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アーモンドの花

この記事は1年前、別のブログサイトで書いたものを削除し、大幅に加筆修正してここに掲載するものです。当時と今現在とでは社会の雰囲気(主に疫病に関して)に変化があること、ぼくの行動にも多少の積み重ねがあり、後掲の文章の中身とは若干の異なりがあります。

〔1〕

絵画を観賞するのは好きだけれど、

好き、とおおっぴらに言う程知らないし、

好き、とおおっぴらに言える程美術館に足繁く通うこともない。

明確に覚えているのは2018年の8月、岡山市の美術館で印象派以降の絵画を中心にした『ポーラ美術館展』という巡回展が催されていたのを観賞したのが最も最近だ。

その前後、『絵』に関することでは、新見市まで永田萠展を観に行ったり、大阪までスヌーピーミュージアム展(←大ファン)に行ったりしたくらいで、地元の大原美術館すらここ何年も行ってない。

いずれにせよその頻度では『絵画鑑賞』が趣味だとは、口が裂けても言ってはいけないような気がして。

岡山市の美術展に行く直前の7月のこと、自宅近く、同じ市内で大きな洪水があった。

数日の間続いた豪雨の末、ぼくの自宅の側を流れる一級河川の、少し上流にある支流が大規模に溢れたのだ。犠牲者も多く出たし、同時に西日本一帯で大水害が多発した。

ぼくの自宅は最終的には被害こそなかったけれど、その日、残業をして帰宅後、テレビのニュース映像とインターネットで得られる河川の監視映像を見て危険を感じ、近所の大型ショッピングモールの立体駐車場に自主避難をし、そこで不安な一晩を過ごした。(もちろんノンも一緒に)

それがその年の7月初めの週末のことで、週が明けて出社すると、その洪水で会社の同僚が被災したことが明らかになった。彼も幼い子を含めた家族も避難して無事だったが、家は2階まで浸水した。社内でぼくら数人の有志が水が引いたあとの片付けの手伝いに行ったりだとか、その洪水をもたらした大雨の直後にやってきた真夏が異常なほど暑かったりだとかで、季節の終わり頃、気持ちも含めかなりバテてしまった。

そして体が癒しを求めているかのように、

『美しいものを見たい』

という欲求が俄に高まり、それを静めるために、たまたまテレビCMで目にしたその美術展を観に行くことにしたのだ。

その8月最後の土曜日は会期の最終日の前日で、その日も厳しい残暑だった。

岡山市街地の有料駐車場に車を入れ、アスファルトの上を、遊具のある公園の大きな木から聞こえるクマゼミの鳴き声に襲われながら歩くと、県立の美術館に着いた。

入り口でチケットを買い、展示室に足を踏み入れる。エアコンのおかげで半袖のポロシャツから出る腕がひんやりとする。

薄暗く涼しい館内を、ゆっくりと歩く。

展示エリアは時代ごとにおおまかに4つに区切られていた。同行した妻は順路を先へ先へ進んでしまったのだけど、ぼくは自分のペースで、時間をかけて観て回った。

ルノアール、モネ、マティス、ピカソ。

ぼくでも知っている画家から、

ブラック、キスリング、ボナール。

全く知らないか、かすかに名前くらいは耳にした記憶のある画家たち。

画家によるタッチや、景色や人物の捉え方、色の濃淡、絵筆の塗り重ね方の違いを、素人なりにも見いだしながら、一枚一枚、染み込ませるように、癒やすように、観た。

出口のミュージアムショップで限定の画集も買った。今も折に触れ開くことがある。

そしてその時のことは、行くきっかけになった感情に特別なものがあったので、よく覚えている。

〔2〕

先週末、数ヶ月ぶりに上流の街、高梁市の図書館に行った。今の情勢で暫く足が遠のいていたけれど、行った。

本を読むのも好きなのだ、実は。

でもスローリーダーであることを自覚しているし、多い時で月に2冊、しかも数ヶ月も読まないで平気だっだりするようでは、やっぱり『読書が趣味』だとは口が裂けても言ってはいけないような気がして。

でも無性に本を、それも少し読み応えのあるものを手にしたくなる時がある。今回は6冊借りた。

日本古来の神獣の絵がこれでもかと襲いかかってくるような図録もあれば、ゲゲゲの鬼太郎もあれば、若干学術的と言っていいのかわからないけれど、小難しそうなものもある。

その内の1冊が南米出身の作家の現代文学の本だ。海外文学の書架で見つけた。背表紙の色とタイトルに惹かれて他の書籍に挟まれている中から引っ張りだした。手に取ってみるとずっしりと重く、装丁の色味がぼくの好みだ。

パラパラとその場で数ページめくり、いくつか文字を追ってみる。うん、面白そうだ、と既に借りることを決めた数冊の入ったカゴの中身の一番上に重ねる。

それにしても空いているなあ、と館内を見渡す。そこにいるぼく、ではあるけれど。

小さな小さな街の図書館だから以前から物凄く混むということはないのだけれど、もう少し利用者がいてほしい。小さな街の、とても素敵な図書館だから。

借りる手続きをしたあと、併設されているスターバックスで飲み物を注文した。

帰宅してから改めて借りた本を眺めてみる。

薄いピンクの花がついた何本もの枝。

青い背景は空だろうか。

カバーの内側に折り込まれたところを確かめてみた。ゴッホだった。

あ、へー、ゴッホか。知らない絵だな。あ、でも確かにタッチはそれっぽい。

いや、だから、ゴッホ、、、。

こんな作品もあるんだ。優しい風合いだから、ちょっと意外。もう少し情熱的なイメージが、、

ってどれだけゴッホのこと知ってる?

ひまわりとか自画像、とか?

やれやれ、その程度の知識だ。

そのカバー画のタイトルは『花咲くアーモンドの木の枝』(英語タイトルは単にAlmond Blossom)という。

絵の来歴が気になったので、週が明けて会社の始業前、自分のデスクに座って検索してみた。

画家の名は正しくは、フィンセント・ファン・ゴッホ。あるいはファン・ゴッホ。オランダ人名の『ファン(Van)』は姓の一部だから省略しないのが正しいのだそうだ。

この絵は彼が南フランスの療養所に入所している時、弟・テオとその妻ヨーとの間に男児が生まれ、テオから自分の子に兄の名前(フィンセント)をつけるとの知らせを受け取り、感激してお祝いとして描いて送ったものだという。

弟宛の手紙で『会心の作』だと伝えたともある。

背景の優しい青はそんな経緯があるからか。

アーモンドは桃や桜の近縁種、同じバラ科で、画像検索で出てくる花は確かにそれらに似ている。開花時期も早春で、日本の情緒にも通じるところがあるように思われる。

製作の背景を知ることで、作品に自分の感情をより深く投影することができる。

その後、インターネットで拾ってきたファン・ゴッホのその絵の画像を、エクセルと画像アプリを使い横長にトリムなどを施して、パソコンの壁紙にした。

絵の周囲のスペースは薄茶色の額縁のようにしてみた。

うん、悪くない。

殺伐、とはぼくが勝手に感じていることだけれど、潤いのない、殺風景で、花を飾ることが無駄だと思われていそうな職場の中の、自分のデスク周りだけがやわらかになった気がする。

そして、『壁紙』を見ながらひととき、ぼくの目はファン・ゴッホの目になる。

入所する療養所の木枠窓から見えたのかもしれないアーモンドの花を、ぼくも見る。

百年以上も前の南フランスの早春の空気に包まれる。

離れて暮らす自らの弟、一番の理解者でもあるテオの優しさと、妻、ヨーの心配りに想いを馳せる。

フィンセントと新たに名付けられた赤ん坊の笑顔と声と頬の柔らかな膨らみを想像するとつい顔が綻ぶ。

ぼく自身今まで一度も目にしたことのないアーモンドの花に、いつか初めて触れる機会が訪れたなら、この花がそうなんだと思うのだろう。

アーモンドの花を題材にしたその作品は、テオの死後、その子・フィンセントに委ねられ、今は祖父である画家フィンセント・ファンゴッホの名を冠した生地オランダの美術館にあると知る。きっと作品として幸せなのではないかと考える。

多くの人々をそこ、アムステルダムで迎え入れているのだろう。

いつかぼくも、と思いつつもそんな場所がたくさんあって、実現可能性について検討し、苦笑する。

様々に妄想をしつつ長い物語のページをめくり、ひととき、ぼくは心の豊かさを得たような気分になる。


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