フィルムに写る愛情

 昨今、「写ルンです」が小さなブームになっているらしい。噂では聞いていたが、手に取ったのは恋人の影響。曰く、「写ルンです」を1個買って旅行へ行くのが楽しいらしい。旅行とまでは言わないが恋人とは遠距離恋愛ということもあり、自然と月に一度、会えるタイミングでフィルムカメラを買うのが決まりになった。

 最新のiPhoneを手にしながらアナログなフィルムカメラを使うなんて、最初は矛盾を感じたがコレが面白い。なにせ何がどう映るかわからない。撮りたいものが撮れているかわからないままにシャッターを押す。トライ&エラーが許されないその不便さは、却って制約となり、能動的に感覚や想像力を使う楽しさを教えてくれた。

 シャッターを切り、フラッシュが焚かれ、そしてなにかが残る。写真元来の仕組みをまじまじとその手で体感すると、一枚の価値はグッと変わる。

 つい、iPhoneだと撮りすぎる。スクリーンに映る映像もとに、光がどうだ構図がどうだ思考を巡らせ、撮れた写真を確認しては再撮影、気に食わぬときには編集加工、とやりたい放題。そんな煩悩なんざ知ったことかと制約まみれなフィルムカメラが、なんだかとても心地良い。

 使い切った「写ルンです」は現像の必要がある。近場の写真屋に行けば、フィルムを写真に起こしてくれる。最近はスマホに画像データを送付するなんてサービスもあるからうれしい。現像はおよそ30分から1時間ほど。この待ち時間も好きだ。何が出てくるかわからないものへ想いを馳せ、高揚するなんて、意外と日常では味わわない感情だ。

 いざ出来を見ると、ブレていたり、フラッシュが強すぎて露出過多だったり、はたまた明かりが足らず真っ暗だったり。予想外の連続。けれどそこも魅力のひとつで、携帯で撮影していたら真っ先に消していたような画像も、なんだか愛おしく、貴重な一枚に思えてくる。

 小顔修正も許さないそれは時に辛辣だが、けれどまぎれもなく、それはこの世に存在した一瞬だったのだと、証明するように語りかけてくる。ロラン・バルトが写真の本質を「それはかつてあった」と言っていたことを思い出した。

 また、現代の写真家を代表するアラーキーこと荒木経惟は「(写真には)自分と相手の関係性がばれちゃう」と言っていた。聞いたときには理解できなかった言葉だが、まさに、と実感する。シャッターに重みがあるほどに、その写真には感情が宿るものだ。

 自分たちの写真を見返して思う。そこに写るものは感情的で、それでいて正直。他人にはなかなか見せられないような恥ずかしさを覚えるが、恋人という秘め事の関係性は、まさにそこに写っていた。

 そんな一枚一枚になるのは、フィルムだからこそだろう。取り返しのつかない写真には、取り返しのつかない時間が流れていた。

 見返したくなる写真を撮ろう。それはたくさんは必要ない。そんな気持ちが生まれてきた。

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