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何となくの相互の信頼

バスに乗っている時に、眠気がやってきた。うっかり降りるバス停を逃すかもしれないので、眠らないように頑張っていたが、目を閉じてしまった。眠っているのか、起きているのか、その間のようなぼんやりとした状態で私は、バスの中で眠れるとは、なんと幸福なことだろうと思った。

見ず知らずの人が多数乗っているバスの中で、寝ている間に何をされるかわからない。物を盗られるかもしれないし、危害を加えられるかもしれない。そんな危険性があることは承知しつつも、私はそれらが起こらないであろうと思っている。危険だと思っていたならば、緊張で眠気を感じることもできないだろう。

もしも何かあっても、運転手は助けてくれるのではないか。そういった信頼もあるのだろう。私はバスを利用することが多いので、運転手に嫌な言動を取られた経験もある。それでも、全体的に運転手という存在は信用できると思っているのだ。その理由は、丁寧な運転手がいることを知っているからであるし、丁寧とまではいかなくとも、ごく普通にバスを運行してくれる、多くの真面目な運転手の仕事ぶりを感じているからでもあろう。

他の乗客に嫌な言動を取られた経験も、もちろんある。マナー的にそれはどうかと思う場面を目撃することも多い。だけど、お年寄りが乗り込むやいなや、ぱっと席を譲る乗客の姿を見かけることもある。乗客には善良な市民のほうが多いと私は思っている。

どこにどんな人がいて何をするかはわからない。誰かが良からぬことを起こす可能性はいつだってある。人が意図しなくとも事故が起こることもある。社会は不確定で、不安定だ。だけど、それに対する不安な気持ちを大きくしたままでは、どこにも行けない。

だから、たまたましばらくの時間を一緒にする他人を信じるほうに、重きを置いて接していく。自分も、誰かに不安を与えないように動く。そんなふうに社会は、何となくの相互の信頼関係で動いている。移動する小さな社会であるバスの中、そんなことを思いながら、目を閉じていた。

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