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期待と怒りのコミュニケーション

先日、日本へ帰省した時に家族のスーツケース1つが遅延で届かなかった。娘の着替え一式が入っていたこともあって、困ったなと思いながらサービスカウンターに申し出ようとしたところ、わたしたちと同じ便で到着した女性とその友人、そしておそらくその女性たちと同じツアーに参加していた60代ぐらいの男性が前に並んでいた。彼らの順番が来て、ロストバゲージとなった女性はタグ番号を捜索してもらい、係員が状況を説明し始める。すると、それまで横に付き添っていた男性が突然口をはさんだ。係員の女性の対応に不満があるという。どうしてもっとお客様の気持ちに寄り添った対応ができないのか、気持ちがこもっていない、どうしてヘルシンキでもっときちんと対応できないのか、こちらはお土産などもでてこないかもしれないのだぞと、その男性は延々15分ほど話し続けた。でもそもそもこれはクレームを受けた係員のミスではないし、ヘルシンキの担当者をここで責めても声は届かない。届かなかった荷物はどうがんばっても今は出てこない。わたしも疲れた子どもたちを待たせて並んでいるのだし、係員の女性もこのクレームのせいで楽しい気持ちで働けなくなるし、それにだいたいこの男性はこれを言うことで何か良いことがあるのだろうか。後ろに並んでいた関係上、別に聞きたくもないクレームを聞きながら、このクレームは誰得なのだろうと疲れた頭でぼんやりと考えていた。

その時にふと思い出したのが、わたしが以前対応していたクレームだ。昔、旅行関係の仕事をしていた時に、コペンハーゲンの空港やホテルに到着した団体旅行者のツアーコンダクターの方々から様々なクレームを受けていた。「ご夫婦のベッドをツインにしてほしいと言っていたのにダブルになっている!」「バスタブのある部屋にしてくれと希望を入れていたのにバスタブがついていない!」などなど、それを日本語で現地採用のアシスタント(わたし)に伝えてこられる。それをわたしは現地スタッフに伝えて、こちらの要望通りに変更を依頼することが仕事のひとつだった。

仕事を始めた当初はわたしもテンパっていて、クレームを受けた時と同じテンションで不満を伝えていたのだけれど、あまりうまくいかなかった。そしてあるときハタと気付いた。「これってここまで怒りのエネルギーで伝えなきゃいけないこと?」

国を超えて、時差を超えて、言語をまたいで多くの人々がリレーをしてつないでいる仕事でミスが出ても、それが人の命に関わることでなければ、ミスを穏やかに指摘して、こちらの要望を再度伝えなおせば良いだけのことではないかと。そう気付いてからは、(きっとたくさんのお客さんを一人で預かる関係上大変な思いをされている)コンダクターさんのクレームを、そのまま伝えることをわたしは止めた。いったんそれを受け止めたあと一呼吸おき、現地のホテルや空港係員に「実はね」とできるだけ普通の話し方で事情を伝えるよう試みた。すると相手も、あらそうだったのと穏やかに受け止めて、できる限りの対応をしてくれる。イライラを右から左に流すような伝え方をしていた時は、相手も臨戦態勢でこちらの空気を受け取り、言い訳だったり、苦々しい顔で対応していたけれど、穏やかに伝えると、受け手も穏やかに対応してくれる。当たり前のことだけれど、同じ結果を得られるなら、穏やかに、にこやかに仕事ができた方が誰にとっても良い。

デンマークの若者が約束をすっぽかしたり、自分たちの出す騒音に無頓着だったりするので、わたしは若い頃そういう彼らが苦手だった。今でもそういう声をネットで見かけることがある。約束を守らない、人に迷惑をかけているのに罪悪感がないということは、日本人がイラっとするポイントなのか。イラっとさせられるとその負の感情を相手にぶつけることを、なぜか正当化しようとする自分がいたのだけれど、それをしても相手は柳に風で、なんでこの人こんな怒ってんの?という反応だった。日本だとクレームは粛々と受け止めてもらえたけれど、こちらはそういうテンションで持っていっても効き目はないのかと一人で怒りながら思っていたことを思い出す。

「客の要望を満たしていない」とか「人に迷惑をかけている」とか、そういうことが起きると、クレームという形で表現することが日本では多かった気がするのだけれど(今もそうですか?)、こちらで暮らしていて、コミュニケーション方法がちょっと違うなということを学んだ。

「約束していても相手は忘れることがある」「自分たちが楽しい時間を過ごしているときは、他者への配慮を忘れることが多い」日本語で書くと「それってちょっと…」と思いたくなるようなことかもしれないけれど、要するに、人は自分のことしか見えていない時がある。それをまぁ良いよねとするのもありだし、それが不快であれば、先に対策を講じたり、あるいは不快であることをただ淡々と伝えれば良いということらしい。「わたしはこうしたい」「わたしはこう思う」がいつも察してもらえるわけではないローコンテクストな文化では、自分が思っていることを相手に期待しない。期待しないから、伝える必要があり、伝えるときはニュートラルに伝えれば良い。それは、相手と自分が違うことを認めることであり、互いへのリスペクトでもある。

自分の気持ちを察してくれることを期待する気持ちがあるから、それがかなわないと不満としてクレームという形でコミュニケーションをとるのは、もしかしたら相手への過度の期待や甘えだったり、無意識の中で作られた上下関係をもとにしたコミュニケーションだからではないかと思う。もし、お互いが違う人間であり、誤解やミス、考え方の違いがありうるという前提があれば、何かが期待通りでなくてもそこに怒りやフラストレーションは感じないのではないか。そして、相手に完璧を求めないということは、自分も完璧でなくても良いということで、自分に返してみると、あらそれって結構生きやすくて良いじゃない?ということになる。少なくともわたしにとっては、とても生きやすいと気づく。

とはいっても、自分の苛立ちにまかせて不満をぶちまける人がこの国にはいないかというとそうではないですということは付け足しておかなくてはいけない。IKEAで、ある女性がトレーラーが使えないことで、若い女性担当者を追い込んで泣かせてしまった現場に居合わせたことがあったが、それはそれは不穏な空気がその場を覆っていた。周りで支払いを待っていたすべての人が顔をしかめ、下を向き、赤ちゃんは泣き叫び、子どもたちは待ちくたびれて不機嫌だった。そしてその女性は自分の不満をぶちまけただけで、新しいトレーラーも借りられず(すべて出払っていたので)、何一つ得ることなく帰っていった。その後、だれかが突然、何か面白いことを言った。突然皆がパっと顔を上げ、互いに笑顔になった。そしてまた、新しい係員がにこやかに次の客の対応を始めた。やはり不穏な空気でのコミュニケーションは耐えられないよね、そう思った出来事だった。

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さわぐり

デンマークで暮らして16年、公共図書館と学校図書館で働いて7年が過ぎました。北欧の絵本のこと、子ども図書館のことから、子育て、教育、社会のことなど、読んだり聞いたり感じたことをあれこれ書いています。 アイコンはおおえさきさんhttps://note.mu/oh_yeah_saki

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