鶴瓶にあって志の輔にないもの

笑福亭鶴瓶さんはバラエティやトーク番組で盤石な地歩を築いていますが、実は落語家としても努力を怠らず、相当な実力者です。なんせ、サウナの中で倶利伽羅紋紋の猛者にひるまず、落語の稽古をぶつぶつしおおせるほどですから。その落語の巧者としては双璧をなす一人、立川志の輔さんとの比較を考える機会がありました。

11月、赤坂のACTシアターの鶴瓶さんの独演会。志の輔さんや立川談春さんで聴いた「徂徠豆腐」がトリの演目です。忠臣蔵の赤穂浪士を打ち首処分にせず、武士の名誉を重んじて切腹処分にする働きかけをしたとされる儒学者、荻生徂徠が登用される前の貧乏学者時代の物語。食い詰めて困窮にあえぐ徂徠を救った江戸下町の豆腐屋のあるじとの交流にからむ情感あふれるネタです。詳しく書くとネタバレで興ざめなので寸止めとしますが、どの視点で語るかがキモなのです。元々は講談ですから、誰に寄り添って語るということはないのですが、それは落語のいいところ。噺家の解釈で如何用にも語り変えることができる。

志の輔さんはどちらかというと、徂徠の視点。スッと背筋が通ってきりりとして小気味良い。これに対し、鶴瓶さんは豆腐屋の目線なのです。これがなんとも愛らしい。NHKの「家族に乾杯」のように、誰の懐にも飛び込んでいく人懐っこさ。これが落語でも生き生きと語られる。庶民の視線、市井の息遣い。それが幕府に重用される大儒学者に上り詰めた徂徠の飛躍を大きく描きこむ。志の輔、鶴瓶のどちらがいいということではありません。でも、その落差、ギャップが大きいほど聴く側に響くのではないかと思うのです。

歌舞伎で言うところの「ニン(任)」ーー。その任にあらず、の言葉でわかるように、その役がその役者にふさわしいかどうか。落語で言うところの「ふら」ーー。何とも言えない、その人の醸し出す可笑しさ。この2つばかりは努力して身につくものではありません。

鶴瓶にあって志の輔にないものーー。それは「欠落」ぶりです。完璧ではない、どこか抜けてる、だらしない、ちゃんとしてない。だけど、どこか憎めない。そこが人を惹き付ける大事な要素なのです。欠けているところが欲しい。芸人だけじゃなく、組織のリーダーにも、何とも悩ましい「ないものねだり」。じーんとしながら、そんな思いに浸りました。

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