会いたい

りさ姉
ちっともゆめにでてこない、元気ですか。沙耶だよ。
もう、ご両親のところにいるのかな。天国でも輝いてるんだろうな。


あたしは22のとき、りさ姉と知り合った。
ちっさなスナックだけどそこそこはやってて、りさ姉は神々しいくらいきれいで話しかけるのが恥ずかしかったよ。ちんちくりんなあたしを可愛がってくれたね。

あたしは看護婦もやってたから、たまにしか会えなかったけど、二人で大好きな服の話とかしたよね。お下がりもいっぱいくれたよね。
あたしが大阪に行って彼氏と同棲しておじゃんになって3年で帰ってきたときも変わらずきれいで、再会を喜んだ。

でもりさ姉、足が痛いって言った。足の付け根が痛いのって。私は整形外科かなー?なんて薦めたけど、事態はもっと深刻だった。
子宮癌の骨転移。5年前にとった癌の再発だった。
りさ姉には身寄りがなかった。月命日には必ずお坊さんを家に呼んで、ご両親の供養をしてた。

りさ姉は涙を見せる人じゃなかった。あたしの友達に、カットをお願いしたときも(抗がん剤で抜けるからって長くてきれいな髪を切った)なにひとつ
不平も言わず、ありがとう、って言ってた。
でも最初の手術の朝、お守りもっていったら、赤い目してた。
初めてで、最後の涙。

手術は、成功したのかわからないが、日々は過ぎていく。
髪はだんだんと抜けているようだった。あたしは隠れてりさ姉の髪をもらって帰って、今もしまってある。
病院からうちまでとても近かったので毎日のように通った。
あたしもぼろぼろの精神状態になりながら必死に彼女の要求にこたえようとした。一時は40キロをきり、経管栄養剤を飲んでた。どっちが病気か
わかんないねーなんて笑いながら。あたしはもう暴走してた。
りさ姉の手となり足となる。それがあたしの今の生きている意味。

抗がん剤は1度目は体力が持つ。でも2度目は大体体力を奪われて弱る。
細い体で、なんど辛い吐き気と頭痛、痛みに耐えて、平静を装ってたのだろう。あたしにはただ腰をさするとか、足を洗うとか、手を洗うとか、マニキュアを塗るとか、そんなことしかできなかった。

あたしは家族じゃないから、病状はドクターに告知してもらえない。だから、予測、でもいい予測が立たないんだ・・・

「沙耶ちゃ、もう、あたしこの病院で見てもらえないんだって」

ある日りさ姉がボソッと言った。

「わかったよ。最期の場所、さがそか」

最期の場所は、ホスピスです。私は彼女のカルテとレントゲンを持ってめぼしをつけていたところに代理受診をした。
ここならさびしくない。と。
でもりさねえは別のところを指定してきたので、かなわなかったね。
私ももう限界だったから、転院のお願いが出来なかった。ごめん。
私も記憶が飛ぶくらいきつい睡眠薬をのまないと眠れなくなってた。

最後の日は、近づいてきていた。お葬式の段取りと遺影、花はこれ、と
まかされたのに、そのときに限って、腹違いの親戚が現れた。
いやなやつだった。

りさ姉の小さなころの写真も預かっていたのにその人に任す、おそうしきもだいたい・・・
いまさらなんで出てくるわけ?代理受診とかなんでしないの?
見舞いはなんで目の前の病院なのに来ないの?

りさ姉には少し財産があって、委任状を持っていって私は800万円を銀行でおろした。きっとその親戚には任せたくなかったんだろう、とおもう。

最期の日、りさ姉は軽くいびきをかいていたね。
なんとなく、もう逝っちゃうなっておもった。38歳で。

お葬式は蘭の花に囲まれてたね。あたしもエンジェルケア、したね。
若すぎるよ。またお茶にいこって言ったじゃん。
またおそろいで服買いに行こうよって。

あれからもう11年たつね。あたしきれいでいたいけどりさ姉みたいには
ちっとも近づけないよ。
りさ姉がいなくて寂しくて、つまらなくて、なんで人間は死ななきゃいけないの?なんでりさ姉はそんな若さで死ぬの?って。夢でもいいから会いに来て。またおにぎり作るから。

人間はちっちゃいけど、人の存在はすんごく大きい。
あたしは強く生きなきゃとおもう。でも弱い。
あなたは大好きな人が、だんだん衰えていくのを、想像できますか?
避けられない死を受け止められますか?

命が生まれて、死んでいくまでに関わる人間は何人かわからない。愛するのも。でも、今愛している人がいるなら、精一杯愛し合ってください。いないなら。自分を精一杯愛そう。  

りさ姉、待っててね。                                                     沙耶                                 












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