見出し画像

tour空想

ライブで思ったこと、なんとなく忘れたくないからここに書いておくことにした。

米津玄師(以下、米さん)を聴くようになったのは本当に最近で、1年と半年くらい。米民の方には申し訳ないけど、あの「lemon」さえ知らなかった^^;
(「パプリカ」も知らなかったの!?と友達にびっくりされた)
あちこちで耳にするので聞いたことないわけではなかったけど、それが彼の作品、、、というか米津玄師すら知らなかった。

じゃ、何で知ったかというとYouTube開けたら「POP SONG」のMVがあってね、、それだけ。ゲームしないし、TV持ってないし…不思議だねAIって。

あのMVがとても気に入って何度も観てた。(それが米津玄師という人だと知ったのはもう少し後だけどw)それからしばらくして、どんな曲作ってるのかな?とあれやこれや聴き始めたのがきっかけだった。でも聴き始めてわかったけど、結構耳にしたことある曲が多かった。

人そのものに興味を持たないとライブに行ってみようとは思わないタイプなので、とても久しぶりに“この人のライブ観たいな”と思った。その時から「tour変身」に行くまでのいろいろは、長くなるからいいとして、諸々のそれが始まりで米津玄師というミュージシャンに興味を持ったのよね。

「変身」のツアーが終わってから彼はradioで “今まで人の顔もほとんど見えてなくて、このツアーで初めてコンタクトを入れた” “自分は今まで色んなことを取りこぼしていたかも知れない” なんてことを言っていたんだよね。
「おおお!?」私はこの話を聞いて、次のアルバムが楽しみでしかなかった。

ミュージシャンのルーティーンってよくわからないけど、曲作って、アルバム出して、ツアーして、って感じなのかな?きっと「空想」前にアルバムが出るんじゃないかと勝手に楽しみにしていた。

じわじわライブを待つ日が続いているある日、顔を出した米さんの画像が飛び込んできて、、、またもや「おおおおお!?」もー、ライブも楽しみだけどアルバムが聴きたい衝動に駆られてたよw

人に変化が起こると、その人から滲み出てくるもの?が変わるじゃないですか。それは、私のまわりにいる人もみんなそうで、それが芸術家となったらやっぱり作品が楽しみなわけですよ。
なんて、ことを思いながらライブの当日になりました。(やっぱりこんな短い期間じゃアルバムはでないのかぁ…)

湯婆婆だったらいいのになw


前回のライブも帰り雨だったなぁ〜。木陰で雨宿りしながら開場を待つ。
たくさんの人が会場周辺にいて、傘だらけ。みんなワクワクしてるんだろうなぁ。。。

ふと、
彼は自分にこんなたくさんの人が集まってくれるのをどんな風に感じているのかなー、なんて時折、雫を吹き飛ばすためにブンブンしてるカラスを見ながらそう思った。

会場に入る。人生2度目の米津玄師のライブだ。

会場が暗くなって、毛穴が開くような鳥肌が立つようなゾワゾワ感がくる。一斉に椅子のギシる音。みんな立つんだなぁ…座ってるけど(私)。光と共に歓声が響く。

あんなに待ち遠しかったライブ、、、なのだが、はじまった瞬間、
“あれ?米津玄師ってこんな感じの人だっけ?前回のライブでこの人、こんな感じだった?こんな明るい感じの人だったっけ??” まわりが盛り上がってる中、1人で「あれ?」と遅れをとる。別にそれがいけないわけでも、否定してるわけでもないんだけどぉ。本当にそう思ってしまってプチフリーズした。(すぐに解凍したけどw)

ライブレポートは米民さんたちが書いてるから良いとして、帰りの電車の中(←もうここw)ぼんやりと、彼の中できっといろんな変化があったんだろうなぁ、と。コンタクトも入れたし、顔は出てきたしw

人が変わってゆく様って綺麗だなって思うんだ。光放つというか、光が増すというか。

付き合いの長い友達にそれが見える時、ワクワクしたりドキドキしたりする。そんな瞬間がたまらなく好きだったりもする。人って生きてること自体、芸術だと感じるし、人生自体がARTだなと思うんだよね。


作り出されたものは責任を持たなければいけない。


鼻つまんで湯船に仰向けに潜るのが日課なんだけど(みんなするもんだと思ってた…違ってたw)浴槽の底から水面の裏?見たり、目を瞑ったり、思考にされるがままに見えてくる何かを追っかけるのね。それが好き(たまに息継ぎ)

昔読んだ本に「芸術家から作り出されたものは、それを作り出した者が責任を持たねばならない」そんなこと書いてあったんだよね。

苦手な画家がいてさ、すでに亡くなっているんだけど、惹きつける魅了があるんだろうね、よく巡回展を見かけるよ。

すでに彼はいないけど作品からはものすごいエネルギーを感じるわけだ。常に一定というか、いつもの安定の同じエネルギー。その画家さんは遠の昔にお亡くなりになっているので作品たちは、最後の日の彼の状態をまとっているのではないかと思ってしまう。その当時の彼を常に放っているような気がするんだ。だから安定のって言葉使っちゃったんだけどさ。

ライブが終わってからしばらくは、米さんの曲ばかり聴いている。ランダム再生すると、当然昔の曲も流れてくる。でもさ、聞こえ方が違うんだよね。(私の勝手な感じ方だからね)うまく説明できないんだけど。。。

もしかしたらその芸術家から作り出されたものは、その人が生きている限り変化し続けるんじゃないかと思ったんだよね。今現在、作る作品と当時作った作品では、現在の方がより洗礼されているだろうから、当時の作品が今の作品と同じ質量の光を放つことは難しい気はするけど。でも「過去のもの」っていう停止している感はないじゃん。

今の彼から遠くにいる曲たちも、実は今でも彼とリンクしていて、作品たちも脈打つし、呼吸をしてるように感じた。遠ければ遠いほど微かにだろうけど。


時間があるから美術館へ


「POP SONG」の頃は別々の人に…

POP SONGの頃、彼が歌っているライブ映像を初めて見た時に2つ思ったことがあったんだよね。

ひとつは、リンクしなかったこと。
話してる彼、歌ってる彼、MVの中の彼。全部別の人に感じてて、頭の中で同一人物にならなかった。別にそれがいけないわけではないし、それはそれでまた面白かったけどね。

でも、今回初めてスルスルと重なり合って1人になった。それがなんかとても気持ち良かったし、ピントが合うって感じで心地よかった。

もうひとつは、米さんの曲をあれやこれや聞き出したころ「自分のことを丁寧に扱おう」って思いがなぜか沸いてきたんだよね。何かのひとつの曲に影響されたとかではないんだけど。なんかねー「鼻歌さえ丁寧にうたお♡」と謎な思いが湧いてきて、友達に話したら笑われたっけw

彼の曲を聴いてると幼少期〜30くらいまでの頃限定で、感覚だけ思い出すんだよね。着地しないから、その当時を浮遊してる感じで。“好きだった何か”の中を泳いでる感じとでもいうのかな…それと何か関係しているのかもしれないって思ってた。

自分を丁寧に扱うってーのは、甘やかすのとは違うんだ。敬意を払うというか、自己尊敬というか、自己肯定というか…だからと言って自分のこと否定するタイプでもなかったけどさ。


雨の美術館は好き。


見分けられないタマゴ

デビュー当時の彼の記事を見たことがあって、雑誌開いた瞬間に、苦手な画家の雰囲気を感じて、ちょっとびっくりしたw

LIVE MCで
“「ありのまま」って言葉がきらいだったった” “自分は生きづらかった”
“オレみたいな奴がこの中にもいると思う。でもそんな自分が今こんなところにに立ててる。人生は満更でもない” てなことをと話してたように思う。

何かの本で読んだのだけど “腐ってる卵も生きてる卵も、途中までは見分けがつかない。だけど生きている卵はその腐敗しているかのように見えるものを全て取り込んで殻を破って生まれてくる”ようなことが書いてあったと思う。

このMCを聞いた時、この話を思い出したよ。

あの画家、なんで自ら人生終わりにしちゃったんだろなぁ…


“これからもみんなで美しいものを探していこう” 

みたいなことも言ってたな。
散歩中、お寺の掲示板に「泥中の蓮」。7月頃によく見かける。こういうものを見ても米さんを思い出すくらいじゃ、もはや私にとって彼は修行僧に見えてるのかも知れないw

生きる術とでもいうのかね。生き方を模索しながら、ちょっとづつね “米津玄師”を完成させるようなね、それをすごく感じれるのが好きなんだろうな。手放す何かがあるから、その分、放つ光が増すような…それが彼を見ていて美しく感じる部分なんだろうな。(しかし、あの名前だし…ワンチャン修行僧かもしらんww)

蓮って冬にはなんもなくなるだけど、沼底で蓮根がずんずんと先へ先へと進んで進んだ先から時期になると浮き葉出すんだよね。水の深さでも測ってるのかな。あまり水深が深いと蓮向きではないらしい。それで節から立ち葉出して、傍から花芽が出てくる感じ。花は数日間開いたり閉じたりを繰り返して、花びらが落ちる。そしてあのシャワーヘッドみたいなとこにタネ出来る。タネが熟成してくると、タネが入ってる穴の部分が大きくなってきて頭が垂れていきタネが落ちるのね。でもタネはめちゃくちゃ固くてさー、それこそ人がニッパとかで割らないと発芽できんのよ。なんかそれも人生みたいだよね〜。まだ人の能力はこんなもんじゃないよ!的な(←完全に脱線ww)


みんな未完成なんだろうなぁ。

米津玄師を知った時に感じた「自分を丁寧に扱おう」は、今思えばヒント?だったように思う。こういう“縁”もあるんだな、と近頃は思うよ。伝達手段は言葉や音楽だけではなく見えない何かもあるのかも知れないね。

今どうなったかというと、どうでもいいことが増えたw そしてどこにいても一緒だと。逃げる必要もないし、逃げ場所を探す必要もない、と。その時はそん時で必死だったんだろうけどね。みんな未完成だからね、なんでも一足飛びには起きないなw

なぜかオイラだけ縁取りになったw
これもヒント?


水は汚れることを許可した

“汚れちまった目で見ていた”みたいなことも言ってた。自分にこういう言い方するんだぁ〜となんとなく心に残った。

先日、科学者と真理の話をする人?の対談を聞きに行った。何の話か覚えてないくてこの言葉だけ耳に残ってる。
「水は汚れることを許可した」
登壇した科学者の師匠が言った言葉みたいだけど、聞かされた本人も驚いたようで、あまり理解してないように感じた。

どうゆうことなんだろう。響きだけなら「何度でもやり直せる」的な捉え方をしてしまう。でも、彼のMCでもそう感じたな。

本当なら何度でもやり直しが出来るのが人生であってほしいと思う。
知り合いのチベット医が “どんな犯罪犯した人でも最終的には受け入れるおおらかさが、チベット人にはある”って言ってた。日本はどうなんだろう。。集団で生かされてる感があるから、みんなと違うものを排除する癖?はあるように思ってしまう。少しでも自分であるように生きていくことができたのなら、“他人の存在を消す”ようなことしなくなるのかね。攻撃は悲痛な叫びのように感じる時もある。。。結局のところ自分跳ね返ってくるだけなんだよね…(また話外れたww)

でも人って根本的なとこまで汚すことはできないと思う。人の中には光る何が必ずあって、その人のかすかに出てる光をキャッチする人もいると思う。それが出会だったり、縁なのかも(自覚あってもなくてもさ…)


まとめなのか?

なんか哲学のような感じになってしまった。自分が変われば、見え方も聞こえ方も変わるだろうに…なんて言ってしまったら↑この内容はもともこもないw

ライブのこと…MCしか触れてないww

「M八七」の照明めっちゃ綺麗だったなぁ〜。お客さんも演出の1部のようで…。あれを正面から見てる米さんが羨ましかったw

アルバムまだかな。。。

今度、あの苦手な画家の巡回展見かけたら行ってみよっかなぁ。。。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?