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アウシュヴィッツを訪れて


スイスに留学すると決まってから、留学中に絶対にアウシュヴィッツは訪れなければ、と思っていた。わたしはとりわけ戦争や平和について専門に勉強しているわけではないけれど、なぜか昔から第二次世界大戦のユダヤ人ホロコーストだけは「いつか知らなきゃいけない」と漠然と感じていたのだ。そしてそれはおそらく、幼い頃から原爆関連の番組を必ず観てきたからなのだと思う。

昔からずっと、8月6日には必ず家族全員で起きて、NHKをつけて8:15に黙祷を捧げていた。だからわたしには、原爆というもの、そして原爆を通して知る第二次世界大戦というものの存在が、この世代の他の人たちよりは身近なものとして感じられていたのではないかと思う。そしてそれがわたしに、ナチスによるユダヤ人迫害への関心を抱かせた。原爆とナチスのホロコーストは、間違いなく第二次世界大戦の二大悲劇であるのだから。

だから、以前のnoteで宣言した通り、もう一ヶ月以上前のことなのだけれど、単身でアウシュヴィッツ強制収容所を見学してきた。写真とともに、わたしが感じたことや吸収したことをありのままに記していく。少々長いし、ショッキングな写真も多いと思うけれど、どうか最後までお付き合いください。  

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バスに乗って**

指定されて乗り込んだバスは、バスというよりワゴン車と読んだ方がふさわしいような、こじんまりとした車だった。カーブのたびに大きく揺れる狭い車内の中から、外の景色に目を馳せて、死と絶望のみの待ち受ける場所に連れていかれた人々のことを思う。考えれば考えるほど怖くなって、着く前から気が滅入ってしまって、困った。

着いてみたら、天気予報に反して、空が驚くくらい晴れていた。雪が反射してきらきらと輝いていて、なんだか却って哀しくなってきてしまう。そしてこの気持ち、どこかで感じたことあるなぁと思って記憶を辿ってみたら、毎年8月6日、原爆の番組を観ながら「晴れてなければ落とされなかったのに、毎年絶対この日は晴れるんだよ…」と涙ぐむ母親の声を聞いたときの気持ちと同じだと気がついて、また気持ちが暗くなる。

私は感受性がかなり鋭い方であるから、今回のツアーで相当なダメージを受けてしまうかもしれない。けれど、自分の目で観ないことには、何も始まらないだろう。覚悟を固め、ツアーの集合場所へ向かった。


アウシュヴィッツ博物館の中へ

今回は、個人客向けの英語のツアーに参加した(ちなみに予約はすぐ埋まるので、行きたい方は早めに予約を取るようにしてください)。ガイドは金髪のすらっとした若い女性だった。多少の訛りがあるものの、わりかし綺麗なイギリス英語を話し、聞き取りやすい。「段差に気をつけてくださいね」という注意を聞きながら、ついに収容所の中へと足を踏み入れる。

この収容所、博物館に生まれ変わる際に少し改修されたらしいが、床だけは当時の囚人(と呼ぶのは好まないのですが、ガイドさんが"prisoner"と呼んでいたので、囚人と書かせてもらいます)が寝ていた床のままらしい。

こちらがその床。「冬でも、暖房は与えられませんでした。想像してください、今日のような日の夜、こんな場所で寝たら、どうなるか」ガイドさんはそう言って私たちをじっと見つめた。

1940年から45年の間に、130万人がこのアウシュヴィッツで亡くなった。そのうちの110万人はユダヤ人で、14,5万人がポーランド人、2万3千人がジプシー、1万5千人がソ連の兵士だったらしい。最後の2万5千人のその他に含まれていたのは、同性愛者、身体障害者、精神障害者、聖職者など。

私は本当に情けないくらい無知だったので、ユダヤ人以外にもこんなに多くの人が犠牲になっていたことを今まで知らなかった。ちなみにわかりやすく比較すると、さいたま市の人口が130万人くらい。さいたま市に住むすべての人と同じ数だけの人が、このアウシュヴィッツで命を落としたのだ。

次に進んだ部屋のタイトルは、"ROAD OF DEATH"、すなわち「死の道」。不穏なタイトルに胸をざわつかせながら進むと、アウシュヴィッツに到着した人々の様子を伝えるモノクロ写真が何枚か展示されていた。

このように収容所に到着した人達は、2枚目の写真のように、誰もがまず ”selection”、すなわち「選別」を受けて、そのまま殺されるか、収容所で働かされるかが決定される。その判断基準は、”enemies”(敵)、”inferior”(劣っていること)、”useless”(役立たず)、という三つの言葉によるもの。このうちの一つに僅かにでも当てはまれば、即刻ガス室行きが決定する。

こちら3枚目と4枚目の写真は、上が「選別」前で、下が「選別」後。なぜ下の写真は子供ばかりかというと、子供は働かせるには”useless” な存在であるので、大多数が着くなりそのままガス室に連れて行かれたからだ。「シャワーを浴びるよ」なんていう真っ赤な嘘を無垢な心で信じ、明るい気持ちで服を脱いで、あっさりと死んでいったのだ。


処刑された元囚人たちを燃やすのも、囚人たちの仕事だった。彼らは、自分たちの未来もこうであることを知っていたはずだ。一体どんな気持ちで、仲間の遺体を来る日も来る日も燃やし続けていたのだろう。それとも最早、仲間だなんて思っていなかっただろうか。


そしてこちらはガス室の模型。シャワーを浴びると言われて、服を脱いで、部屋に押し込まれて、死ぬまでの時間は約20分。単純な作業すぎて、哀しい。ときどき生き残る赤ちゃんがいたらしい。母親が死なせまいと必死に抱きしめていたから。


そしてここからは、囚人たちが実際に身につけていたものを展示しているエリアへと進んだ。ただの概念だった「囚人」が、一人一人の存在証明と共に実態を持って迫ってきて、どんどん苦しくなってくる。

実際に着用されていた義足の塊。「片足がない」という理由だけで、"useless"と判断され一瞬で処刑されてしまったらしい。

実際に収容所内で使用されていたポットやカップ。

囚人達の絶望を詰め込んだ、名前の書かれた鞄。

子供の靴。先ほども述べた様に、子供も”useless”という理由で一瞬で殺されてしまうことが非常に多かった。

夥しい数の靴。

何より恐ろしかったのが、女性の刈った髪の毛がどっさりと展示されていた部屋。あまりにも見た目が恐ろしいからか、撮影は禁止だった。43000人分の髪の毛で、総量は2トンに及ぶらしい。


次に入った部屋では、囚人たちの写真が壁一面にびっしりと貼ってあった。

彼らは、「選別」を経て生きたまま働かされることが決まると、写真を撮られ、皆同じストライプの服を着せられ、男性は髪を刈られ、番号が与えられた。そして、どんなに暑くても、寒くても、毎日劣悪な環境で11時間働かされた。

もちろん衛生状態は最悪だ。トイレは個室じゃないし、シャワーなんて浴びられないし、服だって取り替えてはもらえない。


これらの写真を見ていると、当たり前だけれど、犠牲者一人一人に、私たちと同じようなそれぞれの人生があったことに気づかされる。家族も、友人も、恋人もいたはずだ。一体誰が、こんな絶望の渦中で命を終えるだなんて想像していただろう?

その恐ろしすぎる有様に動揺する私たちを見て、ガイドさんはこう静かに告げた。「みんな同じ服を着せられ、番号を与えられ、人でないように扱われました。しかし本当は、みんなそれぞれ夢と希望を抱いて生きた人間だったのです。そのことを忘れないで欲しい」と。


人体実験が行われていた部屋。


脱走を防ぐために張られている柵。ここを超えて脱走しようとした人がいたときに、その見せしめとして10人が殺されることとなり、最後に選ばれた1人の代わりに自主的に身代わりとなった、マキシミリアノ・コルベという神父がいる。この話をガイドさんから聞いたときに、なんだか聞き覚えがあるなと思い後から調べたら、中学校の時に聖書の授業(カトリックの学校でした)で教わったエピソードだった。
知識というのは、忘れたと思っても自分の中で眠っているだけで、ちゃんと身となっているのだなぁと実感した瞬間だった。


何人もの人が銃殺された、死の壁。働いていたら銃声が聞こえてくる…文字通り死と隣り合わせの世界。


わかりづらいけれど、この奥に見えるベージュの建物では、何人か赤ちゃんが生まれたらしい。絶望しかない世界に子供を生まなきゃならない母親の気持ちを思うと、なんだか涙が出そうになった。この世で一番希望に溢れる出来事すらも、絶望に染めてしまう世界。そんな世界がこの強制収容所には広がっていたのだ。


実際に使われていたガス室。

そしてここからはバスに乗り、ビルケナウ(アウシュヴィッツにある第二の強制収容所)へと向かう。

こちらがビルケナウのシンボルである線路だ。この線路沿いをみんなでゆったりと歩いて、先ほどの博物館内の鬱屈とした空気を少しリフレッシュすることができた。

ビルケナウは、アウシュヴィッツと比べるとガス室などの施設がほぼ廃墟と化していたものの、囚人たちが寝ていた部屋だけは内部を見学することができた。しかしその部屋もやはり不潔で、とにかく窮屈で、人が暮らしていたとは思えないような空間だった。誰かがベッドの上に置いていったバラの花に、なんだか涙が出そうになったのを覚えている。

ガイドさんは、私たちの目を見ながら「ただのアウシュヴィッツの知識」だけではなくて、「彼女自身がこのツアーを通して本当に伝えたいこと」を英語で真剣に伝えてくれた。だから私はそれを、彼女の意思を、このnoteを通して伝えたい。
日本からアウシュヴィッツは遠すぎて、年間で訪れる人はかなり少ないけれど、この写真や文章から、少しでわたしが感じた恐ろしさ、哀しさ、痛みが伝わったなら本望だ。

ちなみにアウシュヴィッツの後は、ベルリンに移動してまたナチスとホロコースト関連の施設を多く巡った。そのときの話も近いうちに必ず書こうと思っているので、そちらもまた目を通してもらえると嬉しく思う。


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