優しいバスの運転手

この小説は有料設定にしていますが、最後まで読むことができます。

 申請して一ヶ月。区役所で交付される時間はたったの五分。手のひらよりもわずかに小さい。パスケースに入れられた精神障害者保健福祉手帳に戸惑いを覚えずにはいられなかった。加奈子は区役所を出ると、人目がないことを確認してもう一度、手帳を見た。軽くて、パスケースから取り出すと上質とはいえない紙がぺらぺらと風に揺れた。
 まじまじと加奈子は手帳を見る。これが彼女を障害者として認定しているのかと疑いたくなる。しかし書面には彼女の名前、押上加奈子と顔写真が載っている。そして障害等級が三級であることも密やかに記載されている。彼女はこの薄いパスケースによって、障害者であることが東京都から認められたのだ。公的な障害者と呼べばいいのか。加奈子は困ったように頭を傾げた。この手帳によって、自分は色々な公的扶助や税金の控除が受けられる。この手帳を見せればだが。
 加奈子は頭がくらりとして、ため息をついた。
この手帳をもらうまでは、それこそ心底頭を抱えたのだ。二年近くも迷ったのだ。自分で自分に障害者というレッテルのようなものをつけるということは躊躇わずにはいられなかった。意識の高い障害者や団体に怒られそうだ。健常者も障害者も変わりはないと。それは分かっている、分かっているが……障害者=自立が出来ないという印象が世間は強すぎる。助けなきゃと思われやすいのは苦痛だ。自分は確かに障害をもっているけど、週五日、八時間働いているし、残業もする。見た目は健常者とは変わらない。それでも障害で感情のコントロールが出来ずに大声を上げてしまうのは、自分でも屈辱的で思い返す度に絶望感と失望感で電車に飛び込みたくなる。
 こういうネガティブさが病的なのかなぁと加奈子は、目の縁にたまった涙が拭った。正直言えば加奈子は自分の病的な部分が分からない。感情的になった時、嬉しくて興奮した時、絶望した時、その心の動きすべてが普通の人とは違うのでは、いちいち怯えている。しかし普通と呼ばれる人も尋常じゃない感情の動きを見せることも知っている。他人と自分の違いが分からない。
 苦しくなってきた。お薬のもうかな。
 アルコールで憂さを晴らそうかという気楽さで、加奈子は薬を飲む。そして歩きだした。
 今日は食品を買って、バスで帰らなければいけないのだ。職場で休憩中に舐める飴も買う予定だ。
 加奈子は職場では自分の病気は伏せている。障害で引き起こす情緒の不安で、職場から心が弱いと思われているし。そういうぐずぐずした面を嫌う人がいる。それで苦しい思いをすることがあるが、障害がばれるわけにはいかなかった。限界まで黙っているか、いざとなったら辞めればいい。この障害は、双極性障害と言ってもあまり分かられないだろう。躁うつ病は世間の迷惑なんだ。そんな言葉が頭に浮かび、ぐるぐると加奈子を締め付ける。違うよと言われそうだが、頭でこの言葉が居座って消えないのだ。
 窒息しそうな現実と日に日に募る孤立感。自分の病気を隠しながら仕事をしている人って、皆こうなのかなと思いつつも、身近に双極性障害で働いている人がいないので、聞くことが出来なかった。
 キャベツの大きさを確認したり、傷物で安くなったバナナをかごに入れたり、お魚のアラを見て家で加工しやすいものを手に取る。薬は効いてきたらしい。余計なネガティブなことを考えなくなってきた。加奈子が会計をしてマイバックに食品を詰める頃には、今日は母親の作る料理は何だろうと胸をわくわくさせていた。
 重いマイバックを持って、加奈子はどうやって家に帰ろうかと思った。バスを使うことにした。二百二十円を財布から取りだしたところで、手帳の控除を思い出す。
 手帳を見せれば半額になるんだ。バス料金。
うーんと加奈子は目をつむり、ポケットの入れた手帳を握った。使わない手はないだろう。バス代もちりも積もれば山となる。収入が少ないのだ。出来るだけ出費は抑えなければ。加奈子はぐっと息を飲んだ。

 バスの運転手はバスをバス停につけて扉を開いた。お客さんがICカードやお金を払って席についていく。高校生くらいの女の子が財布が見つからず、焦っていた。
「ゆっくりでいいですよ」と声をかけると女の子は頭をぺこぺこ下げて、財布を探し出した。微笑んで対応したのだが、それが逆に相手に申し訳なさを覚えさせたらしい。バスの運転手はすまない気持ちになった。一瞬女の子を見て、それから次にバスに乗り込んできたお客さんを見た。丸ぐりの服を着た女性はどこか頬をこわばらせていた。表情がかたい。何か嫌なことでもあったような顔だと思っていたら、精神障害者保健福祉手帳を提示された。顔写真とこわばった顔はいっしょだった。
 あっと思った。口がわずかに開き、目が丸くなる。
とても女性が、そんな者だなんて思わなかった。どこにでもいる女性にしか見えなかった。急がなきゃと思った。
いつまでも手帳を提示させるわけにはいかない。バスの運転手は機械に手をかけ、半額の料金を提示する。女性はそそくさと料金を支払い、バスの奥の座席へと向かった。

 加奈子はバスの座席に座り。唇を噛んだ。
自分は今、なんておかしな立場にいるのだろうと思った。もっと外見的に不自由さがアピールを出来たのなら、障害者だということを証明しても驚かれなかっただろう。

ー私は本当に外面は普通なんだー

 加奈子は頭を抱えた。これから何度、あの乗客を気遣うバスの運転手のような、優しい人の驚いた顔を見るのだろう。何度びっくりされるのだろう。
 傷ついている自分に心が沈む。分かっていたのに、障害者になるということが、どういうことか分かっていたのに。自分の認識は甘かったとしか言えない。
 だけど頼らないと生活を出来ないのだ。
加奈子は拳をにぎり、身を竦めた。

 バスは静かに動き出した。

ここから先は

5字

¥ 100

小説を書き続けるためにも、熱いサポートをお願いしております。よろしくお願いいたしますー。