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名前

 春になると憂鬱になる。
美幸は重いため息をつく。とてつもなくいやいやそうに。
 まず言っておこう。春という季節に罪はない。淡いピンクの桜が満開に咲いているところを自転車で駆けるのは爽快感があるし、暖かくなるのでついついお出かけしたくなる。町も春になると、どんどんとにぎわっていくのを感じるし、今日見かけたショーウインドウの春物のワンピースはとても可愛かった。それでも春は憂鬱だ。
 春は学年のはじまる季節。今年中学二年生になった美幸は、恨めしげに自分の名前が書かれたプリントを見る。
 顎に髭の剃ったあとがうっすらと見える担任が、座席表をしげしげと見ながら言った。
「おー、佐藤と長谷倉は同じ名前なんだなぁ。こりゃ、下の名前を呼ぶときは気をつけないとな」
 長谷倉という名字の美幸さんと顔を目を合わせる。お互い目を丸くして、それから曖昧な笑みを浮かべた。
 美幸はほぼ毎年恒例になっているこのやりとりに嫌気がさす。美幸の住んでいる地域では「幸」という文字が縁起がいいと名前につけられることがままある。実際美幸の学年百人の生徒のうち「美幸」という名前は、五人もいた。
 だから放送で呼び出されたとき、うっかりと名字を聞きそびれると、どの美幸が呼び出されたのか、分からなくなってしまうのだ。
 本当にありきたりな名前だと思う。読みやすいよねと言われるけれど、本当にそれだけだ。特徴的ではないから、何も得意なことがない、何かやりたいこともない、ただの中学生である美幸という人間を、よくよく象徴している気がしてイライラしてくる。
 美幸の学校が屋上が解放されていない。以前自殺をはかろうとした生徒がいたからだと閉鎖されているらしい。美幸は漫画で読んだ屋上でお昼ご飯(それもサンドイッチとジュース)を食べてみたかったと思う。あこがれていたが、禁止されていることを無理に反抗する気はない。怒られるのは嫌だし、鍵のかかっている扉を開ける気力もない、でも本当に何かが出来る人間はそんな禁則なんて、軽々と乗り越えてしまうだろうと思う。たとえばロッククライミングの要領で、壁を登っていくとか。でも決められた箱の中で、決められたポーズをしている方がいいとは分かってる。でもこんな狭い箱で、じっとしているなんて耐えられない! と思ってしまうのだ。
 名前のことで言われるのは、美幸はしんどくなってしまう。自分ってものを感じてしまう。名前が嫌で、今生きている場所にも不満がある、でも何も出来ない、十三歳という立場を感じてしまうのだ。
 休み時間になった。長谷倉の美幸という女生徒がこっちに近づいてくる。何だと思ったら、まいったねという顔でこっちを見た。
「あの先生、生徒のことをよく名前で呼ぶらしいよ」
 まじかぁと美幸は女生徒の言葉に反応した。
「いやさ、呼び間違えられてね、うっかりそれに反応したら超恥ずかしくない?」
「すっごい、わかるー」
 美幸は大きく頷いた。そうなのだ、うっかり反応してしまって、間違えたと相手に謝られたりからかわれたりするのはとても恥ずかしい。きゅっと心臓が縮こまってしまって、頬が熱くなってしまうのだ。
「名前だからさ、なかなか変えられないじゃん」
「そうなんだよね」美幸は女生徒とラインを交換する。
 彼女はごく自然に自分のラインを聞いてきたのだ。その堂々とした仕草に、つい美幸は応じてしまう。
「私は将来変えたいわ」
「マジで」
「マジよ」
 ラインを交換してご満悦な女生徒……長谷倉は。
「ありがとね」と小さくウインクした。
 それに美幸は驚いてしまう、ウインクをするなんて美幸にとっては難易度の高い行為だ。美幸がウインクをしても、瞼がばちばちと瞬くだけで、非常に格好がつかない。でも長谷倉美幸のウインクは格好が良かった。何というか、仕草が慣れていて、説得力があるのだ。
「ウインクするんだ」
「悪い?」
 長谷倉は顔立ちは整っているが、ものすごく美人というわけではない。でも仕草や表情はどこか大人びていた。雰囲気だけでここまで圧倒的だと、化粧をしたらどれだけなんだろうと美幸は頭がくらくらした。
 長谷倉は言った
「似合わないかな」
「いや……そんなことない」
 長谷倉の言葉に美幸は頭を横に振った。
 それから少し恥ずかしそうに膝をすりあわせた。
「素敵だったよ」
 長谷倉は美幸の言葉に一瞬真顔になったが、意味がじわじわと染みてきたのか、大きく口を開けて笑った。
「あははっ、ありがとう」
 
 長谷倉との会話は思いのほか、盛り上がってしまった。長谷倉はおしゃれな洋服や鞄の知識も豊富だったが、美幸の好きなアニメやゲームにも詳しかった。長谷倉と様々なことを話したり考え込んだりしていたら、すっかり日が落ちてしまいそうな時刻になった。
 美幸の家は夕食の時刻が周りの子に比べて、それなりに早い。十八時半には、母親と二人で食べてしまう。父親は帰る時間がまちまちなので、美幸とは食べたり食べなかったりした。
 家に帰ると、母親が味噌汁の味を確認していた。
「遅かったわねぇ、美幸」
 母親は美幸の姿を見るなり、眉尻を下げた。遅かったことを心配しているようだった。美幸はその視線の強さに辟易した。美幸は一人娘だ。専業主婦の母親、雪華(せつか)は、一人娘の美幸に対して心配性だった。主婦として家の仕事をする母親からすれば、美幸は本当に大事な宝なのだろう。だから食事はすごく手間をかけるし、掃除や洗濯にも気を遣っていた。
「ごめんなさぁい。ちょっと、友達と話し込んで」
 やる気のない声で美幸が言うと、母親は合点した顔で美幸の制服を見回した。
「そうね、今日から二年生だったね。友達、早速出来た?」
 友達という単語に、美幸は素直にうんと頷いた。
厳密には長谷倉は仲良くなれそうな友達候補であるが、友達じゃない。自分たちのことをあれこれ話すことが出来るほどに、仲良くなれるかはこれから次第だと思う。だが母親は、人間関係にそういう様子見をすることを嫌う。まだそんなことするなんて、早いでしょと怒り出す。出会いは本当に大事だと思ってるらしく、感謝しないといけないと言い出して面倒くさい。美幸は曖昧に笑ってごまかした。
「まぁ、ね」
 母親は目を輝かせて喜ぶ。その素直な態度に、美幸は口の中で「ファンタジー」と呟く。素直で心配性な母親は、少女のような可憐さもあり、本当にこの現実に存在しているのかと思ってしまうのだ。いや手を伸ばせばそこにいるので、存在しているのだけど。
 母親は鼻歌を歌うくらいに上機嫌になった。枝豆ごはんを茶碗によそい、菜の花の味噌汁をテーブルに出した。
 季節の彩りに満ちた食事はおいしかった。菜の花の煮具合もちょうど良かったし、味付けも薄味だが舌が疲れず、最後まですいすいと箸がすすんだ。満腹になって、ほっと一息をつくと、母親はやっと食事を始めた。お茶を飲みつつ、自分の食事を見ていたらしい。別にそんな見なくてもいいのにと思ってしまう。食事の不備があったら、すぐに対応しようという気遣いなのだが、それが逆にうっとうしい。それなりに、親からすればまだまだお子さまだろうが、年をとったのだ。食べれなかったら残せばいいだろう、明日に持ち越して食べればいい。美幸は食事はきちんととらないといけないと頑固に思う母親と、視線をあわさず目を伏せた。何だか世間一般に言う、良い母親すぎて疲れてしまう。
 それが素直な感想だった。
 母親は言った。
「そういえばね、スマホのゲームをはじめてみたの。猫を育てるゲームなんだけど」
「ふうん……動物育てるの、好きだねー」
「ふふ、ゲームの中なら簡単だからね」
 母親は育て始めたばかりだという、白い子猫を見せた。
 かわいらしいし、仕草もひどくリアルで、これはいいなと美幸は思った。
「でもねぇ、ブリーダーの名前が思いつかなかったわ。せつかで設定したけど……恥ずかしいのよね、この名前」
 美幸は思わず箸を止めた。まじまじと母親を見る。
母親は自分の名前が少し恥ずかしそうだった。珍しい読み方ということに、思うところがあるようだった。
「おばあちゃんの名前のセンス、悪くないと思うけど……」
 美幸は言った。
「そうねぇ、きれいな名前だと思うの。語感も悪くないし、名前の文字自体もきれい……でもね、おばあちゃん、ちょっと子供の名前に関しては適当だったから」
「どういうこと?」
「うーん、好きなアニメキャラクターの名前を漢字にしてつけたみたい。昔言われたわ。名前の由来なんてないって。響きがいいから……つけたって」
「ふうん……」
「悪い人じゃないし、いい人よ。美幸のことを大事にしてくれるし。でもねぇ、名前ってそういうもんでないでしょうと思うのよねぇ」
 美幸は難しい顔をし出す母親に、どうしてそこまで思うのかと思ってしまった。正直美幸は、おばあちゃんに名前をつけてもらった方が、今よりも良い名前だったのではないかと思う。雪華、良い名前ではないか。好きなアニメキャラと語感だけでつけられたとしても、それなりに変わっていて、でも漢字も難しくない。美幸みたいに何人も同じ学年にいるということはないと思う。贅沢だなぁと心の中で言いながら、美幸はお茶を飲んだ。
 
 そして数日後、美幸は未だかつてないくらいに、気分が沈んだ。学校から宿題が出たのだ。宿題が出ることはいい、学校だから当たり前の話だ。問題はその内容だった。

ーー親御さんから自分の名前の由来を聞いて、自分のルーツを知る。

 そんなことが、宿題に出てしまったのだ。小学校で出るような内容の宿題が、中学生になって出ると思わなかった。何でこんな宿題が出るのかと愕然としている美幸もとい生徒たちに、宿題を出した担任は神妙な顔で言った。
「昔はお前たちの年で成人の儀式をして、大人として扱われたんだ。今は成人年齢は決められているが、それでもお前たちは小さな大人として動かないといけないこともある。言葉の責任、礼節、思いやり、子供ではいられないんだ、こういう小さいことからも。同時にだ、大人になるにあたって、お前たちは自分のことを知らなくてはいけない。自分はどこからきているのか、それは将来役に立つことだからな……そこでまずは皆に自分の名前の由来を聞いてもらってほしい。そして知ってほしい」
 担任はそう言うと出席簿を閉じて、帰りの会の終わりの挨拶をするように促した。美幸はぼんやりと担任に昨年子供が産まれたことを思い出した。憂鬱さが胸の中で増していく中で、担任はどんな名前を子供につけたのだろうと思った。名前か……美幸は自分の平凡な名前の意味が簡単に想像できて、何だかつまらない気分になった。まるで母親のように、優等生のような名前だ。

 下校中の買い食いが禁止はされているが、先生は町を巡回しているわけではないので、事実上禁止なんて口だけのようなものだった。長谷倉と美幸はコンビニでお菓子を買うと、町の図書館の裏(林があって、とても過ごしやすい)にあるベンチで休み始めた。
 長谷倉はチョコレートの欠片がついた親指を舐めて、うっとうしげに息をつく。
「やな、宿題だなぁ……」
「名前のやつだよね……本当」
 美幸は呼応し、大きく頷いた。
「私ねぇ、最近知り合った人には美幸とは言わせてないんだ」
「ふうん……偽名でも使ってるの?」
「偽名って、物騒だなぁ、ネット上の名前よ……SNSで使っているやつ! ネットの関係で本名って危ないし、それ用に名前を考えたの」
「そうなんだ」
「そうよ。佐藤ちゃんも使ってみるといいわ。すっきりするわよ、自由って感じがする」
「自由……」
「だって、私たちの名前って古くさいじゃん。おばあちゃんが孫につける名前みたい」
 その言葉に思わず目を丸くする。頭では考えないように避けようとしていた考えを唐突にぶつけられると、人間、頭が真っ白になる。動揺してしまう自分の胸に手を当てながら美幸は言った。
「古、臭いかな」
 長谷倉は大きく頷いた。
「古臭い上に、ありきたり」
「……まぁ、確かに」
 否定が出来なかった。心が深い海に落ちてしまったような、ぎゅっと心臓を握られたような、何とも言えない気分になった。そう強いて言うなら、群青色が目に浮かぶような哀しみを覚えた。何でだろと思った。この名前に何度もうんざりするような思いを抱いたのに。何でだろと思った。
「そうだ、これからさぁ、ラインでチャットするんだけど。佐藤ちゃんも来なよ」
「え!」
 びっくりして目を丸くする美幸に、長谷倉はけらけらと笑った。
「もー動揺しすぎ。大丈夫、怖くないって。全員良いやつだし、私の友達よ」
「大丈夫かな?」
「大丈夫、大丈夫! 佐藤ちゃんも試してみなよ、自分で作った名前を使うの」
 目を細めて楽しそうに言う長谷倉に、美幸は心臓が高鳴るのを感じた。それは面白そうという興味であり、同時に大丈夫なのかなと不安を覚えた。でも長谷倉の提案を断るのも考えてしまう。ここで断って、良いことはないような気がした。
「わ、わかった」
 美幸は頷き、自分の名前を考え始めた。そして何とか、納得のいく名前を作ると、口の中で何度も呟いてみる。
 何だか、自分が別の人間になったような気がして、少し楽しくなった。この名前を名乗っているときは、美幸というなんにも出来ない子供じゃなくて、別の誰かなんだ……。そう思うと背筋がぞくりと震え、興奮した。

 美幸は上機嫌でうちに帰った。
 母親は美幸の姿を見ると「遅かったわねー」と声をあげた。それほど遅く帰ったつもりはないが、母親は何だか少し機嫌が悪そうだった。
「ごめんなさーい。そんなに遅くに帰ったかなぁ」
「今日は美幸の大好物のドリアを作るって言ったじゃない。そうしたら早く帰るって美幸、言ってたでしょ……」
「あーそうだった」
 美幸はぽかんと口をあけた。そして手をたたく。
「それはほんとにごめんって、もう食べちゃった?」
「ぎりぎり食べてません、冷めないようにしたけど、ちょっとかたくなっちゃったかもしれない」
「それでもいいよ、食べる食べる!」
「しょうがない子ねぇ」
 母親はため息をつき、ドリアをオーブンから取り出した。それからコンソメスープを鍋から椀に移す。
 美幸は大好物を目の前にして、目を大きくした。今日は良い日だ、食べたいものが食べられるなんてと思った。
 スプーンを手に取り、熱いドリアに手間取りつつ食べ始める。とろりとしたソースがかかったご飯は、口の中を一気に幸せにした。もぐもぐと満面の笑みで咀嚼する美幸を見ながら、母親はスープを啜った。
「そういえば、今日は学校はどうだった」
「がっこー? あぁ……宿題が出た」
「あら、それじゃやらないとね」
「本当やりたくないヤツでさぁ。自分の名前の由来を調べてきなさいって言われちゃった」
「……どうして? 自分の名前の由来を聞くのが嫌なの?」
 母親の声は静かな調子のものになっていた。しかし美幸は食事に夢中でそのことに気がつかない。
 美幸は大きくため息をついた。
「だって私の名前、分かりやすいじゃない……確かお母さんがつけたんでしょ、この名前。ならきっと、人として美しく、幸せであれ、そんな感じでしょ」
「まぁ、そうね……きれいな名前だと思うわ」
「お母さんのセンスが分からない」
「え?」
 母親は身を引いて、美幸を見た。
「私の名前さ、今日言われたんだよ、古臭いって、ダサいって」
「そんなことないわよ、きれいよ、誰にも読めると思うし」
「そりゃ、読めない名前よりはいいよ。一目で分かるから。でもさ、私は自分の名前よりお母さんの名前の方がセンスを感じるよ。ちょっと変わってて、漢字もきれいだし、うらやましいよっ……」
「そう……あなたはそう感じてしまうのね」
 母親は寂しげに言った。
「あぁーなんかさ、ちょっと考えてよ。娘が将来どんなことを言われるのかさ。私の名前、学年で何人もいるんだよ、ほんとにさ、嫌になるときだってあるんだから」
 深く母親は息を吸った。そして平坦な声で言った。
「美幸」
「何よ」
 軽くではあるが、母親は美幸の頬をたたいた。美幸は痛みとともに目を見張る。
「え」
「え、じゃないわ。美幸……謝りなさい、自分の名前をけなしたことを、私に」
「別に私は事実を言っただけで」
「……謝りなさい」
 美幸は目を剥いた。
「嫌よ、何でよ、訳わかんない!」
 美幸は大きく頭を横に振った。こんなことをするなんて……母親の行動が信じられなかった。

 母親が自室に閉じこもった。その真向かいに自分の部屋があった美幸は、どうにも自室へと行きづらくなり、リビングでクッションを抱えていた。
 二十二時をすぎる頃、参ったなと美幸はクッションに頭を押しつけた。さすがに無遠慮なことを言い過ぎたかもしれないと後悔が胸にしみるように広がっていく。しかしだからと言って今更申し訳ないと謝りに行くのも癪に障った。謝るには勇気が足りなかった。母親にどの面を下げればいいのだと思うし、そもそもいきなり叩くとは母親もどうかしていると考えてしまった。美幸は足をじたばたと動かし、もやもやとした気持ちを少しでも打ち払おうとする……しかしどうにもうまくいかなかった。美幸が重苦しい気持ちをため息に変えていると、父親が帰ってきた。
 いつも出迎えるはずの妻が出なく、娘一人がソファでただ座っているという状況に目を丸くする。
「ただいま、母さんは……?」
「部屋にいるよ、全然出てこないの」
「何でまた……体調でも崩したのか」
 父親は眉をひそめる。ありありと心配が伝わってくる。
「……違う」
 美幸はぼそりと言った。父親は急いた様子で部屋を出ようとしたところで、動きを止める。
 父親は母親に何かあると、心配マシーンになる。心配を原動力にして動く、母親を守るナイトになるのだ。昔からそうだった。父親は怪訝な顔をした。
「美幸、何か知ってるのか」
 美幸は顔をしかめて、大げさに手を払いながら立ち上がった。
「どうせ、全部私のせいなんでしょ」
 ぼそりと呟いた。

 美幸から事情を聞くと、みるみる父親は表情を暗くした。
「そんなことを言ってしまったのか、美幸」
「だって、嘘じゃないし……」
「嘘じゃないからって何を言ってもいい……そんなことはないことは、美幸だって分かってるだろ」
「そうだけど……マジで嫌な気分になることがあるんだし、名前のことで」
「あのなぁ……」
 父親が怒りのこもった声を上げると、美幸は目を伏せて唇をとがらせた。
「どうせお母さんがつけた名前をけなすなんて、ひどいんでしょ。分かってるよ、それくらい」
「なら」
「でも、憂鬱になるんだもん、名前で。もっとセンスのある名前が良かったよ。可愛かったり、洒落ているのが良かった」
 父親は美幸をじっと見た。美幸はその視線の強さに耐えきれず、目をそらす。父親は階段がある方にちらりと視線をやった。そして淡々と言った。
「美幸、お前の名前は本当に大事な名前なんだ」
「だから分かってるって」
「いーや、分かってない。お前はそもそも、お母さんがどんな思いでお前を生んだのか、知ってないからな」
 美幸は頭を傾げる。
「どういうことよ」
「言葉のままだ」
「わかんないよ」
「じゃあ、言おう……母さんはな、出産を止められていたんだ。産んだら死ぬかもしれないってな」
 父親は抑揚のない声で言った。その言葉の無機質さに、美幸は背筋が冷たくなり、深く自分の胸に突き刺さるのを感じた。

 昔の話だ。
ある男と女が職場が一緒になり、仲良くなり自然と付き合うようになった。その女は子供を産む機能が人並みではなく、下手をしたら自分の命と引き替えになるかもしれないと医師に宣告されていた。
 二人は付き合ううちに結婚を意識するようになり、そして子供は持たないと決めて結婚した……やがて十年の月日が経った。二人は妊娠しないように注意を払っていたのだが、女は身ごもってしまったのだ。男は驚き、女にどうするのかと意志を聞いた。すると女は産みたいと言い出した。
「だって、あなたの子なのよ」
 その意志は固く、孕んだ腹が膨らみだすと女はせっせと子供を産む準備を始めた。男は女の様子を見て、彼女の願いを尊重しようと思った。命に危険が及ぶことは周囲に知れると、子供をおろすように女に進めてきたが、男も女も頑としてはねのけた。
 たとえそれが愚かな願いだろうと、その命は、十年も我慢し続けた二人の最愛の願いだったからだ。
 しかし出産が近づけば近づくほどに、女は体調を崩していく。女は入院することになった。意識もおぼつかない日もあるほどに衰弱した。
 そのとき女は、男に「名前」を託した。

「私ね、この子が無事に生まれたら、この名前をつけたいの」

「美幸。美しく、幸せであれ……って思ってね。産まれる子は女の子だし、素敵でしょ」

「私の最初で、最後の贈り物になるかもしれないから……ちゃんと、つけたかったの」

「どうか、無事に……生まれてね」

 男は黙って女の言葉に頷いた。彼女の願いを必ず果たそうと思った。そして出産時、母親は多量の出血で意識不明に陥ったが、それでも奇跡的に生還した。だが以前のように仕事の出来るほどの体力は残らず、回復した彼女の出来ることは家を守ることだけだった。

「……母さんは俺たちの生活や食事に気を使うだろ。あれは俺たちと自分の健康を気を使ってるんだ。専業主婦をしているのも、子供には自分のようにはなってほしくはないんだ……無理をして、出産にも耐えられなくなった自分のようになってほしくなくて」
 その想いを汚したんだ、お前は。
そう言わんばかりに、父親は美幸の肩をつかんだ。痛いほどの力ではないが、逃れられないような威圧を感じる。
 どうして……と美幸は頭を横に振った。
 そんなことを、知らなかった。
そんなことになっていたなんて、知らなかったんだ。
 だってそんなこと……一言も、そぶりも見せなかったんだから。
 お母さんと美幸は心の中で呟く。
あふれた涙で視界がぐにゃりと歪んで、何が何だか分からなくなる。
 今日食べたドリアの切れ端が歯の隙間から出てきて、チキンの味が一瞬口の中に広がった。
 その優しい味が、今はとても痛かった。

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