さばくを埋める

 ふと、私は子どものころ飼っていたさばくのことを思い出した。まだちいさなさばくは、私のふたつの手のひらのなかでぴりりと鳴きながらうごめいていて、そのこそばさが心地よかった。さばくの背中に顔をうずめて、決して音をたてないように、そっと、しかしふかく息を吸い込むと、干し草の匂いが、太陽を閉じ込めた干し草の匂いが隙間をみたしてゆくので、私の穴ぼこだらけの脳みそはふわりと浮き上がって、私のからだを二センチメートルだけ持ちあげるのだった。それは、私が幼いころたべたアメリカ産の牛肉のプリオンの所為に違いなかったが、或いは二〇〇一年九月十一日に空いたふたつの穴ぼこが空気に乗ってパンデミックを引き起こした際に罹患したものなのかもしれなかった。しばらくするとさばくは部屋の中を自由に飛び回るようになって、さばくのひとかけら、それはとてもふわふわしている、をいくつも落としていくので、私はそれを拾いあつめては、やはり顔をうずめて二センチ持ちあがるのだった。けれど、三年ほど経ってさばくもずいぶんおおきくなったある夏の朝、やけにうるさく鳴くので何だろうと思ったその籠のなかでさばくはとまり木から落ちていた。腹を見せながら必死に私を呼んでいた。クーラーをつけっぱなしにしたせいで部屋もさばくもひどく冷え切っており、私はあわててかごからさばくのからだを取り出すと、両の手でつつんで暖めてやった。すると、さばくは安心したかのようにそっと目を閉じ、数回ゆっくりと呼吸し、そしてそれをやめた。冷え切ったからだは結局私の手のひらの温度と同化してなにも変わらなかったが、ちからのぬけきったさばくは私の指の隙間からこぼれおちていってしまいそうなほどだった。こんな形で固まってしまったら可哀想だと思って、私はテーブルの上にタオルを敷き、その上になるべく眠っているだけに見えるよう、さばくのからだを横たえてやる。しかし何度ためしても、だらりと伸びきった脚が邪魔をして、さばくをただの死体にしてしまうのだった。それがあまりに虚しくて、でも一番虚しいのは、おのれがさばくの死に、悲しさではなく虚しさしか感じなかったことだった。
 夜になると私は、人目につかないよう真っ黒な服を着て、右手にタオルでつつまれたさばく、左手にスコップを持って公園に向かった。ああ、この服装、喪服みたいだ。そんなことを考えながら公園について、さて、果たして砂場にしようか植え込みの奥にしようかとすこし迷ったが、砂場は定期的に砂を抜くと聞いたことがある。ほんとうかどうかはしらないが、さすがにそんなところにさばくを埋めることはできない。できればさばくは砂に返してやりたかったが、考えようによっては、さばくの上に命が芽吹いていくというのもまた素敵なことかもしれない。私は植え込みの中にもぐりこんで、何度もスコップで土を掘った。猫に掘り返されないように、深く、深く。そして、最後にタオルからさばくのからだを拾いあげて、そしてふたつの手のひらでつつんで、その背中の匂いを嗅いだ。しかし、もうあの太陽の光の匂いは漂ってこなかった。私はもう一生地面を踏みしめながら生きていかねばらならぬのだ。そう思うと、ひどくのどが渇いた。

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