豚

夫が豚になった(小説)

 それは夜に雨が降った日だった。朝が来ると晴れていた。夜露が朝日できらきらと光り、ベランダに置いている植物は、その雫を私に献上するように、葉をぴんと伸ばしていた。
 お味噌汁も作った、ご飯粒はきちんと立っていた。目玉焼きは黄色い部分は固かった。
自分でも珍しいと思うくらいに、ちゃんとしている日だった。
 普段は朝日の光を感じたい私は、早めに御飯を食べる。夫は仕事が遅い出勤なので、起き出すまでほっといていた。私たちはもうずいぶん一緒の部屋で寝ていなかった。
 仕事のすれちがいで、相手の睡眠時間を削ってはいけない……そういう配慮だったはずなのに、何だか彼の部屋の扉が、古城の大扉のように分厚く、途方もなく高いものに感じていた。
 彼は普段を起きる時刻に起きなかった。寝坊しているのだろうか、よく分からない。
仕事に遅刻してはいけないだろうと思うのだが、なんとなく、その時気がついた。
 夫にどう声をかければいいのだろう。お互い仕事、私は家事もあって、忙しかった。
一緒に住んでいるのに、一人暮らしをしているような気分だった。私は洗濯物をたたんでいたのだが、それも折り目に気をつけてたたんでいたのだが、その些細な気の遣うことが不安になった。彼はこのシャツを着ることになるだろう。けれどもその折り目にこめられた私の感情を気づいてくれるのだろうか。
 その時だった。鳴き声が聞こえた。豚の甲高い鳴き声だった。
私ははじめて豚の鳴き声をまともに聞いたかもしれない。どうしてそんな鳴き声が聞こえるか分からないが、聞こえてきたのは夫の部屋からだった。
 私は恐る恐るドアに耳を傾ける。
「あなた? どうしたの、変な音がするけど」
 返答はなかった。
 ぶひっ、ぶひぃいいという鳴き声がした。豚の声だった。それと室内で何かが蠢いている気配。私はドアノブを握る。一瞬、首を撫でるような不安に襲われるが、それを乗り越えるように目をつむる。そして……ドアを開けた。
「あなた……?」
 私が最初に出した声はあまりに間抜けで空っぽな声だった。寝ているはずの夫はそこにいなかった。そこには桃色の肌で成人男性くらいの大きさの豚がいた。豚は私を見ると、動揺を見せることはなく鳴き続けた。鼻を動かし、私を嗅いでくる。豚は柔らかな麦の匂いがした。もしかしたら麦わらに身をこすりつけていたのかもしれない。
 私は目を丸くしたが、奇妙なことに、目の前にいるのは夫だと認識した。夫は豚になり、鼻を使って周りを確認している。桃色の肌にそっと触れると、弾力はあり、とても立派な豚だと思った。この豚はきっとおいしい。いやいや、何を言っているのか。私は頭を横に振っ
た。夫は完全に豚と化していた。人間の意識はないようだった。けれど豚の考えはよく私に伝わってきた。夫はお腹をすいている。豚は何を食べるのだろう、私はよく知らなかった。
夫の好物がなんだったのか、あまり思い出せなくなってしまったのと、どちらがましなのだろう。私は冷蔵庫に行った。スマホで豚の好物が何かを調べる。植物を好むらしい。酒のつまみで無味のナッツを用意していたのそれをあげる。皿にあけて渡したが、鼻はその皿をひっくり返し、私が綺麗していたフローリングにぶちまける。そしてがふがふと食べ出した。
りんごも試しあげてみたが、それも勢いよく食べた。とても強い食べ方だった、夫は食事を楽しんでいる、そう分かった。夫は口で語るより仕草で語る人だった。私を夫はじっと見る。
 くりくりとした瞳は私を写す。私は少し恥ずかしくなった。まだ化粧もしていないのだ、せめて化粧してから見て欲しい。思わず頬に手をあて、目をそらすと、夫は鼻を私に当てた。
 それはまるでキスのようだった。いったい、いつぶりだろう。夫はみっともなく鳴いた。
しかしその高い声が、熱い愛の言葉の様に感じた。ああと声を上げ、私は夫の首にすがりついた。こんな情熱的な抱擁、結婚当初以来だ。私の感情が伝わったのだろうか。豚は私に興奮する。目が爛々と輝く。私はそれをうっとりと見つめた。

「どうして、そんなことを言うの? 何か間違ったことをした?」

「……そんなドラマみたいなことをいうと思わなかったよ」

「そうね、みっともなく捨てられる側のセリフだと思う」

「別に何も悪くないよ……だけど、僕らってさ」

「何?」

「一緒にいなくても、問題ないよね」

「……ええ」

「どうして、一緒になったっけ?」

「どうしてだったかな……?」

 夫は床に横たわっていた。桃色の肌は美しかった、何よりも温かった。豚の肌の弾力は何よりも私の心に寄り添ってくれた。胸元に耳を当てる。どくんどくんと鼓動がした。私はそっと胸元にキスをした。私は裸だった。夫がもし寝返りでもしたら、私は潰されて死んでしまうだろう。夫はすやすやと目をつむっている。私は甘えるように身体をこすりつける。腕を精一杯にまわして私はそっと囁いた。

「私、こうしたかったんだわ、ずっと」

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