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【ガチ解説編】70年代が生んだカウンターカルチャー。

さて今回も使いまわしたらいまわしコピペするだけの楽ちん手抜き記事。前回まではタイトルにアクセス上位記事リバイバルとかつけてましたが、タイトルにこれ持ってきちゃうと知らん人まず読まんそもそも誰オマエ状態なので、今回から過去記事コピペは変わりませんがタイトルもそのまんま付けることにしましたその方が少しでも見てもらえるかなと思い。

とゆーわけでいきます年代別カルチャー解説編です。

おっといけねえ引用元貼るの忘れてた、

【ガチ解説編】70年代が生んだカウンターカルチャー

ま、引用もクソもどちらも私が書いたことに変わりないのでどちらでもいいか。







皆様ごきげんよう。


パンクロックとは一体なんだろか。


今回は僕自身が好きでもあるパンクが生まれたとされる70年代、パンクが生まれた背景なんかを少しゴリゴリめに書いていきますので、全然今興味ない方は、直ちにここで読むのを終了して下さい全然面白くないので。






現在パンクという音楽は、単純に音楽のジャンルとして捉えるのが1番分かりやすいが、70年代後半のパンク誕生当時はちょ~っと違った。70年代にロックがどんどん巨大化し、コンサートの規模も技術も質も、これ以上ないという域にまで達した。もはや常人ではとても真似できないような神業を持つギタリスト、最先端の技術を駆使した実験的な音楽となにやら小難しい歌を唄うプログレバンド、厚底ブーツにカツラかぶった性別不明のグラムバンドとか。

(ライブではビームビンビン世界観ゴリゴリなピンクフロイド)


(まるでサーカス団なニューヨークドールズ)



違うんだよ!そーゆーんじゃないんだよ!とこれらのどのジャンルにも馴染めない若者達が勢いに任せて鳴らしたのがパンクロックだったんである。パンクの特徴でもあるノイジーでテンポのやたら速い、粗い演奏と攻撃的な歌詞はロックンロールが本来やってた野蛮性と未熟性を甦らせた。70年代後半に登場した、現在ではリアルパンクと呼ばれる世代で代表的なバンドといえば、アメリカ・ニューヨークのラモ―ンズとイギリス・ロンドンのセックスピストルズである。



極端にこの2つのバンドをあげると、だいたい一部からパンクといえばクラッシュだろとか、いやダムドだ、パティスミスMC5ジョニ―サンダースだろがいなどと声が飛んでくるんだが、そもそもパンク自体よく知らない人、または現在パンクと呼ばれているもののルーツを知りたいって人はまずこの2つのバンドを抑えておくべきだろう。いつかどこかで『パンク知ってる?』『え、パンク?詳しくは知らないけどラモーンズとピストルズってバンドは聞いたことあるよ』とか言っとけばオッケーなバンドである。


ラモ―ンズは74年に結成。

活動拠点はニューヨークのライブハウス、CBGB


このCBGBというライブハウスは今ではパンク発祥の地としてパンクファンの間では聖地的な存在となっている。というのもこのライブ・ハウスに当時出演していたのはラモ―ンズの他にも、パティスミステレヴィジョンブロンディー、トーキングヘッズといった今でも多くのロックファン達にニューヨークパンクとして愛されている面々だったからである。


今でこそパンクといえば「単調でうるさい音楽」「ツンツン頭に破れたシャツ」「革ジャンはスタッズだらけ」みたいなイメージ

(画像はその後より過激に進化したハードコアスタイル)



も定着しているが、それを作り出したのはセックスピストルズであって、当時このCBGBのステージに上がっていたミュージシャン達でそんな恰好をしてたバンドはまぁまずいない。ラモーンズ以外は服装もポロシャツだったりセーターだったり、どちらかというと草食系というか、インテリ的小綺麗な服装で、音楽性も多種多様だったし。

だからルックス的にも音楽的にもパンクと言われてもピンと来ないのがこの頃のNYパンクバンドたちの特徴である。彼らはただ単に自由に、伸び伸びと、メインストリームではチンピラ呼ばわりで門前払いされちゃうような「これが自分たちの聞きたい音楽なんだ!」を無名ながらにかき鳴らしていただけだった。そんな数々のバンドに混ざりながらラモ―ンズが鳴らしたのが、自分たちが好きだったシンプルでストレートなロックンロールだったんである。



ほんとにシンプル。曲に使うコードはせいぜい3つか4つ。熱唱もドラマチックな展開もなく、飛んだり跳ねたりもしない。ただ高速のビートに乗せながら「あのガキをバットでぶん殴れ」「俺はキミのボーイフレンドになりたい」とかごくごく単純なメッセージを歌ってたバイオレンスやな。が単純であるがゆえに、それまでロックが忘れてた大切な何かを思い出させるよなものだったんじゃないかなと。

今振り返るとラモ―ンズがやってたパンクとは、ロックによるロックへの反抗だったとも言える。ラモ―ンズは76年の「ラモ―ンズの激情」から95年の引退宣言まで、同世代のバンドがあっというまに解散していく中、ひたすらシンプルなロックンロールをやり続けたんだが、2001年にヴォーカルのジョーイが、2002年にはオリジナルメンバーでベーシストのディーディーが他界し、その歴史に幕を閉じる。


そんなラモ―ンズのデビューの同年、76年イギリスで1枚のシングル「アナーキー・イン・ザ・UK」が発売される。セックスピストルズのデビューである


ニューヨークで発火したパンクムーヴメントは、ラモーンズ等を筆頭としたバンドのイギリス遠征によってイギリスにも飛び火。その頃のイギリスは経済的な不安に陥っていたので景気も低迷。なんとなーく全体の空気も悪い。特にロンドンの街には職にもなかなかつけず、行き場をなくした若者達が溢れかえる。

(時代が混沌とすると人は何かを誰かを叩きたくなる、の図)


そんなイギリスの若者達の怒りとフラストレーションを満たすのに、もはや難解で長ったらしい「プログレッシヴロック」なんてもんは無用の長物でしかなかった。だってゆったり音楽を楽しむ余裕なんかないんだもん生活もカツカツよこっちは。経済的・社会的不安・不満が高まるにつれて「プログレ」は一気に若者達の間で嫌悪の対象となっていく。シンプルに世の中への怒りをストレートに代弁する人間が必要とされていたのである。


ピストルズの生みの親マルコムマクラーレン


そんな若者の欲求をいち早く察知し、

自身の「SEX」という名の店どんな店名だよ

「ピンク・フロイドが嫌いだ」と書かれたTシャツや、敗れてボロボロになった服などを売り始めた。そして店にはTシャツに書かれたメッセージに共鳴した若者達が押し寄せ、あっという間にそこは行き場の無い若者達のたまり場と化したのである。

(This is ジャパニーズタマリバ)



後期ニューヨークドールズのマネージャーも務めたこともあるマルコムは、この成功によって「ドールズ以上に、もっと過激でもっと人に嫌われるバンドを作ろう」と目論んだ。バンド名は「セックスピストルズ」、メンバーは店にたむろしている若者をスカウトして選んだ。そしてギターのスティーブンジョーンズ、ドラムのポールクック、ベースのグレンマトロック(後に脱退し後任にシドヴィシャスが加入)、そしてヴォーカルのジョニーロットンというラインナップが揃った。が、驚くことに全員音楽的経験は全く無いという純100パーセントの「素人バンド」だった。



こうして作られたセックスピストルズは、マルコムのイメージを現実化するための道具として調教された。マルコムは「客に唾を吐きかけろ!」「ドールズの様になれ」「人に嫌われるんだ!」と、ザ・フーニューヨークドールズアリスクーパーイギーポップなど歴代の悪者、反社会ロッカー達の楽曲を習わせ、メンバー達を仕込んでいった。そんな過激なイメージと振る舞いが功を奏したのか彼等の名前は一気に広がり、シングル「アナーキー・イン・ザ・UK」を発表するに至る。



今まで誰も歌わなかった過激で攻撃的なこの歌は、放送禁止になりながらも見事に若者達の欲求を晴らし、支持され、ヒットする。日本のイメージでいえば尾崎豊の『15の夜』

とか浜田省吾a.k.aハマショーの『MONEY』



あたりの感じか。要は反骨精神的な。そしてこの反骨精神を擬人化させたような男、今やパンクのアイコンとも呼べるベースのシドヴィシャスはそのライフスタイル、ファッション共に若者の共感を呼び、瞬く間に世のスターとなる。



ベースなんかロクに弾けないしライブ中は酒ばっか飲んでるわただの街のチンピラみたいだった若者がスターなんである。という僕も詳しい事情知らないまま当時はファッション真似てました。このシドヴィシャスという男に関してはそれは破天荒な人生でありまして映画にもなってるので、リアルなシドの人生を知りたい方はこちらでも見てください。

(映画|シド&ナンシー)



シングルに次いで発表した最初で最後のデビューアルバム「勝手にしやがれ」はアルバムチャートで全英1位に、女王陛下を「人間じゃない」と嘲笑ったシングル「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」

に至っては、題名が黒塗りにされたままチャートを駆け上がり1位を記録するというわけわからん伝説まで生んだ。


こうしてマルコムの野望は見事達成。


バンドはイギリスのみならず世界の若者達に多大なショックと感動を与え、パンクムーヴメントを一気にメインストリームにまで押し上げた。マルコムのデザインによる彼等のファッション、髪型、言動、全てが新しかったとゆーか時代にバッチリとハマった。これは一説ではあるが、マルコムはアンディウォーホルになりたかったんじゃないかとゆー話もある。ウォーホルがヴェルヴェットアンダーグラウンド

を作ったように、彼もセックスピストルズを作った。既存のロックを、既存の概念や既存のサブカルチャーを破壊したかったんじゃないか。


だとしたらそれは大成功といえる。それどころか、ウォーホルがヴェルヴェッツでやろうとした事以上の衝撃と影響をロック業界と若者に与えた。ベトナム戦争のダメージからまだ立ち直りきれていなかったアメリカとは対照的に、イギリスの若者達にはエネルギーが溢れていた。ピストルズの成功を目の当たりにした若者達は「これなら俺らにも出来るぞー!」と次々バンドを結成、パンクロックによって社会への怒りやあらゆる欲求を吐き出し始めたんである。


このように、70年代という時代でそれまで様々な進化を遂げて来たロックはさらに進化する事を拒み、ここで本来のルーツへ回帰するという動きに変わる。要するにパンクは、前の走者からの伝統という名のバトンを受け取らず、放り投げて、ロックの長い歴史をリセットしたに等しい。図らずもロックは「進化を拒む」という方法によって、新たな時代に突入していくこととなる。こうして、ちょい強引とラッキー的要素によりがむしゃらな進化と成長を遂げた70年代は終わりを告げる。


ここからは僕もみんなも大好きな80年代に突入するわけだが、この時代も賛否両論で暗黒の時代とも揶揄されたり。アホバカクソみたいなお気楽つまんねーチャラチャラ時代なんて風にも言われたりひどいもんだ。まぁこれは細かく説明すると文章倍以上になるので控えめにしよう。なんで80年代がそんな言われ方してたかって理由の1つとしては映画とか音楽とかファッションとか、とにかく70年代のパンクムーブメントとは真逆、なんてゆーかゴリゴリ昭和的強制全員パンチパーマの暴走族


からロン毛アクセキラキラのストリートギャング


に移り変わったみたいな感じ。楽しそうでいいじゃないかとも思うが、それはそれで「なんだよあいつらチャラチャラしやがって!バカ丸出しじゃねーか!」と良く思わないごく一部の人らが言い出してたんだと思いますね。


現に80年代は映画も音楽も名作しか無いんじゃねーのばりに名作だらけ。どちらが世界的に受け入れられたかってゆーとその後見れば一目瞭然。パンクがその後勢力拡大してくってのも無理はあったよね暴力的でなんか怖いし。が70年代当時の出来立てホヤホヤの頃のパンクは何となくその時代のフラストレーションを発散させるための1つの手段だっただけで、なにもパンク=暴力では決してない。むしろファッション雑誌なんかで『今季マストは400%パンクでキメ!』とか出されたり表紙にシドヴィシャスばっか出てたらそりゃ影響されるよ若者は。いや全然わからんって方はどうぞ日本のキムタク全盛期


を思い出して下さい。

思いっきりあれですあれ。

シドヴィシャス

=キムタク


ですちょっとだけシドのが過激だけれど。もちろんその後パンクの精神そのものは消えることなく現在に至り、宗教なんかと同じで解釈違いの枝分かれが起こり、より攻撃的なハードコアパンクなんかも生まれたり。今は細かくなりすぎて〇〇パンクって言葉が多すぎて正直よくわかりません。なのでここらでおさらいしよう、まとめよう。




パンクとは。

70年代の若者は鬱憤溜まってた

刺激的な奴らが現れた

そうだ俺らは不満があるんや

一致団結ユナイト

=瞬時に流行瞬時に収束




つまりパンクは70年代という時代が生んだカウンターカルチャーです。もちろん毎度これは言っとくよ諸説ありますが、ほぼ大筋間違ってないんで。皆さんもどうでしょう、自分の好きなカルチャーもあとから調べてみたら意外と知らない事だらけでマジかよ!聞いてねーよ!みたいなことも沢山あるので調べてみるのも面白いかと思います。今回ここまで書いたので、次回は80年代編、やっちゃいます。

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