「楽しくない」と思っていたら、別の「楽しくない」を引き寄せてしまうのか
昨日、「楽しくないものがあってもいい」という記事を書いた。
今日はその続きのような記事を書こう。
昨日の記事の内容はタイトルのままなのだが、「楽しくないものがあってもいい」であり「楽しくないものを書いてもいい」であり「楽しくない気持ちでいてもいい」である。楽しくなるようないいことのほうが希で、楽しくない気持ちでいることのほうが多いのだから。
この記事中には書けなかったが、私はまた「無理に楽しそうにふるまわなくてもいい」のではないかと思っていた。笑う門には福来たるのかもしれないが、つらさを押し殺してまで笑わなくてもいいのではないか。泣きたい時は泣いたほうが自然で楽なんじゃないだろうか。涙が出なくなるまで泣ききってしまったほうがすっきりすることもある。
ここで泣ききってしまえば、それで終わりにできるだろう。問題は、泣きが納まらない場合だ。何もしても悲しい。つらい。楽しくない。そういった気持ちで過ごす時間に、新しい「楽しい」はやってくるだろうか。楽しくないなという心で見る世界は、やっぱり楽しくなさそうなのではないか。
つまりはこう言いたい。「楽しくない」と思っていたら、別の「楽しくない」を引き寄せてしまうのではないか。
こんなことを言い出すには理由がある。楽しくはない昨日を過ごした私に、今日、もっと楽しくないことが訪れてしまったのである。それはタイミングの問題であり、昨日の私が楽しく過ごしていたとしても、今日の楽しくない出来事は避けられなかったのかもしれない。しかし、落ち込んでいるところに落ち込み要素を追加された場合のダメージは、落ち込んでいなかった場合の倍はあると思う。弱り目に祟り目である。
弱っていなければなんてことのない出来事も、弱っている時には強く感じられたりもする。嘘でもいいから弱っていない感じで過ごしていたら、新しい楽しくなさの威力を和らげることができたのかもしれない。
では、無理にでも楽しそうにするべきなのか。ここで「そうだ」と言えない私がいる。楽しそうにすること、それはいい。ただ、楽しくするために押しやってしまった楽しくない気持ちは、どこに行くのだろう。見えなくなったとしても、私のどこかにひっそりと残っていると思う。そして、よくない気持ちだからと無下に扱われたことを悲しむのではないだろうか。楽しい気持ちも、楽しくない気持ちも、同じ私から生まれた気持ちなのに、この差である。楽しくない気持ちがかわいそうではないか。
解決の方法は先に書いてしまっていた。「涙が出なくなるまで泣ききってしまったほうがすっきりすることもある」である。泣ききったり、怒りきったり、悔やみきったり、楽しくない気持ちを残さず味わいきるのである。涙は無限ではないし、声もかれる。底までたどり着いてやることがなくなったら、あきらめて立ち上がるしかない。もうどうでもいいかと思えるかもしれないし、苦笑のひとつもできるかもしれない。
楽しくない気持ちでいるところに、別の楽しくない何かがやってきたっていいじゃないか。ひとつ増えたくらい、誤差だ。
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