幸せは歩いて来ない、だから

評論家とか有識者とか経営者とか、成功者ポジションで、口から思考を垂れ流してる動画ばかりがYouTubeのショートに流れてくる。薄ら寒い。
インスタのリールに移れば、チーズだらけの食べ物とか可愛い犬猫の動画で、それらは嫌悪感のない魅力的なものばかりなんだけど、蠱惑的な欲望の塊でもあって気味が悪い。
TikTokは開いた瞬間、もう対象年齢じゃないよ、って如実に訴えかけてくる。
無意識操作でとにかくスマホをいじって、眠くなるまで時間を潰す。
決して有益ではない時間を過ごしておきながら、一方で劣等感を加速させ、このままじゃいけない、と説得してるつもりで、やっぱりこのデジタル涅槃に安住している。
あと足りないのはやる気だけ、って状態でもう三年は生きてるだろう。生命と経済の活動だけを維持してる。
夢や希望といった未来への期待は10代だけの特権に思えて、今あるものでやりくりすることが得意になった。
甘んじた生き方をしているつもりはない。この生活も過去の努力の成果物だろう。
この果実、割ればしかしそこは空であった。
何かを手に入れたようで、何も手に入れてはいない。
そうして満足を知れず、過去が後悔に変わり始めた。
けれどその後悔すら、ほかに実現可能な選択肢があったのかどうかは怪しいもの。ある程度のやる気と無力さの結果がこれで、本個体が成し得た可能性はひとつだけに思えるのだ。
本当に欲しいものは、劣等感の中にこそ備わっているのか。わかっているものほど手に入らない、この地獄をあと何年生きるつもりだろう。さあさあ、いざ、なんて刹那に終わる自己暗示的鼓舞よりも、もっと自分を嫌いになりたい。己の不出来を認め続けたい。なんて惨めで見窄らしく無価値なのか。簡単に自分を騙すこの自分を、自分の手で苛めてあげる、それだけが処世術になった。

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