デイヴィッド・ベネター教授 人類滅亡について語る


今回は、ベネター教授の人類滅亡に対する考えを、2020年3月10日にアップロードされた「The Exploring Antinatalism Podcast」 というアンチナタリズム活動家のポッドキャストに出演したときの音声で紹介したいと思います。


すべて興味深い内容なので全編聴いていただきたいですが、英語が苦手な方のために人類滅亡の話題に入る 49:40から58:30  くらいまでの部分のみを訳してみましたのでぜひどうぞ。

[ご注意]  
最善は尽くしましたがあくまで素人の私訳です。


Q:  仮定の話ですが、もしここに赤いボタンがあって、それを押すと宇宙を消すことができるとします。その過程で苦しみや悲惨な死が起こることはなく単に宇宙が消えるだけです。その場合、最も倫理的な決定はこのボタンを押すことでしょうか?これは現実的な話ではなく、ましてや「そのボタンを探して押しましょう」と言っているわけではないのですが、基本的にエフィリスト(アンチナタリスト)が議論または問いかけようとしているのは、我々は絶滅するための倫理的な方法を見つけることができるか、ということなのです。実際のところ私たちには計画もロードマップもありませんし、いかに倫理的に絶滅を達成するかを描いた絵すら作成されていないのです。しかし、あえて思考実験という目的でお聞きしたいのですが、この赤いボタンを押すことは最も倫理的なことだと思いますか?

ベネター: それはその人の背景理論によって異なると思います。
「Better Never To Have Been」で私は、理論的に中立であるように努め、特定の倫理理論に依存しない議論を提示しました。またこの本の中で、どの倫理理論を採用するかによって段階的絶滅に対する考えが異なることを指摘しましたが、今回のような「Benevolent world-exploder (慈悲深い世界爆破者)」のケースは背景理論によって違いが出るシナリオです。

例えば、あなたが「人間には殺されない権利がある」と信じるのであれば、たとえそれによって好ましい結果が得られるとしても、このボタンを押して一瞬でしかも苦痛なしにすべての人を殺すことは正しいこととは言えません。人々の権利を侵害していることになるからです。
一方、あなたが「負の功利主義」を信じるのであれば、このボタンはまさに押すべきものでしょう。
つまり、このケースは各個人の背景にある理論的アプローチによって意見が分かれるというタイプの思考実験だと思います。

Q: ところで、あなたは負の功利主義者ですか?

ベネター:  いいえ。多く人が私の議論を功利主義であると思っていますが、これらの議論は功利主義に限ったものではないと思っています。他の理論的立場とも同等に親和性があります。


Q: あなたの規範理論は何ですか?

ベネター: その質問にはお答えしません(笑)

ただアンチナタリズムに対する私の議論は中立的であり、功利主義であると読み取ることは間違っているということだけお答えします。
功利主義との親和性はありますが、他の理論とも親和性があるということです。

Q: 義務論とも親和性がありますか?

ベネター: あります。

Q: わかりました。私は、仮に人類が絶滅に向かっているとしたら、人間が他の動物より先に絶滅してしまうのはとても悲劇的なことだと思います。
なぜなら、人間は酷い生き物でさまざまな点で失敗し続けていますが、それでもこの地球上ですべての動物をある種の倫理的な方法で絶滅させることができる可能性がほんの少しでもあるのは人間しかいないと思うからです。
つまりこれはVHEM(自主的人類絶滅運動)の話をしているのですが、私たちが先に絶滅して他の動物たちを将来自然によって起こる絶滅に向き合わせることは、倫理的に最悪なことではないかと思うのです。そのことについての考えがあったらお聞かせください。


ベネター:  そうですね。私は、人類が自らを倫理的な方法で絶滅させることはないと思っています。もし自らを絶滅させるようなことがあるとしたら、それは非倫理的な方法になるでしょうし、自主的な絶滅でなければ隕石などの不可抗力によるものでしょう。
ですから、私は人類が他の動物を倫理的に絶滅させるということに希望は見出しません。実際、今現在でも人間は非倫理的な方法で動物たちを絶滅させています。
人間はそういうことが本当に得意なのです。
人間が他の動物を倫理的に絶滅に導くなどということは起こらないでしょう。


Q: アンチナタリズムは、どのような形であれ、倫理的に実践し続けいくことの限界に突き当たってしまうと思いますか? 

ベネター: 確かに、我々が絶滅をもたらすために使える方法は非常に制限されていると思います。当然、人々を殺して回ったり、動物の生態を破壊することで目標を実現すべきでありません。
実質的に、倫理的な方法で目標が実現されることはないと思います。
絶滅はいずれ実現するでしょうが、それは他の理由によってです。
私たちは自分たちの能力の限界を認識した方が良いと思います。

興味深いのは、アンチナタリズムというのは悲観的な哲学であるにもかかわらず、一部の人はこの悲観的な哲学に過剰に楽観的な目標を付加していることです。つまり、新しい存在を生み出すべきではないと信じ、さらに実際に人間とその他の動物を倫理的な方法で絶滅させることができると信じているのです。
後者の信念については楽観的すぎると言わざるを得ません。現状はもっと酷く、そのようなことを実現できることはありません。
しかし、もっと小さなことで私たちに出来ることがあります。
例えば、自分の子供を作らないことや、犬の繁殖をしないことなどです。これらのことは私たちの能力の範囲で行うことができ、これに賛同する人々が増えるほどその効果は高まるでしょう。しかし、議論を通して絶滅がもたらされるということは起こりません。これは確かに気が滅入ることです。しかし、起こらないことは起こりません。


Q: 私もそれが起こるとは思っていませんが、あくまで可能性の話で、基本的には、もし人類滅亡を目指すとしたら、私たちは何から始めればいいかという問いです。
そして、それが次の政策に関する質問に繋がるのですが、エフィリストまたはアンチナタリスト的な政策というものは考えられますか?そしてそれらを支持しますか?

ベネター: 倫理的な政策もあり得ると思いますが、より多くの非倫理的な政策が考えられます。避妊薬が欲しいのに入手することができない人がいて、そういった人が避妊薬を入手しやすくするような政策を取った場合、これは完全に倫理的な政策であり、あった方がいいものです。このような政策には賛成です。
一方で、より少ない子供を持つことを奨励する政策の場合、それに従わなくても禁固刑や死刑やその他の罰則がないような場合は許容可能かもしれませんが、それ以外にもより徹底した生殖禁止法などさまざまな形態の政策が考えられます。

まず、こうした政策は民主主義の国で実現することはありません。
独裁政治あるいは寡頭政治下では可能かもしれませんが、深刻な抵抗があるでしょうし、それによってさまざまな弊害がもたらされるので良い政策とは言えません。

私の考えでは、我々は限界を認める必要がありますが、同時に個人ができることに関してはあまり悲観的になりすぎる必要はないと思っています。

しかし世界には、危険なユートピア思想の長い歴史があります。人々が理想の社会というもの想像し、次にはその理想の社会を実現するにはどんな手段でも使って良いと信じるようになり、言葉では言い表せないような苦しみと弊害をもたらします。
そしてその結果、それらの人々は何の目標も達成することがないのです。
私たちは過去の失敗から学び、同じ失敗を繰り返さないようにしなければなりません。

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