にでもできます。ただし、固有名詞は自分自身を指し示せませんから、その命名行為を知らなければ、使われても何のことを言っているのかわかりません。

 それでも修飾を使おうとするなら、その固有名詞がさまざまな側面を持つものとして捉えられます。日本語で固有名詞に修飾語が前置されている場合、主な用法はこれです。「成長するアジア」はそうした例です。こう考えると、「美しい吉永小百合」は「美しくない吉永小百合」の側面も暗に孕みますから、サユリストは到底許せないことでしょう。

 「美しい日本」と言う時、「美しくない日本」も暗黙の裡に現われます。日本にはさまざまな課題もあるし、それを改善していくべきでしょう。そういった面を承知しつつ、日本を認めようとするなら、「美しい日本」とは言わないはずです。あるがままの日本を受けとめようとする自尊感情ではなく、都合の悪いことに目をつぶり、他国と比較して優越感を味わおうとする歪んだ自尊心がそこにあるのです。「強い」を乱用することがそれを裏づけています。

 川端康成が1968年のノーベル文学賞を受賞した際、「美しい日本の私」と題する講演を行っています。実は、「美しい日本の私」は「美しい日本」よりも文法上の問題が少ないのです。

 例を挙げて説明しましょう。

A 日本の私
B 吉永小百合の私

 Aは問題がありません。しかし、Bは、川端康成がサユリストだったことは有名ですが、何のことかさっぱりわかりません。Aは固有名詞ですけれども、場所として使われています。「美しい日本」が日本のさまざまな側面を対象にするのに対し、「日本の私」は「私」を限定していますから具体性が感じられます。地理的にしろ、心理的にしろ、場所は、住所が示す通り、さらなる限定が可能です。一方、Bは人名ですので、これ以上の限定はできません。もし「私は吉永小百合のものだ」という意味で使っているのなら、かの銀幕のスタアにとって少々迷惑な思いこみです。

 日本語では修飾は前置が原則です。「の私」がつくことにより、「日本」は限定可能性を持ちます。そのため、「美しい」という修飾語が前置されても、さほどおかしいと感じられないのです。もっとも、「日本の美しい私」なら、自己愛は別にして、まったく違和感がなくなります。川端康成の主張に賛同するかどうかはともかく、日本語に対する感覚はやはり繊細です。ちょっとした工夫で文の印象が変わるのです。

 2006年に安倍晋三の名で刊行した著書のタイトルは『美しい国、日本』となっています。さすがにゴースト・ライターや出版社はおかしな日本語にできないと感じたのでしょう。ここでの「、」は限定用法と理解できます。

 しかし、政治家が「美しい国」を掲げること自体に問題があります。川端康成のような文学者が美について語ることは、むしろ、当然でしょう。美は、一般的に、主観的判断に属します。誰が何と言おうと、自分の娘が世界で一番美人だと思っていても、かまわないのです。しかも、うつろいやすいものです。昔あれだけ美しく見えた妻に対して、今では「この目の前にいるおばさんは何者だ?」と思わずにいられないこともあるでしょう。そうした美の判断基準を政治が決めるとしたら、それは内面に踏みこむことになりますので、近代の理念に反することになります。化粧品メーカーが同時代における類型的美を消費者に提案する私的経済活動とわけが違うのです。近代国家では内面の自由が保障されています。近代政治の理念も理解していない人物を首相にしてしまったというのは憲政史上の恥だと言わざるを得ません。立憲主義の確立に努力した先人に顔向けできないというものです。

 用法は時代によって変わっていくものです。正しい日本語は、その意味で、ありません。でも、適当さを知るためにも、原理原則を理解しておくことは悪くありません。文章論から日本の政治を考えてみると、思っている以上にその本質が見えるものなのです。
〈了〉
参照文献
伊藤笏康 『言葉と発想』、放送大学教育振興会、2011年

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