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安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』⑧(2019年4月7日)

コンピテンシー【competency】
 様々な定義の仕方があるが、一般的には高い業務成果を生み出すための行動特性の意味を持つ。1970年代に米国国務省の職員採用における選考基準が検討された際に、心理学者であるマクレランドが「優れた職員が行動レベルで発揮している顕在能力」をモデル化してそれを選考基準としたのがはじまりとされる。その後の研究では、継続して高い業務成果を生み出している人には、スキルや知識に裏づけられた行動特性や先天的な性格などに依存する行動特性よりも、仕事に対する取組み姿勢や考え方に基づいた行動特性が見られることが明らかにされた。現在では、このような仕事に対する取り組み姿勢や考え方のうち、高業績者が業務遂行において①実際に発揮しており、②他者にも求めることができるもの、を観察・評価することが可能な形で定義したものをコンピテンシーと呼ぶことが多い。(『経営用語辞典』)

 そもそもの「コンピテンシー」という言葉はどのような意味を持つのかを調べたところ、上記の定義を見てもわかるように、経営用語なのです。

 安彦先生のご講演を拝聴した際、最後に先生が強調されたのは世界が抱える「地球環境問題」をどう解決していくかということについてでした。私などは、そこにいたるまでに先生が示してきた教育学的な内容や方法(今回の私のブログの記事では、安彦先生の考える方法論については触れていないので、ぜひご著書を手に取ってほしいと考えます)からいきなり話題が飛んだ感があったのですが、以下の例が挙がって納得しました。

 彼ら(=自分たちの利益のために地球環境問題に対して真剣に取り組んでいない大企業や政治家 ※筆者注)が環境に関心をもつ大きな理由の一つが、彼らの12歳の娘や息子が、パパやママの会社は環境のために何をしているのかと聞いたときに、

 CEOが「環境問題なんて取りに足らない、あんなのはでたらめだ」などと一蹴しようものなら、「パパ(ママ)なんて大嫌い、サイテー、二度と口をききたくない!」と大泣きされてしまいます。これが実は、信じられないくらい効果的なのです。
(吉成真由美『知の逆転』(前掲書)59頁)

と述べて、「子どもへの教育の効果」であることを指摘しています。

 前回の本ブログの記事で引用した安彦先生の言にも次のようにありました。
(「安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』⑦」

 コンピテンシーの長所は「実社会・実生活に活用される」という点にありますが、その活用が妥当なものか否かの判断の基準は、その能力自体からは生まれません。
 「知っている」学力から「知っていることを活用する」学力へ重点を移していかねばなりませんが、「何に、何のために」活用するのかは、別基準で考えるべきことであり、何にでも活用してよいわけではないことは明らかです。「活用」が一面的に言われる現在、改めてこの区別の重要性に気づくべきであると思います。

 私は先日、「デジタル・アート」という分野で異彩を放つ企業team☆Labの見学・会社説明に参加する機会に恵まれました。

 企業の代表は徳島の出身で、阿波踊りが大好きだということでした。阿波踊りの何が魅力かというと、実は阿波踊りには決まった型がなく、一人一人が自由に踊っているうちに集団ができ、その集団で踊りが同じになっていくことだということでした。その考え方が、人が関わることでその形を無限に変化させていくデジタルの映像化に結びついているのがわかりました。もちろん、美しく花が散ったり川の水が流れたりする映像というのは、高度な数式やプログラミングの知識や技術が必要なのは私でもわかりました。しかし、その発想の原点が、子ども時代に打ち込んだ地域の祭りであるのには驚かされました。
 イギリスでの展示の時には、展示室の映像がまったく映し出されなくなったというトラブルがあったそうです。しかし、観覧者たちは展示室に人が多すぎるのではないかということをささやき合い、譲り合って展示室に入っていくようにしたところ、少しずつまた花が咲きだしたという話も聞きました。

 私は数年前、ICTを使った教育、アクティブラーニング、探究的な学びなどに大いに興味を持って、新しい教育に携わっていきたいという希望に燃えていました。しかし、それが手段にも目的にもなり、トップが何を考えて学校を経営しているかがわからなくなった時に、自分を持ち崩しました。今も、学校教育には距離を置いて(自分の置かれている状況も距離を置かないといけないせいもありますが)、こわごわ世の中の動きを見ていることにも気づいています。
 何のために教員であり、子どもたちに何を学んでほしいのか、将来どのような大人になって社会で活躍してほしいのか、それらを問い続けています。ただ、長く時間をかけることはできません。しかし、少しずつ見えてきているとも思う時があります。ただ一つ言えるのは、この安彦先生のご著書が私の新しい教員生活の《バイブル》の一つとなるのは間違いないということです。                              

(シリーズおわり)


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