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判断基準と科学と現実 -自然派という繭についてー

発端はこのツリーの一部が切れ切れにTLに流れてきたことだった。

ツリー一部が先にツイッターのTLに流れてきていたのを読んだ時には、情報不足の人が陥りやすいワクチン不信だなと思っていたのだが、そうではなかった。不妊治療と出産でしっかり現代医療のケアを受け、そうやって授かった子にワクチン接種をするにあたって、湧いてきた疑問について、検索して誤情報もたくさん集めているが、医師とも話して、説明も受けている。

可愛らしい菜食クッキング動画も流していて、自然派の暮らしを好ましく思っている人らしく、だから納得できなかったのだろうとは思ったが、海外で不妊治療と出産をやり終えていて、勇気のあるしっかりした人なんだろうという印象だった。

ここで生じている戸惑いや迷いはワクチン接種の話題を追いかけていると、よくあるもので、ここから二人目以降にもワクチン接種をせずに育てる方向へ行く人もいれば、ユーラ・ビスのように本一冊分の考察をして、誰にも見えていなかった世界の仕組みと実情を見出してしまう人もいる。

子どもができて考えた、ワクチンと命のこと 

だから、ここで集めた(大いに矛盾していたはずの)情報をさばききれずに、誰も自分が納得できる知識を与えてくれないなら、「自分が後悔しない選択をする」と判断しても一向に変ではない。

むしろ現代で育ち現代の提供してくれる諸々を享受してきた若い女性なら当然ともいえる。だが、残念ながら、他のことならば清々しい決意であったはずの「後悔しない選択」はこの件に関しては大間違いで、もっと大きな後悔に繋がってしまう可能性がある。

この女性(便宜上、以後、彼女と呼ばせてもらう。)のような人は本当にたくさんいる。そうした人を見下したり罵ったりせずに、「後悔しない選択」の危うさを伝えて、もっと良い選択基準があることを伝えていくにはどうしたらいいのだろう?

ここ数日だけではなく、ワクチンにかかわるようになってから、ずっと考えている。

まずは後悔しない生き方をしたいという願いについてだろう。

頑張る人ほど、自分が頑張ってきたものを無駄にしたくないと考え、無駄にしない方向で選択をしようとする。さらに真面目に頑張る人ほど、自分が人生を選び、目的に向かって努力を重ねているという実感を持ちたいと考える。目標を定め、そこに到達するためのベストな選択を繰り返し、最速最短で達成する。学校が教えてくれる生き方でもあり、周囲から賞賛を得やすい行動だから、修正は難しい。

この生き方で成功してきてしまうと、人生は単純になりやすい。迷って揺らぐことがあっても、より良い選択をすれば希望が開ける。めったに失敗をしないから、失敗の奥深さを味わうこともない。偶然に支配された結果、思わぬ成功や幸福に出会うこともないから、行き当たりばったりに生きているのに幸せそうな人も理解できないし、積み重ねてきた努力をチャラにしてしまうような選択はきっと後悔に繋がると考えてしまう。

だが、後悔をするもしないも自分の心次第だ。つまり、過去の努力を無駄にしないような選択をするかしないかではなくて、後悔しないと決めればそれでいいだけの話なのだ。

過去の投資や努力を無駄にしたくないと考えるのはサンクコスト(埋没費用)効果、別名コンコルド効果という心理で、ギャンブルにつぎ込んでしまったり、投資に失敗する心理といて有名だ。

つまり、「自分が後悔したくない」を判断基準にしてしまうのは、はなはだよろしくない、失敗への道で、後悔への近道だったりするのだ。

そんなことはないだろうと真面目な人たちからは反論が来そうだが、原発事故のあとにも、何もなければ後から笑えばいいと言いながら自主避難や移住をした人たちが結果として生活基盤を失ってしまっているのを見分している人も多いのではないだろうか。

ワクチン接種をためらう理由としては、この「後悔したくない」が世界的にみても主流のようだ。

後悔しない選択とは

では、何が正しいかわからなくなってしまった時に、何を基準に選択していけばいいのだろうか? 一つの方法はとても嫌われている、「みんなと一緒」だ。

ユーラ・ビスは、現代社会のサービスを選ぶ行動はしていても一人で生きていると思っていた自分が、生命や健康といった部分に至るまで、有機的につながって相互依存していることを見出して本人も驚き、読者も驚かせた。人間は群れで生きる動物で、個人という存在であっても生理的な部分までがお互いに繋がることで生きている存在なのだ。COVID19のパンデミック下を生きることになって、これを実感している人も多いだろう。みんな一緒に生き延びる。弱い人を切り捨てたり、かってに逃げ出せば社会が機能しなくなり、巡り巡って自分の生存をも危うくする。

自分の子どもを親だけが守る時期が過ぎれば、子供は自分と同じ年代の人々とお互いを支えあう社会に参加していく。そうなったときに、ワクチンで防げる感染症にかかりやすい身体であることは、集団にとってのリスクでしかなくなる。

「言われるままに何も考えずにワクチンを接種した」他の子どもたちが作る集団免疫で守られるかもしれないが、堤防を決壊させるアリの穴的な存在になるかもしれない。こうしたことについては、心が嫌だと言っても十分に考えるべきかと思う。そうした結果、心ひとつで後悔しないこともできるのだから。

もう一つは、確率と統計を学ぶことだ。リスクを見極めるうえで、このスキルは欠かせない。残念ながら日本の学校教育は、よりよい判断をするためにどうやって実際に統計と確立を使っていくのかという十分な訓練はしてくれていないようだ。「消費者教育」として広告でおなじみの「89パーセントの人が潤いを実感」がどういうアンケートからどのように導き出されているのかなどをやってみる体験があるとないとでは大違いだし、障害が出た人の母数は?と言われて、なぜそれを聞かれるのか理解できるか、出来ないかは、多くの場合、疑問を解消出来るか出来ないかの分かれ道になってしまう。

さらに気合を入れて、医学分野の勉強に取り組むこともできる。医療専門家と同じとまで頑張る必要はない。何の話をされているのか理解できるまででいい。労力がかかって、困難な道だが、満足度は高いし、今後の人生の糧になってくれるはずだ。反ワクチン誤情報に接した人々が強く薦める道なのだが、ただ、私はあまり良い方法ではないと思っている。

看護師から、ノーベル賞受賞者まで、しっかりと科学を身に着けているはずなのに、正しい判断ができなくなってしまっている人のなんと多いことか。

科学は現実世界を理解するためのこの上もない道具なのだが、科学によって明らかにされる現実世界は容赦なく厳しい。人間はその厳しい現実を生き抜いてきた勝者なのだが、群れで生きる生物であるがゆえに、全員が全員現実に直面できる強さとスキルを持っているわけではない。

スキルを持つ専門家と、決断をするリーダーを頼り、お互いに厳しさから守りあい、ふわっとした幸せの繭を作って生きているのが現代に生きる人の姿だと言っていい。

自然派という繭

現代には現代の生きる厳しさがあり、幸せの繭をうまくつむげない人も多数いる。だが、中・先進国の住人であれば、産業革命以前の人々が直面していた、荒れる天候と自然災害と栄養不足と疫病に悩まされ、幸運な人だけが生き延びて子孫を残し、病苦で短い生涯を閉じる生活とは段違いの安定した長い一生を送れる。産業革命は極めて短期間で、これを可能にしてくれたので、過去の記憶は変更され、優しい自然という幻想が生まれた。ドイツで、イギリスで、そして厳しい自然と対決している開拓者の国アメリカでも、余裕のできた都市住民を中心に「人に優しい自然」が生まれて、機械と技術と人工物に疲れた人々を癒やしてくれるようになった。生存のために自然と戦う必要がなくなった都市住民は、都市近郊の(自然と格闘する農民たちが整えた)田園とその先に広がる人手が入って厳しさが和らいだ、空気の澄んだ野山をステージとして日帰りで楽しめるサイクリングやハイキング、スキーやゴルフ、水泳や体操、ダンス、家庭菜園、ガーデニング、手仕事などの余暇活動を楽しんだ。自然をも変化させながら逞しく発展する工業化社会と資本主義の中で、野外での余暇もそのステージとなる優しい自然も増え続ける都市住民を顧客とする商業的な存在として大きく発展した。

一方、日帰りで都会での労働に戻っていく人々よりもさらに余裕がある階級の人々の中には、優しい自然を一種のユートピアと捉えて、ここで暮らし続けたいと考え、自給自足コロニーや芸術工芸村、田園都市構想を立ち上げる人も出てきた。現代社会へのアンチテーゼとして真剣に取り組めば、ほぼ例外なく失敗して終わる生まれてははじけて消えるシャボン玉のような幻想のユートピアだが、始める人は後を絶たない。そうこうするうちに、現代社会の都市生活の一部となり、お金を出して購入できる存在となった優しい自然の楽しみと癒しをうまく組み合わせて、繭を作ることで、ユートピアもどきとすることも可能になった。こうして生まれたのが、自然派という生活スタイルだ。

自然派への出家

幻想のユートピアもどきである自然派の暮らしを際立たせて特別な魅力を持たせるために、使われているのが、同じ時期に生れたスピリチャルなどの疑似宗教的な仕組みだ。ユートピアを夢見た人々が共有していた工業化された現代社会への批判を「教義」として、現代社会の恩恵を少しずつ捨て、自然派のために用意された代替品で埋めていく。自分が耐えられるぎりぎりまで少しずつ捨てていく。代替品は自然の衣をまとっていても、現代社会で生産され、工業化された都市生活で使える製品なの何の心配もないが、少し値が張り、特別感がある。今まで一緒に過ごしてきた家族や友人という「みんな」とは違う自分だけの世界が出来上がっていき、話が通じる新しい友人ができる。もっとと望めば、さらに「普通」を捨てて、「みんな」とも別れ、幻想の優しい自然の世界に入っていくことになる。

本物の自然は容赦ない

問題が起こるのは、この繭を出て現実に戻らなくてはいけなくなったとき、或いは繭に現実が侵入してきたときだ。自然災害や、新型コロナ感染症の流行のような優しくない自然があちらからやってきて、自分の暮らしと命を守る必要が出てきたとき、幻想の優しい自然は何の役にも立ってくれないのが明らかになってしまう。幻想の自然は癒しを与えてくれるかもしれないが、本物の自然は容赦なく人間を翻弄する存在だ。日々の暮らしの中で少しずづ溜まってきていた違和感が繭の割れ目から強い光を放つ現実に繋がって、自己正当化を支えてきてくれた理屈が力を失ってしぼんでいく。
だが違和感を感じるたびに全力で打ち消してきてしまっていて、今まで捨ててきてしまっていた現代の科学技術に立ち戻るのは困難な人もいる。混乱して怒りをぶつけたり、裏切られた気持ちになって、ひどく傷ついてしまう人もいるだろう。
救ってあげたいが、どう言葉をかけたらいいのか。

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