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その手のひらの熱は

 僕に彼女が出来たことを、母親経由で聞いた姉がこう言った。
「はぁーあんた、頭が馬鹿になっちゃったの」
 姉は頭がいいけど、人の気持ちが分からない。でもめちゃくちゃ頭が良くて、とある製薬会社で研究職についている。定時に帰れないし、始終難しい本やデータとにらめっこしないといけない職だけど、姉は楽しそうにやっている。人としゃべらなくていいから気楽よと姉は言う。姉は人とのつながりを宛にしていなかった。
「馬鹿って何だよ」
「そりゃそうでしょー、彼女が出来たなんてマセガキーって感じ。何、そんなに盛ってるの?」
 姉はあきれたようにため息をついた。それからも言葉は続く。
 萎えてしまいそうなほどに姉の言葉はきつい。姉は恋愛関係にとてつもなく厳しい。むしろ侮蔑しているような気がする。僕は思うことがたくさんあった。僕を別に馬鹿にするのはいい。でも僕と付き合う彼女のことも、そんな風に馬鹿なものとして見るのはやめてくれないかと思う。姉の言葉には勉学で大成した自分へのおごりがある、傲慢がある。何にも目を向けず、突き通した生き方は確かに立派だろう。でもそれは僕と付き合うことを決めた彼女へのあざけりを含むのはどうかと思う。
 でも家には不文律があって、姉には逆らうなというものがある。姉は激高しやすい。だから姉を怒らせると、うちはしばらくもめて面倒になる。母は姉に気を遣い、僕に常々言う。
「お姉ちゃんより、大人になりなさい」
 僕はため息をぐっとこらえて、姉の言葉に背中を向けた。
「何よー、逃げるの」
 違うと言いたかったけど、僕は唇を噛んだ。

 夏の校舎裏は蛇が出るという噂もあって人があまり来ない。凍らせたペットボトルの表面を、夏の暑さで水滴がすうと落ちていく。
 別にこんなところでする事ではないのだけど、僕は彼女の吐息を唇に感じながら思った。
 夏休みの講習の終わった後、一緒にランチを食べて、校舎裏で唇を重ねていた。彼女の未玖は少し小柄で、背筋をすっとのばしてキスをしてくる。
 正直あまり僕らはキスが得意ではない。何だろう、唇を重ねるのが性急すぎるというか、重ねると言うよりはぶつけるようにしてしまう。後勉強用のめがねをお互いつけているのに気づかずにしてしまうときがあって、そのときはめがねがぶつかって非常に恥ずかしい。何だろ、心臓の音が耳の内側でリアルに聞こえてくるのに、その熱情が、ぼうとする頭が、何とも言えない熱い空気が、一瞬ずっこけてしまうのだ。
 未玖はキスを終えると、小さく声を漏らした。
「あー、恥ずかしい」
「恥ずかしいのか」
「そりゃ、そうだよ。ここ学校だよ。いちゃつくなら家でも出来るじゃん。いや家でもちょっと考えるけど」
「駄目かなぁ、まぁ人に見られたら大問題だけど」
「そうだよー怒られちゃうよ」
 僕は手を合わせて頭を下げた。
「ごめん……嫌がってるのに、こういうことして」
 すると未玖はきょとんとして、それから急に黙った。何だろう、頬がスモモのように赤くなっている。そしてもごもごと小さく呟いた。
「いやその、場所はどうかと思うんだけどさ」
「あ、あぁ」
 未玖は顔を伏せ、上目遣いをした。
「チュー自体は、嫌じゃないよ」
 そしてその直後に未玖は顔をゆがめて、あー恥ずかしと言った。ひどく親父のような低い声だった。こんなことを言うなんて、未玖は想定していないものなのだろう。でもつい言ってしまったのだとすぐに分かった。僕は周囲を気にしてから、未玖の腕を引き、軽く抱き寄せた。彼女は猫のように瞳を大きくして、小さく僕を罵倒した。でもその声は甘く甲高くて、全然僕は辛くなかった。
「ば、馬鹿っ」
 そう言われても、説得力のない響きだなぁとにこにこしてしまうのだ。
 でもそんな彼女に対して、一つだけ寂しくなることがある。彼女は人前で恋人のような振る舞いをするのをひどく嫌がった。
 とにかく無理だと一点張りで、僕と彼女は人前で手すらもつないだことがない。
 彼女は足りないとは思わないのだろうか。
 短い二人の時間で触れても、その時間の短さに切なくなる。そういうことはないのだろうか。
 僕は目をつむり、彼女に顔を近づけた。
未玖は目線を下に向けて、勇気を出して顔を上げる。慣れてない緊張した顔つきに、息が詰まる。可愛いと思う。でもこういうこところが、マセガキなんだろうなぁと肩を落としたくなる。姉の歪んだ顔が目に浮かぶ。

 学校からの帰り道、駅前の商店街を二人で練り歩く。もちろん手はつないではいない。
 商店街を練り歩きながら、今度ある友人同士の集まりのための、お菓子やジュースを買い集める。
 僕の家に置いて、何時間もだべったり、ゲームをする予定なのだ。男女関係なしに集まる予定なので、未玖はひどく楽しみにしていた。
「どれがいいかなぁ。キャラメルコーン、買ってもいい?」
 未玖は目を輝かせて、僕を見た。クリクリとした瞳、表情もよく動く。僕は彼女の隣に立って、彼女が指さしたお菓子のパッケージを見る。
「別にいいんじゃない、嫌いじゃないと思うよ、皆」
 僕は頷いた。それにしてもすごいなと思う、未玖のお菓子に対する欲は。もう何個買ったんだろと財布の心配を若干し始めている時だ。
「あれ、修」
 嫌な意味で聞き覚えのある声が聞こえた。
「姉ちゃん……」
 頬を引き攣りそうになる。
「まさか会うとは思わなかった、何その隣の子……もしかして彼女?」
 僕は黙ると、姉はそれを是と受け取ったのか、急にニコニコと笑い始めた。
「そっかー。こんにちは、私、修の姉の風希明日香と言います。よろしくね」
 その朗らかな笑みにほだされたのか、未玖はおずおずと頭を下げた。
「こんにちは、前園未玖です……」
 二人はそこで僕をおいてけぼりにして、話し始めた。姉は人格は問題ありだが、知能の優秀さでは舌を巻く。未玖も姉の知性あふれる話や、質問にだんだんと惹き込まれていくのを感じた。まずいなと思った。姉が大人の対応しているのかと思ったが、そんな人だったけという疑念も持つ。僕は慎重に二人の話を見守った。
 二人の会話がはじまって二十分も過ぎようとした頃、姉は自分の腕時計を見た。ブランド物の小洒落た時計だ。姉は心底残念そうな顔をする。
「いけない、そろそろ行かないと……予定のこと、すっかり忘れてた」
「それはいけないですね」
「残念、あなたとってもいい子なのに」
 姉は最後まで大人の対応を貫き通しそうだと僕は胸をなで下ろした。姉は帰り際で僕の肩を叩いた。
「あんた、いい子と付き合ってるのね、遊ぶにはふさわしいんじゃない。でも勉強は疎かにしないでよ、優先順位はきちんと弁えなさい」
 その日一番ではないかと思うほどに晴れ晴れとした、悪魔の笑みだった。あぁ姉は、どこまでいっても姉だ。その目には憎悪が宿ってる。未玖は姉の言葉を聞き、愕然とした顔でこっちを見ている。瞳が揺れていた。いや、震えていた。
 僕は姉を睨んだ。
「勉強は頑張るよ、だけど姉ちゃん、その前に何を言ってるんだ」
「え、遊びでしょー。この子と付き合うのは……」
「遊びじゃない」
 姉は鼻で笑った。
「ガキが何言ってるの。何もないのに、遊びじゃないってどこに証拠があるのよ」
 気持ちを証明するのは難しい。心のお医者さんですら、あらゆる感情の証明は難しいだろう。僕は下を向いた。姉に下手なことを言っても、すぐに反論される。僕は反論を諦め、ただ、感想を述べた。
「姉ちゃん」
「何よ」姉はニヤニヤしてる。どんな反論がくるのかと楽しんでる。この人は自分の意見以外を潰すためなら、どんなことでもする。
 姉にどんな過去があったとしても、僕は未玖の存在を軽く見られるのに、怒りを覚えた。
「鏡、見てこいよ」
「え?」
「すげー、醜いから」
 姉の顔はみるみる青くなる。姉は美人とは思ってはいないが、醜いとも思ってない人だった。そして容姿をとやかくいわれたことがない。だからこんな言い回しはよく効いた。
 続けざまに僕は言った。
「聞こえてない? 鏡見てこいよ、無遠慮に、そんなことを言うなんて……醜いんだよ、言葉も、そんなことを言う顔も」
 暴論ではあったが、姉の心にはよく効いたようだ。姉は口をぱくぱくと動かす。やがて反論は出来ないが耐えられなかったらしい。姉は苛立って何か言葉をぶつけようとした。でもその言葉も碌でもないのは明白だった。だからもう聞かないことにした。僕は未玖の手を取った。そして商店街を走った。後ろから金切り声が聞こえた。

 走りを止めたのは、商店街を抜けて住宅街の路地の奥に入った時だった。お菓子やジュースを持った指の関節が痛んだ。
 未玖はゼェゼェと息を整える。僕も何とか整える。
お互いとても疲れてしまっていた。未玖は持っていたカバンから水筒を出して、強く目を瞑りながらお茶をぐいっと飲んだ。
 僕はそれを見ながら、未玖に声をかけた。
「大丈夫、未玖……」
 未玖は大きく息をついた。
「もう、もう、しんどい」
 未玖はハンカチで汗を拭う。
僕は小さく頭を下げた。
「ごめん」
 未玖は僕の言葉に頬を軽く膨らませる。
「別にいいけどさぁ……あぁ、でも修くんの方が大丈夫?」
「え?」
「その、お姉さんにすごいこと言ってたけど……」
 僕は力なく笑った。
「あぁ……後がめんどくさいと思う」
「大丈夫なの? それって……」
「うーん、いいよ。言わなきゃダメなんだよ、あの人は。何ていうか……色々とあったからって、それを人に押し付ける権利はないんだから」
 未玖は僕の言葉を何度も噛み締めるように頷いた。
「そうなんだ……」
 僕は頭を下げた。
「そう。なんだろな……昔姉ちゃん、付き合ってた人とトラブってさ、けっこーひどく裏切られて……それ以来あぁなんだ。恋愛嫌悪症みたいな状態でさ」
「……そっか」
「家族だから、黙ってたんだけど……そうしたらどんどん悪化しちゃって」
 僕は深く息をついた。
「だけど、我慢出来なかったんだよ、あぁ言われるのは」
 本当に我慢ならなかった。確かに学生の僕には、未玖との将来は想像のつかないところがあるし、親の養われてる身では何も出来ない。でも気持ちに嘘はないんだ、遊びじゃないんだ。
 それがどれだけ姉に伝わってるのか、分からないけど。
 未玖はおずおずと口を開けた。
「とりあえず、商店街に戻らない? 買い物途中だし」
「あ、あぁ。そうだな行こうか」
 すると未玖が僕の手を取った。指を絡め、恋人つなぎをする。
「え」
 僕は間抜けな声を出した。
「どうして」
 あんなに恥ずかしがっていたのに……と目を丸くしていると、未玖は頬を真っ赤に染めて、か細い声で言った。
「手、つなぎたくなったの……だめ?」
「だめ、じゃない……」
 心臓の音が跳ね上がる。どうしよう。彼女も跳ね上がっているのだろうかと思うと言葉を失った。
 未玖は嬉しそうに笑った。
「あったかいな、修くんの手」

 本当にあったかいよ。
 
 それが、愛の告白よりも胸にしみたのは何故なのか。
僕も頬を緩ませて彼女を見た。彼女の手のひらの熱が、少しずつ僕に伝わる。それが何よりも僕を満たした。

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