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私と父。(4)

こんにちは。
書き始めた、”私と父シリーズ”もしばらく時間が空いてしまっていました。
何を書いていたかなと、私も過去の記事を読み返しておりました。
前回までのお話はこちらです。


上京生活バラ色?

遠距離でお付き合いしていた方と結婚を決め、上京することになりました。
一緒に生活を始めて、新婚ホヤホヤの気分を味わうかと思いきや、一人暮らしとの違いに大直面。
言い合いも絶えず、夫との関係性も当時は決していいとは言えなかったと思います。

私はなんのために結婚したんだろう?と自問自答する日々。
そんな状態でしたので、両親と連絡をとることも億劫になっていました。
そんなときに、突然母(記憶があいまい)から連絡がきました。

「お父さんが病院に運ばれた」

この時の記憶がほとんど思い出せないのですが、父に何が起こったのか、ショックでまともに呼吸すらできなかったと思います。

父は突然気を失って倒れた後、すぐに意識を取り戻しを繰り返していたようです。
どうやらこの出来事は今回だけではなかったと後に聞いて知りました。

治療の末、退院した父でしたが、またも呼吸障害が発生し病院に運ばれました。
その時、医師からは
「会わせたい人に会わせるように」の言葉。
もう長くないと言われたと母から連絡が来ました。
慌てて休みをとって、父がいる病院に駆けつけると、危篤と言われていた父が目を覚まし、話をしているではないか。
あっけにとられるとはこのことだと思います。

とにかく安堵。
父は奇跡の復活を遂げたのでした。

それでも寝ているときは、空に向かって何かを書いている様子で、もうろうとしている姿を見て、涙がとまりませんでした。
三途の川が父には見えているようにも見えました。

もっと父に何かできたのではないだろうか。
果たして私は、何かしてあげてこられただろうか。
そんな自問自答の時間でした。


病気がみつかる

2度めの入院の検査の末判明したのは、「胸腺」という胸骨の裏にある組織に悪性腫瘍があるということ。「胸腺がん」でした。
この組織は、免疫と関係のある役割を担っているようで、幼児期まで活発に働くようですが、大人になるにつれて小さくなっていくようです。

非常に特殊な場所ということもあり、研究も進んでおらず。
この組織に特化した治療法というのはまだまだ確率されていないということでした。
腫瘍が大きくなりすぎていたため、摘出ができないとの判断でした。
肺がん治療に使用されている抗がん剤に望みを託し、治療を開始しました。


闘病生活が始まる

父の闘病生活が始まりました。
父は病気になった自分自身を責めていました。
そして病気が判明してから、父に異変が出始めました。
短期記憶の欠乏です。
さっきまで誰と何を話していたのか、自分はごはんを食べたのか、何を食べたのか、お風呂に入ったのか、どこにものを置いたのか、といった短期記憶が一切覚えられなくなりました。
医師から言われた言葉は、「高次脳機能障害」でした。

そんな状態の中でも、父は起きた出来事を覚えていようと、メモや日記に必死に書き残していましたが、おしゃべり好きの父から生気がなくなり、すっかり父は寡黙な父となっていました。


実家に帰る

父一人での通院ができなかったので、ときには近くに住む父の兄姉の手を借りたり、母が仕事を休んで通院治療をしていました。
母も仕事が多忙なこともあり、いっぱいいっぱいになっていたように思います。
私自身も遠隔でできる限りのことをしようと思い、日々連絡をとるようにしていましたが、父が一人で母の帰りを待つ姿を想像して、耐えられなくなってもいました。
私の夫から言われた言葉。
「あとから後悔しても遅いんだよ」
そんな夫の言葉に背中を押してもらい、私は上京してから働き始めた仕事をやめ、しばらくの間、実家に帰ること決めました。

父と一緒に過ごすために。


私と父。(5)へつづく



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