そばが食いたい

「そばが食いたいなぁ、そばだよ。そば」
 そう夫が言い出したのは、大晦日の夜。
 大掃除もおせちづくりも終えて、二人でテレビを見ているときだった。私は歌唱する女性歌手を見て、それから時計を見た。後四時間で私たちは新年を迎えることになる。
 私は呆れながら言った。
「そばって、食べたじゃないですか」
「食ったけど、あれはそばじゃない。生をゆでるのが嫌だって、お前が買ってきたカップめんじゃないか」
 夫は信じられないと言わんばかりにため息をついた。
「そうじゃなくて、ちゃんとしたそばがいい、そば屋のそばだ」
 私はみかんの皮につめをたてゆっくりと剥きながら、心の中でカップめんのそばを擁護する。
「面倒なことを言いますねぇ……今からそば屋ですか」
 夫は大きく頷いた。
「また病院に行ったら、食べられなくなるからな」
 夫はにかっと笑った。
……正月があけたら、この人は入院する。検査入院だ。末期ガンがどこまで体を浸食しているのか検査して、必要な痛み止めを大量に出される。それだけの話だ。
 病院というのは治療する場所なのだと、ここ最近身に染みてよく分かる。治療の施しようもないという夫は、病院からも状態が悪くなったり、検査以外では入院を拒まれている。検査入院の間に何もなければ、また夫は大量の薬とともに、帰ってくるだろう。この人が死ぬときはきっと私が見守るのだろう。私と夫の間に子供はいるが、帰省は来年になると連絡があった。
 夫はそばを食べるということに固執していた。
退院したら、いくらでもおいしいそばを食べられるのに。普段はスーパーの特売の総菜を、うまそうに食べているのに。年越しそばはきちんとしないと、納得が出来ないらしい。
「食べれるの? そば」
「食えるよ」
「さっき、ほとんど残したのに」
「旨いそばなら別だ、あれはまずいから駄目なんだ」
「ほんとぉ?」
 私は夫をじろりと見た。夫はずいぶんと細かった。
かつては中年太りでつきだしていた腹は、膵臓ガンの切除をきっかけに、みるみる引っ込んでしまった。
 ほっそりとした顔は、若いうちは格好良いと思えたが、今では病的なモノにしか見えない。ほんの少し前まではたぬきのようにまるまるとしていたのに。
 自然と別の方向を向いてしまった。
「外は寒いわよぉ」
 夫はむっと眉を寄せる。
「お前面倒くさいんだろ、出かけるのが」
「そんなことはありませんー」
「嘘だろ」
 夫は私からみかんを取り上げようとして、私はさっと身をかわした。
「私は疲れているの」
 今の夫には身体的に負ける気がしない。
「俺だってそうだ」
「……あぁ、そう」
 知っている。彼はこうして私といるだけでも、疲れるだろう。生きるだけで体力がなくなり、神経が磨耗するだろう。病人らしくと言わないが、ふとんに横になっている方が楽なはずだ。それでもそばが食いたい。
 私はみかんを一房口に放りこんで、大げさにため息をついた。
「しょうがないわね、行くわよ。……行けばいいんでしょ」
 すると夫は表情がひどく曇った。行きたいと言っていたのに、人が行くと言ったら、途端に小心者が表に出る。普段は悪びれない夫が、おずおずと自分を見た。
「何」
「その悪いんだが……金がない。頼む」
「分かってますよ。それくらい」
 私が事もなげに言うと、夫は急に安心したのか、骨が浮き出るであろう薄い胸を張った。
「元気になったら稼いでやるよ」
 私はからからと笑った。
「ほんとね、元気になって下さいよ……いいかげん」

 家を出ると寒風が頬を通り過ぎていった。はぁと大きく深呼吸すると、冷たさが胸の奥へと行き渡る。
 夫は私の腕を支えにして歩き始めた。身を寄せ私の腕に腕を絡んでくるので、夫の体重がずんと体にかかってくる。二人一緒に歩くのは未だに下手くそだ。歩きづらくてたまらない。結婚して三十年後に、ここまで夫と寄り添って歩くとは思っていなかった。はじめは寄り添いあっていた。だが二人の間に、やがて子供が挟まるようになり、子供が自立すると、空気が挟まった。関係が悪かったわけではない。ただ寄り添うなんてことを、考えなくなった。飼っていた犬にべたべたとしていたが、夫とそう言うことをする自分が想像できなくなっていた。かつて特別だと信じた関係が、結婚生活を続けていくうち「当たり前」になり、自分たちが今お互いをどう思っているのかなんて、忙しい日常の前で、ろくに考えなくなった。
 日常は忙しなくすぎていく、反復していくように見える日々は、色々とないがしろにしていったのも事実だろう。いつしかそれが三十年という年月になった。私と夫はそれを何でもないことのように感じていた、深く考えることは少なかった。けれどそれは幸せだろう。深く考えることではないのだ、こういうことは。でも今は……お互いのことを考えて何も言えないでいる。
 自分たちが死なないなんて思っていたわけではない、でもその終わりをちゃんと理解するなんて、こうなるまで出来なかった。始まるモノはいつかは終わる、その事実を分かっていなかった代償は心を重くさせる。しん、と音もなく積もる雪のように、あるいは盆にひっくり返した水のように、心に暗い海が広がるのだ。
 夫はどれだけの余命なのか、聞いてはいない。けれども予感はある。夫は来年年越しは出来ないだろう。父親の命が短いことを知った子供は、その余命を余生を大事にしようと言う。死ねば残るのは白い骨だけなのだ。骨壺にいれるとき、骨は砕かれ小さくなる。砂塵のような骨は手のひらからこぼれ落ちるのみだ。それは哀しいだろう。ぬくもりがあるうちに、ぬくもりのある日々を……。
 その灯火のような思い出が救いになると、子供は思うのだろうか。でも私は、それに違和感があるのだ。いつもの日々が、特別なモノに変わってしまうだろう。この人との日常は、けして特別なものではなかったのに。だから私は何もしなかった。特別な言葉も感謝も言わなかった。夫は少し甘えん坊になった。やりたいことを口に出すようになった。でも難しいなと思ったことは容赦なく却下して、いいおじさんが何をしてるのだと憎まれ口をたたいた。
 日常を続けよう、残り少ない日々だとしても日常を続けよう。特別なんてシロモノにしたら、夫はお腹を壊してしまうかもしれない。町内会の表彰ですら、びっくりするほど緊張してしまう人なんだから。
 
 効果音をつけるとしたら、こんな音がつくだろう。
えっちら、おっちら……どこか間の抜けた効果音が、私と夫の歩みにはぴったりだった。夫は無言だった。元気なときに比べて足取りが異様に重い。時間をかけて歩いていく。かなりきついのだろう。夫は窮すると、黙りだす。おこづかいを使いすぎたとか、息子に事実という名のきついことを言われたときとか。
「帰ろう」と私は言わなかった。もくもくと歩いた。だってそうだろう。こうしなきゃいけない。
 こうして出来る、夫が選択したことを止めたら、後で盛大に愚痴をはくだろう。……たまったもんじゃない。
 夫は私に身を寄せてきた。よりかかりが重くなる。
 私はため息を堪えて歩いた、何でこうなるのかと無性に腹が立った。そうしているうち自販機が目に入った。
 私は言った。
「あそこ、お汁粉あるわよね」
「は?」
 夫は目を丸くした。ころころとしたどんぐりのような眼を大きくした。
「あそこに寄りましょ。寒くてしょうがないの」
 私は自販機でお汁粉を買った。夫にはお茶を買った。自販機から転がり出た缶を渡す。夫はちびちびと飲み出した。缶から湯気が出る。白い湯気は、夫のほっそりとしすぎている顔を優しく包んだ。
「そば屋はまだか」
「まだよ」
「こんなに遠いのか?」
「……遠かった」
 夫は眉をひそめた。
「まいったな、まいった」
 薄い唇を噛む。
「足がもたん」
「……そうなの」
「足がずるずるなんだ、まったくまったく」
 念仏のように夫は自分を呪う。そして目をつり上げて私を見る。
「そば屋はまだか」
 その怒りを含んだ声に、隠しきれない弱さを感じてしまう。私は手先を隠す。少し震えていた。
 夫の食べたがっているそば屋はまだ先だ。いつも出前をしているが、大晦日にかぎっては予約をしなければいけないだろう。だが駄々をこねる子供のように、顔をゆがめる夫を放って予約にいけない。そばだ、そばを探せ。
 私はあたりをぐるりと見回した。
そばがないことで、ここまで大げさな感情になることはないだろう。でも夫の悲壮な肩を見たら、食べさせたいと思った。そばを食べさせたい。
 するとその祈りが通じたのか、それとも偶然が微笑んだのか、私はある張り紙にすぅと目が吸い寄せられた。

「年越しそば、あります」

 暖色の扉に貼られた紙。それは最近オープンした喫茶店の扉についていた。私は声を飛ばした。
「あなた」
「なんだよ」
「そば屋じゃないけど、そば、ありましたよっ」
 私は夫の腕をつかんだ。肉のそげ落ちた、骨の感触が如実に伝わる腕だった。私はそれに驚きそうになり、それから腹に力を入れた。これが今の、私の夫だと認識した。
 ゆっくりと、でも半ば強引に喫茶店へと連れて行った。
 喫茶店には老人とその孫のような年頃のウェイトレスがいた。店は大晦日でも遅く開けているようだが、肝心の客は私たち以外にいなかった。
 息をあげ、ぐったりとし始めた夫に変わり、私は赤茶色の髪のウェイトレスに注文した。
「かけそば二つ」
 注文を復唱する、すこしチャラついた外見のウェイトレスだが、その声音は澄んでいて、聞き取りやすかった。するとその声を聞いた旦那が言った。
「この店、天ぷらがつけられるじゃないか」
「天ぷらって、食べられるの?」
「食べるよ、すごいな、エビが食べられるぞ」
「胃が受けつけないでしょ、あなた」
 夫は私の言葉を無視して、天ぷらを注文した。その窪みはじめた眼は、暑い夏の日にアイスクリームを与えられて喜ぶ子供のように、無邪気に輝いていた。
 馬鹿だなと思った。好きなモノは好きという性分、変わらないなと思った。少しこみ上げるものがあった。夫は変わらない、それが嬉しかった。病気でもあいかわらずだ。
 私は咳払いをする。まったく世の中はうまく出来ている。どんな惨劇、悲劇の元でも、いつでも始まりの朝を迎え、終わりの夜が訪れる。何もかも順当だ。
 私はそばを食べ終えると、コーヒーを頼んだ。深い香りを楽しみながら、コーヒーのコクと苦みで、眼を潤ませようとする気持ちを吹き飛ばした。
 頬をあげて旦那は言った。
「食べきれなかったら、食べてやるぞ」
「はいはい」
 私は旦那の顔を見なかった。
 結局彼はそばをほとんど食べられなかった。やはり食べ物を食べるという行為自体が、辛くなってきているようだ。夫の体は無言で雄弁な悲鳴を上げ続けている。
 夫は衣からはずした、エビの身を少しだけ食べた。
「ほっそいなぁ」
「じゃあ、来年は……もっと太いエビの天ぷらを食べましょ」
 私は残った天ぷらを大仰な仕草で食べた。夫はその様子を見て、小さく笑った。
「ゼッタイ、お前がびっくりするようなエビを食ってやるよ」
 ずいぶんと尊大な態度だった。私は呆れながら口を開けた。
「その言い方……エビを一人で食べるつもり?」
「分けて欲しかったら、もっと俺を丁寧に扱え」
「はいはい」
 私は濃い色をした汁を啜った。おいしいが、少し鰹の出汁が強かった。

 勘定を払い、外に出た。寒気が風となって、通り過ぎていく。頬がびたびたと冷えていくのを感じた。時間はずいぶんと経っていた。除夜の鐘が鳴り始めている。
 夫は目を細めた。
「来年だなぁ、もうすぐ……」
「来年よぉ、また大変だわ」
「俺はいつまで生きれるのかなぁ」
「……あんたはいつまでも生きてそうよ」
 夫は少しくすぐったそうに笑った。
「おまえも死にそうにねぇな」
 私も彼の表情につられて、小さく吹き出した。
「そうね……そうよ、もっとやることがあるんだから」
 そうして私と夫は何ともなしに、夜空を見た。二人の視界に入った北極星が、白銀の輝きを放っていた。

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