それは甘くて、酸っぱいもの(小説)

 国語の先生に恋をした。めがねをかけてて、猫のように目を細めることのある先生だった。そんな表情を浮かべて、のんびりした口調で授業をするもんだから、裏ではニャー先生と呼ばれていた。

「桜木ー。カギ括弧の部分を読んで」

 ニャー先生が私の後ろの席に座る友人の萌衣(もえ)に授業で声をかけた。
 萌衣は立ち上がり、教科書を持って読み出す。淡々とした口調でつまることなく読み進めるから、段々と眠くなってきた。その時だ。目の前から視線が送られてくるのに気がつく。見るとニャー先生が私に視線を送っていた。思わず目を見開くと、ニャー先生はさっと目をそらす。

 まるで何事もなかったかのように。

「はい、そこまで」と萌衣の行動を止める。何もなかったかのような態度。だけど私は気づいていた。先生の耳が少し朱くなっていることを。

「あれだよねぇ……やっぱ、先生、私に恋をしてるんだよぉ」

 教室で萌衣と二人きりで話していた。教室の外のグランドからは、威勢の良い野球部の声が飛び込んでくる。夕暮れの光が窓から差し込み、春の匂いが風と共に窓の隙間から吹いていた。

「ニャー先生のことが好きなの? まほろは」

「最初は全然気にしてなかったけど、何だろう……私を見ているって気がついたときから急に気になりだしたというか。恋されて、魅力に気がつくことってあるじゃない」

「そうねぇ……ありがちだけど、よく分かる」

 私は萌衣の手をぎゅっと握った。

「分かる? 本当。さすが私の友達」

「ははは……でもさ、どうするの。好きだとして……告白するの?」

「どうしようかなぁ。した方が良いのかなぁ」

「そこで迷っちゃうの? 本当、贅沢な恋ね。迷えるなんて」

「ふふふ。そうかも……でもさ、すごく幸せなんだよ……ああ、うん、たまんない」

 はじめは好かれているのかも? と思っていただけだった。でも先生の熱情を帯びた視線を感じる度に、私の中でニャー先生が先生じゃなくて、一人の男の人に見えてしまったのだ。初めての経験だった。なんと言えば良いのだろう。甘くて脳の一つ一つの細胞がとろけてしまいそうな幸福感。もっともっとニャー先生に近づきたいけど、先生は当然のごとく忙しくて、隙が見つけられない。私はそこが切なくて、でも火に薪を投げ込むように、心が燃え上がる。私は思わず熱っぽい息を出した。
 萌衣は困ったように笑う。

「あらあら本気なのね」

 私は大きく頷いた。

 熱っぽい息はキスの後に出た。

「舌入れたらスイッチが入るって言ってなかった?」

 そう国語の先生の高上(こうがみ)に言うと、高上は目を細めた。
「そうだっけ?」きょとんとした目でシラを切ろうとする。

「そう言ってたよ。だから我慢してたのに」

「ちょっと忘れてた。ほら、嫌いじゃないだろ、こういうの」

「そうだけど……」

 私は呆れたようにため息をつき、抱きついていた体を離した。熱が少し遠くなる。先ほどまで抱きついたりしてあんなに感じていたのに、わずかに離れただけで恋しくなる。
 私は軽く高上を睨んだ。

「あなた、授業中私を見てるでしょ」

「ん、ああ、そうだね」

 学校内では禁止されているたばこを、嬉しそうに高上は口にくわえた。ここは高上の自宅なので、高上はずいぶんとのびのびしていた。

「だめよ、友達が勘違いしてる。自分を好きなんじゃないかって言ってるのよ」

「ああ、そうなの」

「そうなのって……」

「いいじゃない、ボクは応えるつもりはないし」

「だけど、勘違いするような行動は……っ」

 唐突に高上に唇を重ねられた。吸いかけのたばこを、軽く高上は灰皿に乗せる。苦い口づけだった。歯列をなぞり、舌先を吸い、そう私を征服するように舌を這わす。


「君が嫌がって、恥ずかしそうにしてるのが、いいんだよ。萌衣」

 最低な男だ。直感的にそう思う。けれど、この男の手の内からは逃れられない自分がいた。甘いブドウのような恋に手を伸ばしたつもりだったのに、実は酸っぱかった。だけど、そうなったのにも関わらず、この恋が手放せない。

 ああ、私たちは本当に馬鹿だ。

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