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「ありのままでいいよ」と「ありのままではいけないよ」のあいだ

ぜひ面白いのであすこまさんの記事を読んでいただけたらと思っています。

多様性という言葉が教育現場で多く使われるようになってきました。
ただ、この多様性という言葉が非常に厄介なんです。

勉強しないことも多様性の中に包括されてしまうから。

目の前で学ばないという選択をしている子がいたときに、皆さんはどうしますか?
授業参観に行って、学んでいない子がいたときに皆さんはどう思いますか?

違和感がありますか?

それとも、多様性の中で、学ばないことも認められていることに居心地の良さを感じますか?(その空間にいることで、弱い自分と出会うことで、学ぶこともたくさんありますが、今回はいわゆる学習という狭い範囲の”学ぶ”です)

今までの学校は、国籍も人種も年齢も性的な嗜好もみんな同じで当たり前でした。
10年くらい前までは、昨日見た面白かったテレビの話題を多くの子ども達が話していました。今書いたような、表面的な違いだけでなく、価値観や経験、受けてきた教育までもほとんど同じであることが求められてきました。それが当たり前になるように同調圧力が強く働いていました。

しかし、社会の変化と共に子育ても変わってきました。
子どもたちの遊びもまた変化しています。
今はもう、昨日見たテレビを話題にした話はありません。それぞれがそれぞれに見たいYouTubeやTikTokを見ている感じ。数人の仲間の中だけの共通話題はありますが。

そんな中で、不登校の児童が過去最多を示しています。
10年前は、小学校では1000人あたり3.9人の不登校児だったのが、令和4年のデータでは1000人あたり17人と4倍以上増加しています。
たった8年で4倍以上増加している現状です。

どうして不登校の児童が増加しているのか。

その原因の一つが学校の生きづらさにあると考えられています。
(文科省の調査では、不登校要因の50.9%が無気力や不安だと言われています)

そのため、「個別最適な学び」なんて言葉も使われるようになりました。

「個別最適な学び」つまり学びの個性化、多様性なわけです。ただ、実際は学校現場ではなかなか多様性が受け入れられません。
その原因は、あすこまさんのやはり「ありのままでいいよ」と「ありのままではいけないよ」の違いになるのだと思います。

「ありのままでいいよ」は福祉的な言葉です。福祉とはつまり幸せです。

「自分らしく幸せに過ごしていい」

「ありのままではいけないよ」は教育的な言葉です。
今のままではいけない、もっとがんばりなさい。

厳しく言うと「今のままではいけません。成長しなさい」
優しく言うと「もっとここを伸ばしていけるといいね」

この2つの矛盾を学校現場は抱えているわけです。

今までの学校では、
「みんなやってるんだからあなたもやりなさい」
「みんなと同じところまでできるようになりなさい」と発破をかけてきたわけです。
そうやって、今測ることのできる学力に関しては、OECD加盟国の中でも水準を高く保ってきました。

しかし、「みんな同じ」を前提とした教育が今崩れています。

昔は「みんな同じ」ことで安心していました。
今は「みんな同じ」ことに苦しむようになってきました。

私見ですが、その大きな要因として幼少期の遊びや暇な時間の過ごし方にあるのではないかと考えています。

スマホの動画が子育てや子どもの遊びの中に入ってきてから、子どもが社会に合わせて我慢することが減ったように思うのです。
車の中でも、電車の中でも、当たり前のようにスマホ画面を見て、楽しませてもらうことで、静かにはなる。

だけれども、社会的な場において静かに過ごさなければならないとは学べない。自分の思いと社会との間で調整していく能力も育たない。
自分の思いと親の願いと社会的なマナーの中で、静かにさせるために親も子どもに気を配り、子どもも自分のしたいことと社会の中で調整をとり、調整していくことを学ぶのだと思います。社会には一定の正解があって、何を言おうと思い通りには過ごせないという経験が大切なのだと思うのです。

今は厳しく言う親が白い目で見られてしまうようになりました。

「いいじゃない。それくらい。子どもなんだし。大人が合わせてあげたら」

そうやって本当は子どもが向き合い、成長しなければならないことから遠ざけてしまう。それは優しさではないように思うのです。

当たり前ですが「みんなが同じ」必要はありません。
多様性です。
しかし、多様性の土台には必ず共通性という言葉があります。
ホッキョクグマはアフリカ大陸で生きていくことはできません。
気候や食などの共通性がないからです。

どんな社会になろうとも、
自分の思いと社会との調整をしていく必要はあると思うのです。
今、そうやって社会との間で調整していく経験の少ない子供達が小学校に入ってきています。
そうやって育てた保護者からの「我が子中心のクレーム」も増えてきたように思います。
だから、学校では「ありのままではいけないよ」があまり言えなくなってきました。

私たちもまた、社会に合わせて変化していく必要があります。
しかしそれは子どもも同じです。
大人が立派になり過ぎるのも子どもの成長を奪ってしまうのかもしれません。

「ありのままでいいよ」と「ありのままではいけないよ」が
その子どもにとって、どこが挑戦できる割合なのかを見ながら接していく必要があるのかもしれません。

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