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新聞配達


町の縁を縦貫するバス路線の、その町の中心に最も近い停留所のそばに古びた雑貨屋があった。バス停の横に雑貨屋があったというより、雑貨屋の横に停留所を置いた、という様子だった。路線が通っていたその県道は、当時としては町で一番広い道幅で、黄色のセンターラインが引かれていて、雑貨屋はその県道と別の県道との信号交差点の角にあった。ぼくは毎日夕方の便で届く新聞の束を、その雑貨屋まで取りに行っていた。学区は東北から南西に長方形のような形をしており、東北半分はもう一人の女の人が受け持ち、南西をぼくが担当していた。バス停はその時住んでいた家からわずか百メートルくらいのところで、バスの到着に間に合わなくても、もう一人の女の人がバスから下ろして、雑貨屋の軒下のベンチにぼくの分を分けて置いてくれているか、その女の人も遅れたとしても運転手がベンチに置いてくれていた。ぼくが女性より先にバス停に着いた時には、新聞の束をバスから下ろし、自分とその人の二人分に仕分けて、そしてぼくは自転車のかごに何十軒分かの夕刊の束を突っ込んで自分の区域をまわる。

その仕事を見つけてきたのは母だった。離婚して一年経つか経たないかの頃だ。母は終戦間際のどさくさで教員になり、つまり教える人手が足らないからと、女学校在学中に教える立場になったのだ。教員をしていたくらいだから仕事が途切れることはなかったと思うが、教員になった経緯からひとところで長く勤めるということはなかったようだ。小学校の教諭だったり保育士(保母)だったり養護学校に行ったりしていた。離婚、ということがあったから経済的な心配からまだ小学生だったぼくに、自分のお小遣いくらいは自分で稼ぎなさい、と、ぼくは夕刊の配達をするようになった。土曜日のことは覚えていないが、夕刊だから日曜日と祝日と年末年始には配らなくていいというのは、母からしたら子供のぼくにとっては、休みがあっていい仕事たと思えたのだろう。

ぼくは運動神経が鈍く三年生のときにはヨタヨタだった自転車にも、ひとつ学年が上がる頃にはそこそこまともに乗れるようになり、いとこのお下がりの自転車で配達をするようになった。それまでは小走りで担当区域をまわっていたのだから、それはそれでよくやっていたなと思う。

五年生の途中で、同じ学区内の、最終的に実家(のあった場所)に越してからは、そのバス停は遠くなってしまったが、小学生のうちは続けるという方針になった。中学校に上がれば勉強が忙しくなるというのがその理由だった。

新聞配達そのものは嫌ではなかった。小学生だから時々他のことをしていて配達が遅れたり、雨の日に新聞を濡らしてしまったりしてクレームが入ることもあったが、概ね自分のやるべきことと捉えていた。自転車で走りながら当時流行っていた歌なんかを歌っていた。

ある日。

配達を始めると、級友が数人、ぼくのあとをつけて来た。彼らは何故だかぼくを後ろから囃したり揶揄したり笑ったりしていた。あるいは友人だと思っていたのはぼくだけだったのかもしれない。配達には自転車で小一時間かかっていたと思う。地域の一番シェアの大きい新聞ではなく、担当する家こそ多くはなかったけれど、その分まばらで、そこそこ時間はかかった。

彼らは、その間中、ぼくのあとを付け回して囃し立ててきた。一、二回言い返したかもしれない、覚えていない。けれども止む気配もない。突然そうなる理由がわからなかった。どうすれば逃げられるかもわからないし、どのみち仕事は済まさなければいけなかった。だから嘲笑をがまんして自転車を走らせ続けた。それは家に帰るまで続いた。正確には家に入ってからもしばらく大きな声でぼくに対する悪口のような言葉が浴びせられていた。

ぼくは

どうする術もなかった。

既に帰宅していた兄が、騒ぎを聞きつけてぼくのところに来た。何だあいつらは。知らない。なんか急に今日。

兄が窓を開ける。

お前ら何様のつもりだ、と大声をだして蹴散らしてくれた。高校生の兄は上背もあって、声に強さがあった。

ぼくは、ありがとう、とだけ言って自室に入った。親には伝えなかった。その出来事をどう消化していいのかわからなかった。その学年の時、クラス全員が担任の先生と連絡ノートを交換していた。

ぼくはその日のノートに他愛のない出来事をいくつか書いて、最後に付け足しのように、今日の新聞配達はさんざんだった、とだけ書き加えた。いつもはたいてい返事を書いてくれる先生が、そのことには触れていなかった。その告げ口のようなやり方が、ぼくの知らないところで何か波紋を呼んだのか、それとも取るに足らないことだと思われたのか、今に至るまで耳には入ってきていない。

級友、友達だと思っていた彼らは、この事を覚えているだろうか。兄すらも覚えているだろうか。

ぼくはたまに思い出す。

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