デイヴィッド・ベネター教授 生殖は生きる意味のポンジ・スキーム


今回は、ベネター教授が「Death Hangout」というYoutubeチャンネルでインタビューを受けたときの音声を紹介します。
人類滅亡や生きる意味など、過去2回の記事と重なるトピックが多いのですが質問者が違えば教授の答えもまた違ったアングルからのものになっているのでご紹介しようと思いました。


今回は繰り返しのような質問が多かったりホストの二人がカジュアルに感想や話をしているので、訳す部分が飛び飛びになり、質問部分の訳も端折ったり要約しているのでご了承ください。

最初に「トゥルー・ディテクティブ」という海外ドラマの主人公の一人、ラスト・コール刑事のインスピレーションとなっているのがベネター教授の著書であることが紹介され、そのコール刑事の「人間が意識を持ったのは進化の過程の悲劇的な間違いだ....    人類はプログラムを否定して生殖をやめ、手を取り合って絶滅に進むべき.....」という感じの反出生的なセリフが流された後の会話です。


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4:35
Q: デイヴィッド、(今流したダークなセリフにも関わらず)楽しい時間を過ごしたいと思いますが、どう思いますか?


デイヴィッド: 楽しめると思いますよ。死に関するジョークやユーモアは沢山あります。人によってはそのようなジョークは死に対する無神経さだと思うかも知れませんが、私は実際のところそのようなユーモアは死にたいする不安から来るものだと思います。ですから、死を笑い飛ばすことと深刻に捉えることが矛盾しているとは思いません。

5:22
Q:  死とはどのようなものだと思いますか?

デイヴィッド:  多くの人は私の出生に対する考え方から、死を肯定的に捉えるはずだと思っているようです。出生が悪いものであるなら、生から少しでも早く逃れる方がいいだろうと。そのような推測は正しくありません。 私の考えでは、存在させられることが害悪であると同時に、存在を消されてしまうことも害悪です。つまり死は害悪なのです。ただし、死の害悪については、生を受けることが害悪であると確信しているほどに強い確信があるわけではありません。これが私の変わらない見解です。
死が害悪であることに関しては、とても有名な反論、つまりエピキュロスの快楽主義があります。 私は著書や他の機会においてもこの快楽主義をノックダウンする議論を提示できるかのような振りはしていません。このエピキュロス主義を決定的に論破する議論があるとは思いません。しかし、さまざまな考慮事項とのバランスを鑑みて、死は実際のところ害悪であると言う結論に達するべきだと思います。

Q: 生まれることは、悪いことで悲劇的である。それなら、自殺をしてしまえば簡単なことかも知れませんが、そうではないということですね? 


デイヴィッド:
   おっしゃる通りです。生まれていない存在は、生まれることに関心がありません。生まれれば、生まれなければ味わうことのないさまざまな苦しみを味わうことになりますが、生まれなければそれらの苦しみを完全に免れることができます。それが生まれることに関心がない理由です。しかし、いったん存在してしまうと、存在し続けることに関心を持つようになり、その関心は死によって阻まれることになります。苦しみを避けることへの関心は、生き続けることへ関心を上回るものではありません。
苦しみがあまりに酷くなれば (そしてそのような状況は人生の最後によく訪れるものです)、苦しみを回避する関心が生き続ける関心を上回るかも知れませんが、大多数の人にとっては、ある程度の健康に恵まれてさえいれば、今のところはどんな苦境にあっても恐らく生き続ける方がその人のためになると言えると思います。

Q:  今のところは(笑)

デイヴィッド:   今のところは、です。なぜなら、人生は終わりに近づくにつれ悪くなっていくものだからです。突然亡くなる人もいますが、だいたいの人は死ぬ前に大変な苦しみを経験します。

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この後、苦しみとは何か、という話になります。
ベネター教授によると、苦しみには快楽主義的な意味における「苦しみ」の外にも様々なものがある。
また彼自身、議論において「苦痛と快楽」をよく例にするが、これらは人生における良いことと悪いことの分かりやすい例として使っているだけでそれ以外にも良いこと悪いことはある。

本人が無自覚なまま経験する悪いこととして「無知」がある。
無知な人は無知のおかげでその事実に苦しむことはないが客観的に見てもっと知識があった方がいいのに、ということができる。
また本人が亡くなった後に起こる悪いこともある。例えば、一生かけて書き上げた素晴らしい原稿が、その人が亡くなった5分後に燃やされてしまった、など。 

さらに人生の良いことと悪いことのバランスの評価の仕方について、苦痛と快楽の非対称性の話や、前回の記事と重なるポリアンナ効果などの話が続きます。

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17:30

Q:  今すべての人がアンチナタリズムを採用して子供を作らなくなったら世の中はどうなると思いますか? 将来にレガシーを残すことなどを通じて人生に希望を見出している人も多くいますが、そのような将来を失ってしまった人たちの生き方はどうなるのでしょうか?

デイヴィッド: 色々なことが大きく変わるでしょうね。もし、自分たちが最後の世代になり将来の世代は生まれてこないと分かったら多くの人が激しく動揺するでしょう。多くの人の人生から生きる意味が奪われてしまうのですから。 しかし重要なのは、それはいずれ起こることであり、人類がどのように絶滅するかは分からないということです。
多数のシナリオが考えられますが、ひとつはそれが突然起こるというものです。 突然起こるのであれば、誰も「これが最後の世代だ」と言う強烈な不安というものを感じることなく全人類が死に絶えることになります。 しかし、人類が少しずつ絶滅していく可能性もあります。例えば地球が一定の速度で人が住めない環境になっていく場合などで、生殖が行われても生まれた子供はとても若いうちに亡くなり、人口が減っていき、ある時点で人類は恐らく近いうちに絶滅することが明白なります。この時点で、あなたが言ったようなさまざまな問題が持ち上がってくるでしょう。
人々が私に、誰もがアンチナタリズムを実践したら問題が発生すると言う時、私はその問題はどのみち起こりますよ、と答えます。将来の世代を生むという行為は、どのような形で起こるかは分からないけれどいつか必ず起こる悲惨な最期を先延ばししているに過ぎないのです。
今ここで起こっていることは、生殖のポンジ・スキームと言えるかも知れません。
人生に意味を持たせるために新しい世代を生み出し、その世代は自分たちの人生のためにさらに次の世代をと生み続ける必要があるのです。しかし、すべてのポンジ・スキームがそうであるようにこのポンジ・スキームもいずれは破綻します。

Q:  (あなたの議論は人々に届かないし、いずれ人類は絶滅すると分かっていても人々は子作りをやめないでしょうという意見に対して、、)

デイビッド: それは同意します。最初からそれは認めていますよ。あなたが仮定のシナリオについて尋ねたのでお答えしたまでで、すべての人がこの議論に耳を傾けて生殖を止めるということが実際に起こるなどと示唆したことは一度もありません。

Q:   では、アンチナタリズムを広める目的とは?

デイヴィッド: オール・オア・ナッシングの考え方をする人は沢山います。つまり、すべての人を納得させられなければ意味はない、という考え方です。
私が何をしているかというと、次の2つです。まず、生殖に関し私が正しいと思う見解を表明することです。つまり、子供をこの世界に生み落とすということが、途方もなく悪いことだという見解です。その子供に与える直接な害悪と、さらにその子供が作る子供たちに与える間接的な害悪がその理由です。このような見解を表明するというのが一つ。もう一つは、たとえほとんどの人がこの見解に聞く耳を持たないか内面化できないとしても、納得して賛同してくれる人々が一部でもいれば (そしてそのような人は一定数います)、その人たちは生殖を行いません。そして、生まれない一人ひとりの子供が、人生の苦しみと死を免れることができるのです。

Q: (知り合いでまさにそれが理由で別れることになったカップルについて話す...)


デイヴィッド: 例えば医者について考えてみてください。人々の命を救おうとする医者について地球の全ての人を救えなければ意味がないという風には考えません。すべての人を救えないからといって誰も救うべきではない、とは思いませんよね。医者は限られた範囲で良いことをするのです。
私の議論も同様で、例え一部の人しか実践しなくても、この議論を提唱することで誰かの苦しみと死を回避できるのならそれは良いことです。


Q: ある人が生まれなかかったら、誰がその恩恵を受けるのですか?


デイヴィッド: その恩恵を受ける特定の個人は存在しません。しかし、その害悪の不在は良いことです。ここに、ある子供が生まれる場合と生まれない場合という二つの潜在的なシナリオがあるわけですが、子供が生まれない場合のシナリオは害悪によって苦しむ人が存在しないという点でより良いと言うことができます。


25:55〜
Q:  人類または人間の生き方というものの何が変われば、あなたの見解を変えることができますか?

デイヴィッド:  原則的には何かが起こったら私の見解が変わるということはないでしょう。
もし人生から不快なことが一切なくなり、快適なことだらけになったとしたら、生まれることは悪いことではないと言います (が、それは起こらない)。


29:10〜

Q:  人間には希望という要素があると思いますが、あなたの議論に完全に欠けているものは多分、希望という概念だと思います。
先ほど、苦しみが大きくなりすぎ、不幸にも自殺をする程苦しくなってしまう人の話がありましたが、これは完全に希望がなくなってしまった状態ですよね。


デイヴィッド: この「希望」と「逆境によって成長する」というのはあなたのコメントに繰り返し出てくるテーマですね。私は、そのような現象をまったく否定しません。人々が逆境を通して成長する場合があることは認めます。しかし、その成長という恩恵はすでに存在している人にとって意味があるものです。ある人が存在しなかったためにその逆境に遭わず、その結果成長することがないとしても、その経験を剥奪される人は存在せず、成長の不在は悪いことにはなりません。言い換えると、その成長は逆境があるという条件付きの良いことなのです。逆境に遭っても、少なくともそこから何かを得たというだけであって、その逆境がそもそもあってもいいということにはなりません。

すでに存在している人を例にしましょう。遠くに住んでいてたまに会う二人の人がいるとします。インターネットなどを通じて仲良くなった二人が実際に会った時に、一人がもう一人にひどい暴力を振るって、その被害者がその結果何らかの成長を遂げたとします。もし襲った方の意図が相手を成長させるためだったとしても、それによって暴力が正当化されるとは思いません。暴力から何か良いことが派生することはあっても、そもそもその暴力があっていいことにはなりません。
人を生み出すのもこれを同じようなことです。子供を作るとき、その子供が逆境に直面することは分かっているのに、それでも逆境から何か良いことが起こるだろうと思うのです。これは子供を作る言い訳にはなりません。生まれなければ、その良いことがないことは悪いことではないのですから。

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