生きていてもしょうがない。

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 理子は押していた自転車を止めて戸惑っていた。
誰もいない路上。目の前には夏のはじめにふさわしくない黒のぼろぼろの防寒着と灰色のズボンをはいた無精ひげのホームレスの男が倒れている。時刻は真夜中の三時半。理子は新聞配達をしている最中のことだった。

 理子は大量の新聞を積んだ重量のある自転車がひっくりかえらないように気をつけながら路肩に寄せた。男に恐る恐る声をかけた。
「あの。あのぅ、大丈夫ですか」
 理子の小声は男には届いていないようだった。男は白い顔で眉間にしわを寄せて目をつむっていた。
 揺すったほうがいいのだろうかと迷った。手を伸ばして止める。この人、お風呂にはいっていないよね。鼻につく垢の臭い。理子はためらい男に触れることが出来なかった。
 救急車、いや警察にでも保護をお願いしたらいいかもと思いついた。しかし携帯電話をポケットから取り出したところで、はっと目を見開いた。
 もしここでこの男にかまっていたら、仕事が遅れてしまう。仕事が完遂出来ない。それは困ることだ。お客様は新聞が毎日届くものだと信じている。自分が望む時間に届くように指示を出すお客様もいる。
 困ってしまった。理子は深く息をつき、携帯電話で時間を確認する。迷っていたら時間が三十分、過ぎようとしていて、肩がびくんとはねた。四時十分までにポストに新聞を入れてくれというお客様を思い出した。
 理子は自転車に乗って走り出す。頭の中は男のことは消え去り、仕事をすることだけでいっぱいだった。急がなくちゃといけない。自転車を力強くこぎ出した。

「そりゃ人として正しくないかもしれないけど、仕事をしなくちゃ理子は大学にいけないでしょう」
 大学のカフェテラスで、理子は友達の花梨に今日の自分の行動について話していた。しゅんとして肩を落とす理子に花梨は呆れたように息をついた。
「警察が集まって、保護しているのも見かけたんでしょう。なら大丈夫よ」
「そうなんだけど。すごくほっとしたんだけれど。でも、よくないよね。そういうの」
 時間指定のお客様に新聞を届けた後で、理子は再び男が倒れていた場所と近づいた。すると警察車両と救急車が止まっていて、男性を保護していた。
「だってもし自分がホームレスだったら。ううん。どんな状況だとしても、見捨てられるって悲しいもの」
 花梨は怪訝そうに理子を見た。理子はしょうがないと思った。自分の今日の行動はなんだと思われても仕方がない。花梨はテーブルを指で叩いた。
「だめ、そういう発想だめだよ。理子。甘いと思う。ねえちょっと口の悪いことを言ってもいい?」
「はい。どうぞ」
 花梨は頭を軽く下げて、それからじろりと理子を見た。理子の胸に指を突きつける。
「いるんだよ。生きていてもしょうがないってやつが。そのホームレスだって、誰かにとっての生きていてしょうがないやつだよ。そんなやつを理子が見離したって何も問題ないよ」
「花梨。何言っているの。よ、よくないよ」
 理子は花梨の放言に慌てた。
「理子は私からすればいい子過ぎると思うな」
 花梨は素知らぬ顔でコーヒーを飲み出す。理子はどうしたらいいか分からず、紅茶を飲み出すとポケットの携帯電話が震えた。理子は携帯電話の画面を見て表情を暗くした。父親からの着信だった。

 花梨に断りを入れて、誰もいない場所に移動する。携帯電話をじっと見て息を吸い込む。恐る恐る電話をかけた。父親はすぐに電話に出た。近況を話し合うと、父親は理子に金が必要なんだと言ってきた。今日電気代を入れないと、家の電気が止まるんだよ。母さんが困ってしまうと言ってきた。神妙な声だったが、理子はそれが演技なのではないかと思ってしまった。父親はとても調子のよい性格をしていた。理子と母親はその性格に何度も泣かされてきたから警戒心を覚えずにはいられない。父親は何度も理子からお金を無心していた。
「分かった」
 一分ほど黙り込んで理子は言った。母親が困るのは理子には辛かった。父親の言うことは多分本当だろう。電気が止まるほどに金を使って母親に声を上げられるのが嫌なのだろう。うるさいとまた母親が殴られたら嫌だ。家族の中が波立つのは嫌だ。理子は拳を握った。
 電話を切り、理子は財布を見て気がついた。このまま父親にお金を送れば、新聞の集金業務で使うおつりが用意出来ない。理子は途方にくれたまま花梨の元へと戻った。
 花梨は目を丸くした。
「何、急に顔色を悪くしているのよ」
 身を乗り出して心配する花梨に理子は目線を下げた。
「ちょっとお金が足りなくて」
 ぼそぼそと言うと花梨は財布を取りだした。
「いくら。貸すよ」
「えぇ! 悪いよ。友達に借りるなんて」
「気にしないで。そんな顔色を悪くされるよりはましな話だから」
 理子はしばらく迷い続けたが、花梨からお金を借りることにした。理子が花梨から一万円を借りると、花梨はほっとしたような顔をした。
「でも理子がお金がないなんて珍しいわね」
 花梨は声をひそめた。
「何かあったの?」
 理子は顔から血の気が引くのを感じながら頭を横に振った。そして笑った。
「あの、ちょっと買い物をしすぎちゃったの。ごめんね、心配かけて」
 実情を花梨に言うわけにいかなかった。炭火を飲み込んだような恥の感情に理子の指先は震えた。

 若い頃の父親は、母親にこう言ったそうだ。
「この家の財産は全部俺がもらう。娘にもやらん」
 その言葉通りに父親は放蕩し続けた。
理子は父親に育てられたと思っていない。しかし父親がいないと自分がいないと思うと、切り捨てることが出来ない存在だった。
 五年前、理子が十五歳の時だ。父親の鼻の奥にガンが出来た。同時期父親の遊びはひどくなった。狂っているのでは思うほどだった。いずれ脳に影響が出るというガンを前にして、父親は耐えるでも受け入れるでもなく、逃げてしまった。悲しかった。父親はやけくそにでもなったのか。理子の学校の同級生の母親と関係を結んだ。理子はそんな父親を見るのが耐えられなくなり、高校卒業と同時に郷里を出た。新聞奨学生として働き、大学に通っていた。
 新聞販売店からあてがわれた小さいアパートに帰り、理子はぼんやりとテレビを見た。お金は無事父親の元へと届けられただろうか。母親はちゃんと電気の明かりの下にいるのだろうか。ぐるぐると心配が胸の中を巡り、テレビの内容が頭に入らなかった。
 携帯電話の着信音が鳴ったのはそんな時だった。
理子が携帯電話の画面を見ると母親からだった。今日は家族からの連絡が多い。
「理子。ちょっと話があるんだ」
 電話に出ると母親は強ばった声を出した。母親の話を聞いていくうちに理子の背筋は冷えて、ずんと肺に石が詰まったような重さと息苦しさを覚えた。

 一ヶ月後。理子は新幹線で四時間近くかかる郷里へと向かっていた。仕事と学業の合間縫って休日を取るのに時間がかかってしまった。新幹線の窓から見える青々と広がる稲や強い日差しがまぶしく感じ、理子は目をそらした。携帯電話の画面を見る。留守番電話の記録と複数のメールを何度も見返す。このもやもやは郷里に着けば解決するのだろうか。
 母親の言葉が頭に響く。
「父さんが来週入院するんだ。病気が再発した。もうどうすることも出来ない」
「覚悟を決めないといけないよ。理子」
 覚悟なんてとっくに決めていた。五年前に父親の病気に完治はなく、いずれは死をもたらすと診断されていた。あの時から理子は父親との時間を大切にしなければいけないと分かっていた。人として子として、親は大切にしなければいけない。けれど理子は父親と一緒にいることが耐えきれなかった。同時に家族を裏切る父親を見捨てられなかった。母親のためにと言いながら、理子は父親にお金を渡していた。
 甘いのだろう自分は。いったい何にすがろうとしているのだろうと思う。家族というものをきっと信じているのだ。それを柱として自分を立たせている。家族というものが何か。分かっていないくせに。
 理子は旅行の際、人の話を聞かずに自分の話だけをする父親の姿を思い出した。

 新幹線が到着する駅の側に父親が入院する病院があった。以前父親ががんの切除手術した病院だ。日本一の花火大会が見える特等席だと父親は笑いながら自慢していた。
 理子は久しぶりに見る父親の顔を頭に浮かべた。父親には左目がない。のっぺらぼうだ。鼻も変形している。父親は左目に眼帯を常につけていた。
手術前の父親は年齢に比べて若く見える顔立ちで、笑顔がいいと評判の男だった。しかし父親は手術によって大きく傷ついた顔に心が傷つけられた。家族は何も感じなかった。そうなってしまったのだからしょうがないと受け入れたことが、その事態をしょうがないと思っていなかった父親を傷つけた。理子が父親の孤独に思いを向けられるようになったのは皮肉にも郷里を離れて一年が経った頃だった。
 理子は病室に向かった。
 そして病室に入った途端、息を飲んだ。
父親の顔は更に変形していた。頭にこぶが出来ている。頬は膨らんだ餅のようだった。
「お父、さん」
 かすれた声を出した理子の耳に父親の不機嫌な声が聞こえた。ヨーグルトが食べたいとベッドの横にいる母親に声をかけるが断られ、むくれていた。やがて二人は喧嘩をした。呆然と立ち尽くす理子をやがて母親は気づき、父親に声をかけるが父親は理子を見なかった。
「理子? 理子って何だ」
 理子という名前に心当たりがないようだった。理子は唇を震わせて その場から離れた。階段の踊り場まで行き、動けなくなる。母親が追いかけてきた。
「理子。久しぶり。よく戻って」
「お母さん」
 母親の言葉を遮った。感情が心というコップから溢れ出る。こらえきれない感情に理子は翻弄された。ぽたぽたと床に涙を落とし、理子は言った。
「お父さん。私を見てくれなかった。私のことを忘れちゃったの。私、家族だよね」
 母親から理子の名前を呼びながらハンカチを差し出した。理子はハンカチに顔を押しつけた。涙はとめどなく頬を伝う。
 母親は声をひそめた。
「病気の影響で、頭がおかしくなっているんだ。家族の顔も忘れかけている時もあったり。変な行動に出たり」
 理子は父さんに何かされなかったかと母親に問われ、理子は顔をくしゃりと歪めた。
 留守番電話の記録。父親は理子の知らない女性の名前を呼びながら助けを求めていた。そしてメールで意味不明な単語が混じりながら女性に密会を求めていた。
「何にもない」
 理子は俯いた。父親の素行の悪さは母親はよく知っている。けれど娘に、愛人の女性へ向けたと思われるメールを送っていたなんて言えなかった。理子は誰も傷つけたくなかった。

「理子はお酒はどうなんだ」
 実家に帰り、母親が冷蔵庫を開けながら聞いてきた。突然の質問に戸惑いながら理子は答えた。
「好きなんだけど。すぐに眠ってしまって、全然飲めない」
「寝てしまうのか」
 母親の言葉に理子が頷くと、母親は冷蔵庫からチューハイを取りだした。
「寝る前にいっぱい飲みなさい。朝までよく眠れるように」
 気圧されるような雰囲気の母親に理子は困惑しながら頷いた。

 理子は身を縮ませていた。
大きな声、どなり声が壁の向こうから聞こえてきた。時計を見ると真夜中の三時だ。数人の聞き覚えのある男の声と母親の言い争う声が聞こえた。理子は体育座りをして頭を抱えた。酔いはすっかり醒めていた。
 理子の目の焦点は定まらない。聞こえるのは母親への罵倒と借金返済を迫る声。きっと父親が母親に隠れてつくった借金のことだろう。父親は家の財産を食い尽くして、その上借金を重ねていた。勝手に母親を保証人にして。
「お前達の責任だ! 体でも使ってでも何とかしろ!」
 荒々しく扉を閉める音がして、数人の男達は立ち去った。理子は寝室を出て、隣の部屋に向かった。
 母親が疲れた表情で座っていた。
「お母さん。今の声。お父さんの叔父ちゃん達だよね」
「理子。聞いていたのか」
 理子は頭を下げた。先ほどの親族の声が鋭く胸に突き刺さる。理子は胸をさすった。
「うん。全部聞いてた。借金返せって」
「勝手なものだ。父さんが元気な時はこの問題に見向きもしなかったのに。死ぬと決まったら、私たちに全てを押しつけようとする」
「お母さん。大丈夫?」
 理子は母親の目を見た。母親の目は大きくなり、ぎらぎらと光っている。理子は伸ばしかけた手を止めた。
ざわざわと不安で心が波立った。理子の膝から力が抜けた。尻餅をつく。母親がこんな怖い目をしたことはなかった。理子は強く手を胸に当てた。母親は理子を見ると、手負いの獣のような怖い目から人間の目に戻った。理子の肩を優しく撫でた。
「大丈夫。理子をちゃんと守るから。勝算はあるの。お母さんに任せなさい」
 母親の声は優しかった。瞳を大きくして床の畳を理子は見た。この状況を解決する手段はどこにあるのだろうと思いつつ、母親を信じるしかなかった。

 大学は夏休みに入った。理子は課題と新聞配達の仕事に追われていた。仕事のミスが増えていた。新聞の入れ忘れを必ず毎日一件起こしてしまう。理子は自分の集中力が途切れていることに驚いた。困ってしまった。たとえ父親が死にそうになり、母親が親族に追いつめられたとしても、仕事はちゃんとやらなければいけない。生活費を稼がなくてはいけない。新聞販売所の所長の説教を聞きながら理子は自分の仕事の不出来に申し訳なくなり、口の中がからからに乾いた。理子は顔色を悪くして何度も謝った。

 大学の図書館に本を借りにきていると、理子は花梨に会った。花梨は片手に本を抱えて、くたびれた顔をしていた。
「ひどい顔、どうしたの?」
 理子が心配そうに訊ねると、花梨は困ったように眉を下げた。
「ねぇ、理子。あんたどんな死に方したい?」
 理子は思わず目を丸くしてしまった。
 大学のカフェテラスで話を聞く。花梨は大学の課題で「自分の理想の死に方について」というテーマのレポートを書かなければいけなくなったと言った。
「そんなの考えたことないに決まっているでしょ。まだ二十歳なんだから!」
「花梨は自殺とかも考えたことないの?」
「マジではない。理子はあるの?」
「考えたことない」
 理子は頭を横に振った。正直に言えば、考える暇もなかった。父の浪費で理子の家の家計は火の車で、生きるのだけで精一杯だった。背中が常に圧迫されるような毎日だった。生きるだけで精一杯。死なんて眼中になかった。人生の意味を考える暇もない人生。ふと空しさを覚えて理子は自嘲した。
「眠るように死ねたらいいかも」
暗い顔で呟く花梨に理子は困ったように笑った。

 アパートに帰った。友達の前で愛想を振りまいたが、理子の心は重かった。花梨の話を聞いた時からずっと喉に棘がささったような痛みと気持ち悪さ、居心地の悪さ。理子は喉をさする。テレビを見ていたが内容が頭に入らなかった。
 何かを食べればすっきりするかもしれないと立ち上がる。リモコンに手をかけてテレビを消そうとした時「若くして病気で介護を受けている男性やその家族を追う」というテロップが流れた。理子の中で記憶が蘇る。
 声を漏らして理子は手で顔を覆った。

 高校三年生の時だった。長期に入院していた父親は退院し、ガンも縮小したということで遊びに出かけていた。その日、父親の帰りが遅かった。夜の十二時過ぎに帰ってきた。理子は居間で一人、テレビを流しながらカード占いに夢中になっていた。占いの結果と現状をすりあわせて、自分なりの解釈を出すということが楽しくてしょうがなかった。
「理子。何をしているんだ?」
 父親はくりくりとした中年の男性にしては可愛らしさを覚える単眼を理子に向けた。理子は持っていたカードをテーブルに置いた。
「カード占いをしているの。結構当たるってクラスで評判なんだよ」
 スーツの父親は理子の言葉ににやっと笑った。
「へぇ面白い。理子、俺のことを占ってくれよ。俺の未来はどうなるのか」
「え、あぁ、うん。お父さんの未来ね、分かった。やってみる」
 理子は集中して、カードを混ぜた。
カードを並べて、一枚一枚めくる。意味を考えて理子は神妙な顔で口を開けた。
「自分の近くの者と協力し、常に自分の姿を鑑みれば運は開かれる……協力が大事ってカードは言っているよ」
「そうか。協力、鑑みる。おお、覚えておくよ」
「お父さん。すごく大事だと思うからちゃんと覚えてね」
 理子は父親に真っ直ぐな視線を送ると父親は苦笑した。
「母さんみたいな怖い顔をしていると、理子もしわだらけになっちゃうぞ」
 理子は頬を膨らませた。
「茶化さないでよ。真面目に言っているんだから」
 父親はにやにやと笑う。畳にどっかりと座った。スーツの父親は何度見ても馴染めなかった。手術後、父親は平日でも休日でも遊園地に出かけてもスーツを着続けた。どんな場所でも通用するからと言い張った。外見だけを見れば父親は普通の勤め人だ。父親は自分の恥ずかしい身をごまかせることが出来るスーツという鎧に執着した。
 執着はしているが父親のスーツの取り扱いは適当だった。上着を脱ぐこともなく頭に手を当て横になる。
スポーツニュースを見る父親の目尻のしわの深さに驚き、理子は目をそらした。
 番組はスポーツニュースからドキュメンタリーに変わった。若くして難病にかかり、家族の介護を受ける男性の苦悩を描いたものになった。
 父親はぽつりと言った。
「情けないよなぁ。下の世話も面倒みてもらって、死にたいのに死に場所を探すことも出来ないなんて」
 理子は頭を傾げた。
「お父さんはこういうの、嫌?」
 父親はのんきな声を出した。大あくびをした。
「あぁ嫌だなぁ。どんなに苦しくても死にたいと思った時に死にたいよ。世の中どうにもならないことばかりなら、せめて死ぬ瞬間ぐらいは自分の思い通りにしたいな」
 理子はカードを整理しながら父親の言葉に感心した。父親は理子の顔を一瞬見る。むくんだ頬に紅が差した。
「自分の人生。自分の思い通りに生きたいもんだ。そうじゃなきゃ格好悪いだろ」

 顔を洗う。冷たい水を顔に叩きつける。理子の胸の内はぐるぐると黒い淀みで満ちていた。何だろうこの感覚は。
 気持ち悪い。視界が狭まる。頭の中がぐらぐらと揺れた気がした。理子は頭を押さえながら布団に横になった。
 真綿で喉を絞められるように息が詰まる。理子は顔を歪めて意識を失った。夢を、見た。

 父親が病室のベットに横になっている。健やかな呼吸で眠っている父親に誰かが近づく。理子は目をこらすが、誰が近づいているか分からない。黒いモザイクが全身にかかっているのだ。静かに近づく「誰か」はきれいなメスを持っていた。刃先は美しく輝く。理子は目を開いて、声を上げるが「誰か」は動きを止めない。泣いているのか笑っているのか呪っているのか。モザイクで全てを隠され、感情が読めない「誰か」はそっと父親の首にメスを押し当て、そのまま引いた。
 理子は叫んだ。

 母親からの電話が続いた。母親は父親がいなくなった後どうするかということを念入りに考えて準備を始めていた。しかし理子にとって、父親がいなくなったらという前提で語られる母親の話はまるでおとぎ話だった。父親が亡くなるには後数ヶ月はかかると母親から聞かされていたからだ。数ヶ月もあの怖い声に脅かされて母親は大丈夫なのだろうか。理子は母親を支えるべきだと思った。けれど現実、理子が母親の側にいても何も出来ないことは悟っていた。理子はあの夜、怯えていた。きっと二度目でも三度目でも理子は怯えるだろう。恐怖が理子の心を屈服させ、言いように操られると理子は分かっていた。理子は何時間でも母親の言葉を聞き続けた。あまりの内容に心を削りながらも、聞くのが義務だと言い聞かせた。心にひびが入り、どんどんと広がっていく。理子は耐えた。歯を食いしばった。

 そんな日々が二ヶ月続いた。季節は九月になっていた。夏の盛りと変わらない残暑やストレスで体重が数キロ落ちていた。正直何もせずにただ静かに過ごしたかったが、生きるためには理子は新聞を配達しつづけなければいけなかった。大学に行くという選択肢は間違ってはいないと思いつつも、経済環境がもう少し良ければと苛立ち、肌に爪を立てた。
 理子は仕事を終え、取り込んだ洗濯物を畳んでいた。
電話がかかってきた。理子は深く呼吸をして電話に出る。
 母親だった。理子の背筋が伸びる。今日はどんな話を聞かされるのだろうか。
 母親は理子が電話に出ると、低い声で言った。
「理子。帰ってこい。父さんが危ない。大事な話がある」
 理子は目をつむった。予定より早いことに驚いたが、病気の急変があったのだろう。
「分かった。すぐ帰る」
 理子は電話を切ると、すぐに仕事の調整を始めた。
香典を用意するとしたら、どれくらいが相場なのだろうと考えた。

 新幹線から降りて病院に直行した。息を切らした理子は父親の姿を見て言葉を失った。怪談のお岩さんのようだった。大きなこぶが目を隠し、頬ははちきれんばかりに膨れ、口から舌が飛び出していた。痰が絡ないようにするためか、首に小さな穴があけられていた。たくさんの機械がベッドの周りにあり、父親の白い腕に点滴がつけられていた。
 よろめく理子を母親が支えた。
「挨拶しなさい」
 理子は弱々しく頷いた。
「お父さん」
「理子か」
 くぐもった声を父親は出した。父親は目を隠すこぶを押し上げて、つぶらな瞳を理子に向けた。照明の光を反射しているのだろうか、きらきらしたきれいな瞳だった。
「よく来たな。大変だったろう」
 父親の言葉には常に自分を飾り付けたいという想いがつきまとっていた。しかし父親の今の言葉にそんなものは微塵に感じ取れなかった。
「大丈夫だよ。お父さんの体の調子はどうなの?」
「動けないけど、前より楽な気がする。薬のおかげだな」
「そうなんだ」
 たくさんの鎮痛剤が使われているのだろうか。父親はとても穏やかだった。理子は逆に落ち着かなかった。本当に目の前にいるのは父親なんだろうか。
 母親が肩を叩いた。
「お医者さんが処置するそうだ。理子、病室を出よう」
 理子は頭を下げた。
 父親の症状は進んでいる。けれど今すぐ命を落とすような気がしなかった。
 母親はどうして父親が危ないと理子の危機感をあおるようなことを言ったのだろう。理子はつま先をぎゅっと丸めた。
 人気のない病院の待合室に理子は連れてこられた。
母親はいつになく厳しい目で理子に向けた。理子は母親の目の奥に真っ黒な光が見えた気がして戸惑った。
「理子。父さんを見てどう思った?」
「どうって。やばいなと思ったよ。何だろあの顔。特殊メイクをした人なの」
「顔だけじゃない。病気の進行で痛みがすごいんだ。薬でごまかしているが、薬が切れると大暴れをしてしまう」
 拘束しても、拘束具を壊しそうになる勢いで暴れると母親はため息をついた。
「そうなんだ」
 理子は途方にくれる。この状態がこれからまだ続くとしたら、理子と母親はいったいどうなるのか。
 理子の気分は沈む。母親は口を開けた。
「母さんは考えたよ。これからどうすればいいかって」
「そう、すごいね」
 理子は投げやりに言葉を吐く。母親は気にしなかった。
「皆が救われる方法だよ。お医者さんが教えてくれたんだ。理子、父さんに薬を投与しよう。鎮痛剤で死ぬまで眠らせよう。薬の影響でいずれ心臓の動きが弱まるんだ。そうすれば数ヶ月もかからずに済む」
 理子は愕然とした。
「何それ。お父さんは知っているの。お母さんとお医者さんがそんなことを考えているって」
「知らないよ。知ったら、拒否される可能性がある」
「きょ、拒否するよ。お父さん言ってたから。自分で自分の死に時を決めるって。というかお母さんだったらどう思う? 自分の命のリミットを他人に決められるって。そんなのよくないよ!」
「じゃあ理子は、死ぬまで父さんが苦しめるのが正しいって言いたいのか」
「それは……。ごめんよく分からないんだ。だけどよくないよ。言いたくないけど殺人みたいな気がする」
「殺人じゃない。救済だ。これで皆が救われるんだ」
「皆?」
 理子はまじまじと母親を見つめた。母親の心中を察して、唇を震わせた。
 母親は本当に皆を救う方法だと信じているのだ。父親が今死ねば、母親は自分と理子を救うために準備していたことを動かせる。父親は無為な苦痛に味わうことなく死ねる。もう何もやれずベッドに縫いつけられたように横たわる父親は死ぬ以外のことはもう出来ないと思っている。
 母親の言っていることは手前勝手だ。父親が聞いたら勝手なことを考えるな、女のくせにとでも言いそうだ。
 理子は何も言えなかった。母親の確固たる正しさの前に殺人だの、よくないだのという言葉はあまりにも薄っぺらく感じた。理子は床に手をついた。喉が鳴った。
「理子の決断で。薬の投与をするかどうかは決める。理子は父さんのことをどうしたい?」
 ひんやりとした空気が待合室を包んでいるのに、理子の頬に汗が伝った。
「私は……」

 すぐに理子は答えを出すことが出来なかった。吐き気が襲ってきた。理子は顔色を青くして、口元を押さえた。理子の異変に母親は気がつき、看護師を呼ぶ。
 ぐるぐると視界がまわる。理子は瞬きを繰り返した。
 入院患者の家族用に使われる休憩室のベッドで理子は横になった。母親は医者に呼び出され、理子は一人になった。理子はほっとした。母親が側にいたら理子はプレッシャーを感じて動けなくなっただろう。理子は疲労が体を押しつぶそうとしているのを感じ、目をつむった。眠りについた。

 真っ白い壁の病室に理子はいた。目の前にメスが落ちていた。理子は夢を見ているのだと分かった。
 理子はメスを拾う。きらきらと光に反射する刃先。以前見た夢で「誰か」は父親を殺そうとしていた。
 父親をこのまま放置したら自分はどうするんだろうか。父親が苦しんで、それを嬉しがる自分はいない。けれど安らかに眠りにつき、そのまま……と考えると怖気が走った。それは、私が許せるのだろうか。以前理想の死に方で花梨は眠るように死にたいと言っていた。その死に方はいいだろう。死ぬまで苦しいなんて誰も望んでいない。
 だけど……そうしたところで。理子は唇を噛んだ。
父親に苦しめられた「理子」はどうなるのだろう。
 安らかな死で父親の魂は救われても、父親に人生を貶められた自分の魂はどうなるのだろう。

 誰も、誰も救ってくれないじゃないか!

小さい頃から理子は金銭面で苦しめられてきた。父親の放蕩でお金は全然なくて、食事も事欠くことも珍しくなかった。父親のことで指をさされ、噂され、それでも必死に育ててくれた母親は報われなかった。
 父親はいつも理子を都合良く利用してきた。
理子が働いてお金を稼ぐようになったら、何度もたかった。
 父親は知らないだろう。
 足下が崩れ落ちて、奈落の底に落ちるような絶望を理子が味わってきたことを。父親の存在が理子の心をどれだけ粉々にしてきたのかを。
なんて都合のいい立場なんだ。今、理子は泣くことも出来ないほどに追いつめられているというのに。
 理子は低くうめくような声を出した。
メスを握った。強く、強く。
「生きていてもしょうがない」
 理子は吠えた。
「生きている価値がない!」
 黒いモザイクがかかった「誰か」が理子の手を握った。強くメスを握りしめたために血色が変わった理子の手を優しく撫でた。黒いモザイクがとれる。
 死人のように不気味なほどに肌が白い「理子」が、赤い唇を奇妙に歪ませて笑っていた。
 白い理子は理子の肩を抱き、理子の中に入ってきた。理子の中で勇気が湧いた。
殺してやる。
 たとえどんなに優しい死に方でも、呪いのような想いを受けたのなら、そいつはきっと救われない。殺意で心臓を止めてやる。

 目が覚めた。冴え冴えした意識で、理子は見える景色がいつもよりくっきりと見えた。頭は活性化していた。興奮していた。理子は目を大きくした。喉が乾いていた。
 母親が休憩室に入ってくる
「理子。起きたの」
「お母さん」
 理子は言った。
「お父さんに薬を入れて。もう、全部終わらせよう」

 夜になった。医者から薬を入れたと告げられて、理子と母親は病院を出た。母親の車に乗って、実家に向かった。月の光が照らすだけの夜道は本当に暗かった。しんと静まった闇が車の中に入ってきて、理子を見つめている気がした。理子は何度も深呼吸をして自分の妄想を取り払おうとした。ぎょろりと血走った目に見られている気がした。
 父親はおしまいだ。いずれ薬は心臓を弱らせ、止めるだろう。殺意を込めた理子の決断がそうさせた。感触のない殺人を起こした理子は酩酊しているような気分だった。あの白い理子はいったいどこに行ったのだろう。白い理子がさっきまで中にいた。けれど今はいない。理子はすぅと熱をひくのを感じた。むしろ寒気を覚えて自分を抱きしめた。
「父さんはこれで救われる」
 母親は言葉をかけた。
「家族として私たちは最善を尽くしたんだから」
 理子はびくつきながら何度も頷いた。
「そうだよね。悪くない。私は悪くない」
 じわじわと指先がしびれる。理子は唇を噛んだ。怖くて怯えてわめきたくなる衝動を必死に押さえた。理子は瞬きをした。
 どうしてこんなに恐ろしいと思ってしまうのか。
 正しいことをしたのに。
 父親は悪い人なのに。
 理子の心の叫びに誰も答えなかった。神様も傍観していた。

 翌日、理子は郷里を旅立つことにした。
一刻も早くここから出たかった。母親は最後に父親に会っていこう、もう眠っているから反応はしないと思うけどと言った。
 正直父親に会うのは嫌だった。このまま別れて、棺に入った父親と再会したかった。しかし礼儀としてこのまま別れるのはよくないだろう。理子は苦いものを噛みしめるような気分で頷いた。
 病室に着く。父親はベッドに縫いつけられるように横たわっていた。消毒の臭いが鼻につく。理子は深呼吸が出来ないと思った。ぱくぱくと口を動かした。地面に落ちた金魚のようだった。格好悪かった。母親に肩を押される。理子は意を決して父親に声をかけた。
「お父さん、帰るね私。また来るから、じゃあね」
 理子は父親の腕をそっとさすった。父親の肌は汗をかいていた。ひやりと冷たいが、熱を確かに持っていて不気味だった。理子は父親から離れようとして、父親に腕を掴まれた。場の空気が変わる。
 どうして。眠ったはずなのに。声にならない言葉が病室に響きわたった。
 理子は父親の顔をじっと見た。硬直した。
父親はのろのろとこぶをあげて、理子を見た。
「頑張れ」
 父親は目を細めて言った。
「理子はえらい子だから大丈夫だ。頑張れ、頑張れ理子」
 父親はそう言うと幸せそうに目をつむり、細い息を口から漏らした。深い眠りについた。
 理子の視界は黒に染まる。
どうしてそんなひどいことを言うのだろう。恨み言を言ってくれなかったのだろう。
 優しく応援するなんて父親らしくない。
 理子は耐えた。父親にすがって謝りたくなる自分を抑えた。
 もう、何もかも遅い。
 歯を食いしばった。

 本当は誰が生きていて、しょうがなかったのだろう。

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